2.
「アーサー。ここは妖精の世界で、妖精の法則で全てが動いている。あの黒妖犬は、俺と君に向かってきた。人間である俺たちだけじゃ、多分逃げ切れない。……まず、この事を理解してほしい」
静かに言うと、アーサーは黙って俺を見た。
「俺は君と約束した。君を必ず家族の元に帰すと」
「でも、それは」
「約束は守るものだ。そうだろう?」
微笑んで、俺はアーサーの頭をなでた。
「妖精にとって、言葉はとても重要なものなんだ。約束は決して破らない。トリスタンが君に祝福をくれると言ってくれたのは、とてても稀で、好運な事なんだよ。代償が俺のキス一つなら、安いぐらいだ」
「ぼくの事なら、ぼくが代償を支払うべきです」
アーサーは頑固に言った。そこでトリスタンが声をかけた。
「おまえでは支払えないよ、人間の子ども」
「なぜですか」
「私が手助けしたいのはおまえではなく、タカシだからだ。おまえは私が何かしてやりたいと思うほどの物を、何も持っていない。今の時点では。おまえは、タカシに守られているだけの存在なのだよ。私と何かを交渉する権利も何もない。
言っておくが、ここで出会ったのがおまえだけであったなら、私はおまえを見殺しにした。
タカシは我々にとって大切な存在だが、おまえは迷い込んだだけの、何も持たない子どもに過ぎない。気を惹かれる事も、興味も何も持てない、ただの人間だ。我らはタカシの意思を尊重するがゆえに、おまえに対して寛容であろうとしている。だが、それだけだ。それだけに過ぎない。
己が立場を自覚するが良い、人間の子ども」
アーサーは目を見開いた。何か言おうとして、でも言えなかったらしい。黙って唇を噛んだ。
「トリスタン。言い過ぎだ」
「事実だろう。タカシ、君、この子をかばって黒妖犬の標的になったりしていないかい」
俺が黙っていると、トリスタンはふうと息をついた。
「答えない所を見ると図星だね。君は本当に、小さなものや弱いものに対して甘いね」
「趣味なんだよ」
「そうか。だが、それで隙を見せるのは感心しないね。『成り金のセクハラ親父』とやらに」
苦笑気味に言うと、トリスタンは俺に近寄ってきた。俺が立ち上がると、ひょいと腕を伸ばして抱き寄せた。
「おい」
背後から抱きつかれる形になって、俺はちょっともがいた。白い騎士はかまわず抱きしめると、耳元に唇を寄せてささやいた。
「隙を見せてはいけないよ。私たちは人間ではないのだから。どれほど好ましい姿をし、人間に似た所を見せたとしてもね」
「トリスタン……?」
「軽々しく口づけを取引に使うなんて。私に対して。私がどういう存在か、わかっているのかね? 本気で口づけを交わしたら、一度で君の理性は消えるよ。メロメロの腰くだけになって、私の言うなりだ。人間の尊厳とやらを全てはぎとられて、戻れなくなってしまう。……そうなったらそのまま、連れて行こうと思っていたのだけれどねえ」
「メロメロ……どこで覚えてくるんだ、そういうフレーズ……」
そう言いつつ、ぞっとした。トリスタンがそう言うのなら、多分本当にそうなのだろう。
「理性の消えた俺が欲しいのか?」
「君が君であるのなら、私には変わらない」
「大きく変わると思うけどな。そうなったらそれは、俺じゃない」
「それでも君を手に入れる事はできる」
トリスタンは腕の力を強くした。
「人間を見ているのは、正直言ってつらい。すぐに死んでしまうから。君が死ぬのは見たくない。それよりは傷をつけても、歪めてもかまわないから、摘み取って自分の手元に置いておきたい。君に対してそう考える者は多いよ、タカシ。私を含めてね。気をつけるんだ。私たちに隙を見せるな」
「……」
妖精が人間をどう思っているのか、……時々考える。
妖精の感性や感情は、人間とはかなり違う。それでも時に、誰かを愛する事はある。ばあちゃんのように。
ばあちゃんは、じいちゃんを好きになって、結婚して、子どもを産んだ。でも妖精のばあちゃんと、人間のじいちゃんでは、寿命が違い過ぎた。じいちゃんは天国に行って、ばあちゃんは妖精の世界に戻った。
そうして妖精は、人間と同じ天国には行けない。地上で別れてしまえば、二度と会う事はできなくなる。
喪失の先の長い命。
愛した相手が失われ、二度と会えない痛みを抱えて生きるのは。存在を続けてゆくのは。どこかがねじれたり、冷酷さを備えたりするのには、充分な理由だろう。
彼らが時に、人間を誘拐して閉じ込めたり、やたら魂を集めたがるのは。その辺が起因しているのかもしれない。
かと言って、その行為を肯定できるわけでもないが。
「傷つくのも嫌だし、歪むのも嫌だな」
