1.
「つまり、急に消えてしまった、と」
俺はケルピーに確認した。黒髪の男はうなずいた。
「ああ。おまえたちが、いなくなってすぐに。そっちに行ってるとは思わなかった」
トリスタンが、ちらりと彼を見やって言う。
「役に立たない馬だ」
ケルピーは、明らかにいらだった顔になった。
「うるせえよ、糞シーリーコート。犯すぞ」
「ケルピー! 子どもの前で悪い言葉を使うな!」
「ごめんなさい、もう言いません」
俺の前では今、煙をあげる男がうずくまっている。隣にはアーサーがいて、トリスタンとの間に距離を作ってくれている。色々あって、これが一番良い位置関係だという事になった。
トリスタンが挑発しまくるので、ケルピーが何度も俺に触れようとして、黒こげ寸前までになったのだ。アーサーが間に入って、何とか会話らしい会話ができるようになった。
「駄目です、トリスタンさん。それ以上タカシに近づかないで」
それまでの経緯も見てきたアーサーは、彼が要注意であると判断したらしい。やや緊張した顔で、俺のガードをしてくれている。
「私は君に幸運を授けたというのに。恩知らずだね、人間の子ども」
「タカシに対してより多く、恩を返す必要を感じています。話が混乱しますから、離れていて下さい」
何だかしっかりしている。九歳なのに。
「黒妖犬って、どんな行動が普通なんだ? 瞬間移動みたいな事もできるのか?」
ケルピーは首を振った。
「良くは知らない。俺たちは基本、他のやつらに興味ないし」
「トリスタンは? 亡者の群れ……ガブリエルの猟犬とか、詳しかったよな」
「あれは、必要があってね。黒妖犬については良く知らないな。あまり関わる事もないし」
「うーん……」
俺は困ってしまって、首をかしげた。
「なんでアーサーに目をつけたのかなあ? 俺に関しては、騒いだ自覚があるけど。アーサーは理由がわからない」
妖精の血を引いているからだろうか?
「黒妖犬って……そもそも、どういうものなんだ?」
トリスタンは、ふうと息をついた。
「アンシーリーコートについては、あまり口にしたくないのだよ。けれどそっちの馬は、頭が悪そうだしね……」
「なんだと、陰険騎士。頭が悪いのは、おまえもだろう。名前をど忘れしてるくせして」
「タカシが新しく名前をくれたから、問題ない」
涼しい顔でさらりと受け流すと、トリスタンは「あれは独自の判断で、色々やるんだよねえ」と言った。
「普通は、まあ。思ってもいない所に現れて、不用意に近づいたり攻撃しかけてきたりする人間に、恐怖と死をもたらしているね。基本は何もしないけれど。人間側が何か反応したなら、そっちに向かう。そういう感じだよ。でも時に、自分の判断で人間を追いかける事もある」
「そうなんだ? どんな人間を追いかけるの」
「猟犬たちにもそういう性質があるが……、罪を犯したり、穢れた魂を持つ人間だ。そういう魂を狩り出して、追いかけたくなるみたいだね」
アーサーがびくりとした。俺は眉をしかめた。
「アーサーが何か罪を犯したと?」
「さあ」
「俺も何かしたのか、そうしたら」
「それはない。だから多分、あれは普通ではないのだろう」
あっさりとトリスタンは言った。
「あるいは、この人間の子どもの、家系にまつわる因縁からかもしれないね。何かの契約があって、それを守らなかったとか」
「ぼくの……」
アーサーは何か考え込むような顔になった。
ばちっ。
そこで火花が散る。ケルピーが俺に手を伸ばそうとして、弾かれたのだ。煙を上げる手を抱えて、ケルピーはうずくまった。
「ケルピー。俺に触ると火傷するって、わかってるだろう。効果が切れるまで、近づいたらだめだ」
「だって、タカシがすぐ側にいるのに……」
ううう、と唸ってまた手を伸ばしてくる。
ばちばちっ。
「触れないぃぃ。触りたいぃぃぃ」
煙を上げながら煩悶している。そんなに悩む事ですか。
「そのままどこかへ行ってしまえ、アンシーリーコート。見苦しい」
トリスタンが冷たく言った。ケルピーが、がーっと怒りだし、そのはずみにまた俺に触ろうとして弾かれた。あちこち焦げつかせてばったり倒れた彼を見て、俺は息をついた。
「トリスタン。外してくれないか、これ」
手を差し出す。甲には銀に輝く印。
「なぜ。それがあれば君は安全だよ」
「このままだと、ケルピーがその内、回復しきれないほど大怪我をする」
「どうでも良いだろう、そんな馬」
醒めた口調で言ってから、トリスタンは付け加えた。
「それにあの黒妖犬は君も狙っているのだろう?」
俺は眉をひそめた。
「それとこれとは……」
