1.
フェアリー・リングは輪を描き、時は螺旋を描いて重なり続ける。無限に輪を描く時間の中で、私は一人の妖精と出会った。
A・ロイド『私の愛した妖精』より
ほのかに花の香りのする、やわらかな大気。光を含んできらめく青い空。鮮やかでいて、幻想的な野山の緑。
引きずり込まれたな。そう思った。
俺の名は瀬尾隆志。二十歳になったばかりの大学生だ。髪は栗色。目はスティール・グレー。光の加減によって茶色にも緑にも見える、妙な色をしている。
全体的に色素が薄い。顔だちも国籍不明な感じがする。子どものころはよく『ガイジン』と言われてからかわれた。日本人らしく見えないらしい。それには理由があって、俺の祖母は一応、英国人だった。対外的にはそういう事になっている。
だが実の所、そうではない。祖母ノーラは英国から来たと言えば来たのだが、人間ではなく妖精だった。留学していた祖父、隆史と恋に落ち、日本までついてきたのだ。ノーラは娘を産み、その娘、江利子が俺の母親となった。
そういうわけで、俺は妖精の血を引いている。自分の事は人間だと思っているが、祖母が妖精だった事もあり、幼い頃から良く、人間ではないものたちからちょっかいを出されてきた。異界に迷い込むのもしょっちゅうだ。今もおそらくそういう状態だ。これまでの経験から、俺はそう判断した。
確か、大学から帰る途中だったよなあ……。
自分の記憶を確認する。そうだ。大学に行くと講義が休みになっていた。理由は不明だが、その日俺が取っていた授業はことごとく休講になっており、一日がまるまる空いてしまったのだ。そうかと言って、何か予定があるわけでもない。そろそろ梅雨明け宣言が出されるだろう七月頭、突然の休みをもらって俺は逆に、困ってしまった。仕方なく家に帰ろうとして……、
思い出した。歩いていて角を曲がろうとしたら、後ろから車が来た。大型の外車。いかにもという感じの高級車だった。邪魔になるかと横に移動して、車に先に行ってもらおうとしたら、なぜか止まった。ドアが開いてそうして……、
あれ?
俺は眉をひそめた。そこから先が曖昧だ。
「誰かが出て来た……と思ったけど。なんで俺、こっちに移動してるんだ?」
美しい場所。美しい風景。目の前にあるのは、輝く空に緑の野山。りんごの木々が花盛りだ。白い花が美しい。大地にも花が咲き乱れ、鮮やかに世界を彩っている。流れる小川はりんりんと鈴に似た音を響かせ、銀色の光を放っている。肌に感じるのは魔力を含んだ大気。
ここは間違いなく妖精郷だ。排気ガスの匂いが漂う人間界ではなく。
「まさかと思うが、その場で引っ張られたんじゃないだろうな」
それなら突然の人間消失が起きている。向こう側では騒ぎになっているだろう。だとしたら、ちょっと嫌だ。
「まあ、それはそれだ。何とかなる」
しばらく考えたが、わからない事はどうしようもない。戻ってから何とかしようと棚上げした。今までの経験からも、うまく誤魔化せばどうにでもなる。人間は自分の常識が崩れるよりは、わかりやすい嘘を信じたがる生き物だ。実はマンホールのふたがはずれてて、落っこちてましたー、とか言っておけばOK。問題ない。
その顔でその性格は詐欺だと良く言われるが、俺は結構アバウトだ。……顔は関係ないだろう、顔は。
周囲を見回す。
「コーンウォール……? っぽいな。日本の風景じゃない。って事は、俺を呼んだのは、ばあちゃん関連か」
日本の妖怪系から妙なアプローチをされる事もあるが、英国から来た妖精の血を引いているせいか、ちょっかいを出されるのは、ケルトやアイルランド系の妖精からの事が圧倒的に多かった。
「何だか、肌がむずむずするし……大気中の魔力が妙に強い。何があったんだ」
首をかしげたが、とにかく情報がない。何か知ってそうな相手を見つけるしかないだろう。
そこで自分の所持品を確認する。妖精の時間は人間のそれとは違っていて、こっちで何日も過ごしても、人間の世界では一時間もたっていなかったり、逆にこっちの一時間が、人間の世界では何日にも相当していたという事もある。要はあまり人間向きではないのだ。早めに帰るのが一番。こういう時にはだから、使えそうな物を持っているかどうか、確認するのがくせになっていた。
鞄は持っていない。向こうに落として来たのだろう。ポケットにあったのは、
ハンカチ。
駅でもらったティッシュ。
食べかけのチョコバー。
キーホルダーと家の鍵。