「なら、気をつけたまえ」
「そうする。ありがとう、トリスタン」
まだがっちり俺を抱きしめている男に、どうしようか考えてから、拘束されてうまく動かせない腕を何とか上げる。俺の肩に首を乗せるようにしている男の頬を、ぺちぺちたたいた。
「なんだい」
「いやちょっと。動かせないんで。腕」
「なら、じっとしていると良いよ」
「それもどうかと……離して欲しいんですが」
「離すと君は逃げるだろう」
「それはもちろん」
「もちろんなのか」
ぎゅうと力を入れられた。ぐえ。
「ぐ、ぐえ、みぞおち、みぞおちっ! 力弱めろ、食ったもの出る!」
「だって逃げるじゃないか」
「逃げないから! 体折れる! 酸欠になるっ!」
じたばたしながら言うと、ふーと息をつかれた。腕の力が弱められ、俺は、ぜえはあ息をついた。
「おまえ、力強いんだからさ……加減してくれよ」
「君が弱過ぎるんだよ」
「現代人はこれで標準だよ。剣も槍も日常装備じゃなくなってるんだから、筋力衰えて当然だろ」
白い騎士はまだ背後から抱きついている。
拗ねてるのかなあ、と思った。
片手を持ち上げると、今度は前より高く上がった。俺の肩に完全に顎を乗せてしまっている彼の頭をそれで、よしよしとなでた。
「……。そこの子どもと、同じ扱いかね」
「初めて会った時には喜んでたぞ。こうしたら」
「ほとんど自分を失っていた。大雑把な感情ぐらいしかなかったからね」
「こう言ったらなんだけど、小犬に懐かれた気分だったよ。おまえ、俺の後ついてまわってたし」
「私は犬かね」
「可愛かったよ。あの頃のおまえ。ぼーっとした感じで。いつもにこにこして歌ってた。守ってやらなくちゃって俺、思ってたんだぞ、子どもながらに。
その相手にいきなり拉致られて、監禁されるなんて思わなかったし……ショックだった、あれは」
あの時は、本気で悲しかった。自分の見ていたものが、綺麗で優しいだけのものではなく、危険をはらむものでもあったと、無理やり気付かされて。
ぼんやりした感じで優しく笑って、歌を歌う彼が俺は、好きだった。
でもそれは……本来の彼ではなかった。俺が見ていたのは、ただの幻想だ。自分にとって都合の良い夢を俺は、消えかけていた彼に重ねた。
悲しかったのも、傷ついたのも。だから、彼のせいではない。俺が間違えていたのだ。最初から。
それでもどこかで覚えてしまう感傷は……俺の弱さだ。本来の自分ではない姿を見せていたトリスタンにしてみれば、失礼も良い所だろう。
「君を愛しているからやった。私に恥じる所はないよ」
俺の思いに気付いているのか、そうでないのか。トリスタンは堂々と言い切った。顔を動かし、ちゅ、と俺の頬に口づける。
「ああっ」という声がアーサーから上がった。挨拶のものより少し長かった気がしたが、やがて唇が離れた。
「今ので契約?」
「不本意だが我慢しよう。挨拶と変わらないじゃないか、これでは」
「あー、まあ……うん」
悪かったかなという気がして、どうしようかと考えた。けれどその前に白い騎士は腕をほどき、俺から離れた。
「君の頼みでなければ、指一本動かしたくないのだよ。人間の為などには」
何だかむっつりした感じで言う。
「しかもこんな生意気な人間」
「すみません。よろしくお願いします」
謝ってしまう日本人な俺。するとトリスタンは、更にむっとした顔になった。
「その子どもの為に君が低姿勢になる、それが腹立たしい」
「そうですよ! タカシはもっと毅然としていて下さい!」
騎士の言葉に、なぜか同意するアーサー。おい。
「いや……アーサーは俺の預かりで弟みたいなものだし、頼んでるのはこっちだし……なんで君が怒るの、アーサー」
「タカシは誰にも頭を下げちゃ駄目です」
子どもはきっぱりと言った。何それ。
「ぼくはあの時、感動しました。一晩付き合えと言ったあの妖精を、言葉と態度で翻弄して、最後にはひれ伏させてしまった。すがる相手を足蹴にしようと言うばかりの冷酷な対応。王者の余裕に満ちた傲慢なまでの笑み。あなたは常にああでなくては」
「そんな事したの、君?」
トリスタンが俺を見る。
「足蹴……はしてない。傲慢な笑みって……アーサー、君、目に何かフィルター入ってる?」
「ぼくは、見たままを言ってますよ!」
「馬妖精を冷酷にひれ伏させ……是非見たかった」
「だからそれは誤解……なに喜んでるんだ、トリスタン」
「ふふふ。あの鬱陶しい馬をタカシが足蹴に」
「してないから。俺は単に説得、」
「すがりつく彼を、いたぶってました」
「素晴らしい」
「おまえら、人の話を聞け!」
怒鳴ってしまった。実は気が合うんじゃないのか、二人とも。