「関係あるよ。君の事だから、出くわしたら自分に注意を向けようとするだろう? この子に向かわせまいとして」
アーサーの肩がびくりと震えた。トリスタンはかまわず続けた。
「触れられたら、君でも命はないよ。あれは生あるものには、死そのものとなるからね」
「つけとけ、タカシ。おまえに万が一の事があったら、悔やんでも悔やみきれん」
そこで煙を上げていたケルピーが、顔を上げて言った。
「俺はこう見えても、悪しき妖精の中ではそれなりの魔力を持っている。その俺を出し抜いて、あいつはおまえらを追いかけた。甘く見るな」
「自分の不手際を言い訳するのには、良い理由だね? 馬妖精」
トリスタンが言い、ケルピーは「むきーっ」と言って歯ぎしりをした。とことん気が合わないらしい。
「この根性曲がりの、腐れシーリーコート! あちこち喰いちぎって、ヒイヒイ言わせたろか」
「子どもの前で、汚い言葉を使うなってば! トリスタンも挑発しないでくれよ。ケルピーは、俺たちに協力してくれている。さっきは体を張って助けてくれた」
「ふん」
トリスタンが顔を背けた。俺は息をつくと、ケルピーに触らないよう注意しながら、彼の前に膝をついた。
「大丈夫か?」
「ああ、これぐらいは……」
「人間だけじゃなくて、妖精も食べるんだ?」
しまった。という顔をして、ケルピーは目線をそらした。
「俺は雑食なんだよ」
「それは知ってるけど……他のものじゃ駄目なのか? 食べるもの」
ケルピーは困った顔になっている。
「食い物は、……酒でも肉でも。本質を食っとけば、存在の維持はできる。だがアンシーリーコートにとって、生あるもの、形あるものを破壊するのは、本能みたいなもんだ。俺にとっては、恐怖も食事の一つなんだよ。おまえとの約束だから、人間は喰わない。だが、それ以上は約束させないでくれ。俺自身の魔力が枯渇する」
「そうでないと……駄目なのか?」
「俺はアンシーリーコートなんだよ、タカシ。そんな顔をするな。おまえの前ではやらないよ」
「そういう問題じゃないよ……」
「そういう問題さ。俺は、何かを壊さずにはいられない。生あるものを滅びに引きずり込むのに、快感を覚える。おまえにはしないが。おまえは生きて笑っている方が可愛いし、綺麗だ」
「だからこそのアンシーリーコートだ。近づかない方が君の為だ、タカシ」
トリスタンが、後ろから声をかけてきた。俺は首を振った。
「俺は人間だから、おまえたちの事良く知らないし、わからない。甘いのかもしれないけれど、……ケルピーは変化しようとしてくれた。そういう所が俺は、嫌いじゃないんだ」
「甘いね」
「ああ。本当に甘い」
トリスタンの声になぜか、ケルピーまでが同意した。
「おまえ、気をつけないと、いつか俺に喰われるぞ。俺は、おまえと同じ存在じゃない。俺に人間の心を投影するな。そんなものは持っていない」
「そうか?」
「そうだ」
水棲馬の化身の青年の目は、深い淵のようだった。見た者を奥底に引きずり込む、餓えたような何か。純粋過ぎて人間には持てないだろうその目は、近づいた者を破滅に誘う何かを持っている。
一瞬、くらりとした。
「そのものの目を長く覗き込む事は、破滅への道を歩み出した事と同じ。人間にはね」
そこでそう言う声がして、はっとなる。トリスタン。
「何かを隠しているように見える。誘惑されているように見える。けれどその実体は、憎悪と破壊。壊してやりたいという欲望だけ。……それがそのものの本質。それがアンシーリーコート」
冷たい指が俺の頬に触れ、シーリーコートの青年がすぐ側にいて跪き、俺の頬に手を伸ばしている事に気づいた。あっさりかわされてしまったアーサーが、「ああっ」と声を上げているのを無視して彼は、俺を至近距離で見つめた後、微笑んだ。
「君が何を、私たちに投影しているかは知らないがね。それは幻想だよ、タカシ。私たちに対する時は、常に君が優位に立たなければ。そうでなければ囚われて、人間としては終わりだ」
トリスタンの瞳の色が、薄桃色から変化している。じわりと滲む琥珀色。
「それが嫌なら、支配するのだね。私たちを」
「そういうのも、嫌なんだよ」
「なぜ?」
「友だちを……支配したいなんて、思う人間はいない」
「そう。でもそれができないのなら、君に人間としての未来はない」
綺麗な琥珀色。
いや、違う。金色。
彼の瞳。
光。
目眩がした。彼の瞳には力と魔力があり、ケルピーとは正反対の、引きずり込む魅力に溢れていた。目が離せない。一瞬で、その瞳以外何も見えなくなった。息すらできない。動けなくなった俺に微笑みかけて、トリスタンが顔を寄せてきた。その途端、
ばちばちばちばちっ!