『妖精天使タイニー・ケイティ』のミニフィギュア・ストラップつき携帯電話(表示は圏外になっている)。
……だった。
「役に立ちそうなもの、ないなあ」
天使の羽をはやしたボーイッシュな女の子のフィギュアを眺め、俺はつぶやいた。決めポーズをしている妖精天使は、イギリスの何とかいう小説家が書いたファンタジー小説、『私の愛した妖精』を原作としたアニメの主人公だ。
日本のアニメが大好きだという彼の作品にはオタクの萌え心を直撃するものが多く、この春にアニメ化された『タイニー・ケイティ』もそうした作品だ。天使でありながら地上に落ちて妖精になってしまったケイティが、世界に混乱をもたらす悪の女王と戦い、悪に染まった妖精を次々と改心させる。友情あり、涙あり、人間の男の子とのロマンスありの、変身魔女っ子系の物語である。
ちなみにケイティはなぜか、時々女王様モードになる。元・悪の妖精、今ではケイティの忠実な下僕(……)の青年カインをビシバシいたぶったりするのだが、その辺がたまらないと妙なファンが増殖中。
「瑠璃子、好きだもんなあ、これ……」
十三歳になる俺の妹、瑠璃子は『ケイティ』のファンで、グッズを集めるのに精出していた。このストラップは何かでダブッたとかで、無理やり押しつけられたものだ。
『ケイティって、お兄ちゃんに似てるよね!』
その時、瑠璃子は満面の笑みを浮かべてそう言った。俺は可愛い妹に怒りを炸裂させるべきか否か悩んだ。
「似てないだろ」
フィギュアを見つめてぼそっとつぶやく。茶色の髪に緑の目の妖精天使は、あくまでも可愛い女の子だった。ボーイッシュではあるが、女の子だ。二十歳を過ぎた男がこんなものに似ていたら、世の中大混乱だろう。
携帯やハンカチをポケットに戻すと、俺は歩き出した。
* * *
「あれ? タカシ。こっちに来てたんだ」
少し歩くと、ピクシーに出会った。しわしわの顔に茶色の上着。ブラウニー(家つき妖精)系の優しい小人だ。彼は陽気な笑顔で挨拶してくれた。
「やあ。何だかわからないけれど、迷ったみたいだ。誰かが俺を呼んだのかな?」
「そういう話は聞いていないけどね。ああ、それともあれかな? 人間の男の子が迷い込んでいるんだよ」
「人間の男の子が?」
「あんたも昔は良く、迷い込んでたよね。どうも『見る』目を持っている子みたいだ。いちゃいけない時に、いちゃいけない場所にいて、輪の中に入っちまったらしくてね。こっちにいる」
俺は眉をひそめた。妖精の輪。妖精たちが踊った後にできる輪だ。特定の時にできた輪は、思いもよらない力を発揮して、本来なら離れている二つの世界をつないでしまう。その子は故意か偶然か、そうした力を持った輪の中に踏み込んでしまったらしい。
「無事なのか?」
妖精の事を何も知らない人間が迷い込んだ場合、放っておいたら大変な事になる。ここには悪意を持つ妖精だって存在するし、妖精にとっての好意でも、人間には大迷惑という事は良くあるのだ。
俺も何度、可愛いからと食われかけたり、閉じ込められたりした事か。
「今の所は無事だよ。モーザ・ドゥーグに追いかけられていたんで、仲間が助けてやったんだ。あんたやノーラが、人間には優しくしてやれっていつも言ってるだろ?
なのにその子は、礼も言わずに叫んで逃げた。失礼じゃないか?」
モーザ・ドゥーグ、黒妖犬。マーザ・ドゥーとも呼ばれる。死と不運を運ぶ妖犬だ。生ある者がこの犬に触れられれば、即座に命を落とす。そんなものに追いかけられるなんて、さぞ怖かっただろう。
「その子を助けた仲間に、ありがとうと伝えてくれないか。多分、妖精の事は何も知らない子どもなんだ。何が何だかわからなくて、怯えているんだよ」
だが助けてあげたのに悲鳴をあげられた妖精には、不本意だっただろう。とりあえず、とりなしておく。ピクシーは陽気な笑みを浮かべた。
「別に気にしちゃいないさ。子どもは好きだしね。タカシ、あんたももう一度、小さな子どもになっちゃくれないかね? うんと可愛がるよ?」
「俺は大人になる事を選んだんだ、ピクシー。この自分が好きだから、子どもに戻るつもりはないよ。悪いけれど」
「そうかい、残念だね」
「それで、その子はどこにいるんだ?」
「丘の方だ。怖がって、穴に隠れてる」
教えてくれた方角に目をやると、緑の丘が見えた。
「助けに行ってくるよ。教えてくれてありがとう」
「なんてことないさ。ああそれより、キスしてくれないかい?」
頬にキスをすると、ピクシーはにこにこした。俺は彼に別れを告げると、丘に向かった。