ぐい、と引っ張られて地面に倒れた。「ぐおあ〜っ!」と悲鳴が上がった。目を上げた先で、黒こげ状態のケルピーが、ぶすぶす煙を上げて倒れ、ぴくぴくしていた。
「ケルピーさん! 身を張ってタカシを守るなんて……なんて献身的なんだ」
アーサーが言う。いや、献身的って?
「タカシ、こっち! なに呆然としてるんですか」
「あれ、いや、あの」
ぐい、と子どもに手を引かれ、俺は目を白黒した。今、何が。どうで、どうして、どうなったんですか。
「君、無防備すぎるよ。そこも可愛いけど」
トリスタンが、のんびりとした風に言った。瞳の色が薄桃色に戻っている。
「あっさり魅了にひっかかるような無様を晒して、私を失望させないでくれないか?」
「魅了……かけてたのか、今っ?」
シーリーコートの魅惑の魔法なんて、まともにくらったら、……あ、危なかった。危なかった、俺!
「ふふ」
笑ってから、トリスタンは立ち上がった。
「かけたよ。かけるに決まっているじゃないか? 君が隙を見せたんだから。それは私にとって、誘惑して欲しいって誘われたのと同じだよ」
誘ってません!
「良かった、間に合って。ホントに危なかったんですよ、タカシ!」
アーサーが、俺の腕にぎゅっとしがみつきながら言う。
「ケルピーさんが引っ張らなかったら、確実に唇を奪われていました。ありがとう、ケルピーさん。命をかけてタカシを守った、あなたの犠牲をぼくは忘れませんっ。どうかぼくたちの胸の中で、美しい思い出になって下さいっ」
興奮しているのか錯乱気味なのか、言っている事が変だ。何だかアーサーの性格が、少し壊れてきたような気がする。
「まだ滅びとらんっ! 勝手に思い出にするなあっ」
叫んで、ケルピーが立ち上がった。まだ煙があがっていたが、すごい回復力だ。
「そのまま滅びてしまえば良かったのに」
残念そうに、トリスタンが言った。
「おまえみたいな、陰険色魔野郎の前にっ! タカシを残して滅びていられるかっ!」
陰険色魔野郎……。
「エロ妖精と張りますね」
アーサーが言い、トリスタンは眉を上げた。
「何だね、そのエロ妖精と言うのは」
「タカシがケルピーさんに贈った名前です」
アーサーが言い、トリスタンは「ほう」と言った。
「エロ妖精。なるほど」
「うるせえよ。おまえに言われたくない、陰険色魔」
「タカシに言われるような、不埒な真似をしたのではないのかね、エロ妖精」
トリスタンとケルピーが、睨み合った。
「手足ばらばらにして端から食いちぎってやろうか、色魔騎士」
「剣で八つ裂きにされたいのかね、エロ馬」
「腹かっさばかれて、生きながら犯されたいか」
「手で触れるのも忌ま忌ましいな。矢で射抜いて磔にでもしたら、清々しいか」
「ははは」
「ふふふ」
笑い合う二人は、恐ろしく不穏な空気を漂わせていた。アーサーが俺にしがみついた。
「な、なんか怖いです、タカシ」
「心配するな、アーサー。俺もだ」
俺は少年を抱き返してやりながら、このまま逃げてしまおうかと、半ば真剣に考えていた。