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宵闇の貴公子の名前は、辺境伯家へ戻って特徴を告げるとすぐにわかった。
「エルテ王国のイザーク殿下、いや、現在は即位したからイザーク陛下だな」
エルテ王国はオートムヌ王国と違い、海に面している。
海を渡った南の大陸との貿易が盛んで、国の北端にある森に興味を持つものはほかにいないだろう、とお爺様は言う。
「とはいえ、南の大陸にすべてを賭けていてはなにか起こったときに困る。時化や嵐で船を出せない時期もあるしな。北のイヴェール帝国の侵攻に対抗するためにも、内地の発展と隣国である我が国との交流を大切にしたいというのが王族の意向だ。イザーク陛下の母親はこの国の……」
そこまで言ってお爺様は言葉を濁す。
私は知っていた。お父様が政略結婚の相手だったお母様に私を産ませたのは、隣国へお嫁入りした王女様のためだということを。
白金の髪の王女様は、お父様がただひとり愛した女性だ。
「……美しい方だったのでしょうね」
「だったというな。わしにはわからんが。わしにはお前やお前の母、そしてなにより婆さんのほうが美しく見えるんでな」
「ふふふ。ありがとうございます、お爺様」
国境を守り隣国との均衡を保つ辺境伯家は王国内の勢力図だけでは動かない。
お父様にとっては政略結婚だったけれど、お母様にとっては恋の果てだ。
もちろん王家にとって都合がいいから結ばれた縁組だったことは間違いなく、お母様のゴリ押しというわけでもなかった。
その日の夕食の後(献立は猪肉、本当に香草で包んで焼いたほうが美味しいと従兄弟達は驚愕していた)、私は部屋で薬を作った。
婚約者だったころのアルベール殿下にも作ったことのある栄養剤だ。
宵闇の貴公子ことイザーク陛下は、悲しそうだっただけでなく顔色も悪かった。きっと政務に疲れているのだろう。
「異国の……ある意味仇ともいえる男の子どもが作った薬なんて飲んでくれるはずないわよね」
瓶を揺らして、ひとり呟く。
隣国に嫁いだ王女様は跡取りの王子を産んで役目を果たした後は、王宮の離れに引き籠って先代の国王を拒み続けたという。
祖国の恋人を思い続けていたのかもしれない。
離れても続く恋があるのに、近くにいても重ならない恋もある。
栄養剤は黒く、彼の髪の色を思い出した。
アルベール殿下のために作っていたときは、こんな色だなんて気づいていなかった。
瓶の中で揺らめく夜の闇は美しく、私は見ているだけで胸がいっぱいになっていった。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
そして数日が過ぎた。
「もう勝手に動いたらダメだぞ」
「ちゃんとお肉分けるからな」
「待っててね」
「ええ、わかったわ」
従兄弟達を裏切るわけにもいかないので、私は次に森へ来ても彼を探さなかった。
栄養剤まで作ったくせに会いたくなかった、会うのが怖かったのだ。
ちゃんと恋忘れの薬を飲んだのに、ざわめき続ける心臓はなんなのだろう。……会いたい。会ってこの気持ちを確かめたいと、こみ上げる思いはなんなのだろう。
従兄弟達がどんな獲物を獲ってくるかを季節から考えて、それに合わせた香草も摘んでいく。
この前の猪肉に合う香草は、たまたま栄養剤の材料にもなるから摘んでいたのだ。
べつに彼のためじゃない。最近、国王陛下の愛妾と彼女の実家である伯爵家の人間が相次いで亡くなっていた。そこから生じた激務で疲れているであろう、王都の伯父様に送るつもりだったのだ。
枝を掻き分ける音がして、顔を上げる。
「……見つけたぞ、苺髪の姫君。毎日あの場所で待っていたのに、なかなか来なかったじゃないか。道を覚えるのが苦手なのか?」
「毎日森へ来ていたんですか? お仕事は大丈夫なのですか、イザーク陛下」
「なんだ。簡単に当てられてしまったな」
言いながら、イザーク陛下が私の隣に腰を下ろす。
「やめてください。薬の材料が潰れてしまいます」
「君は神に製薬の恩恵を授かっているんだったな」
「ええ。従兄は発火の恩恵を授かっています」
だから、どこでもお肉が焼ける。
「立ち上がって避けてください」
「隣国の王に対する態度とは思えないな。そんなに大切な薬なのか?」
「祖父の心臓の薬です。毒にもなるので口に入れてはダメですよ」
「そうか、悪かった」
彼は素直に謝って、私の籠に自分が好奇心に満ちた顔で摘んだ薬草を入れた。
「……惚れ薬の材料かと思った」
「そんなものはありません。それに、あるとしてもそれは薬ではなく毒です。私の恩恵では作れません」
「そうか。そうだな、恋は毒だ。……私の父は、幼いころからの婚約者だった隣国の王女に恋していた。二国の友好を深めて北のイヴェール帝国に対抗するための政略結婚だったが、それでも父は彼女を愛し、愛されたいと望んでいた。彼女が恋人である護衛騎士とともに嫁いでくるまでは」
「……え?」
「男は、美しい黄金の髪を持った伯爵家の次男だったという」
どういうこと? お父様の身代わりに同じ色の髪を持つ青年を同行させたの?
「王女は父の子を産んだ後、護衛騎士と王宮の離れに籠って好き勝手に生きた。病気で死ななければ薄汚い汚泥のような髪色の俺とは違う、金か白金の髪の子を何人か産んでいたことだろう」
「……」
「……どうして泣くんだ、苺髪の姫君。自分を愛していない母親から受け継いだ瞳の色のせいで、父親にも距離を置かれた王子はそんなに哀れか?」
確かに彼はオートムヌ王国の王族と同じ瞳の色をしていた。
アルベール殿下と同じ瞳の色だ。
でも栄養剤が夜の闇と同じ色だというのと同じように、私は今まで気づいていなかった。アルベール殿下の瞳よりもイザーク陛下の瞳のほうが好きだからだ。たとえ恋忘れの薬を飲んでいなかったとしても、私はそう思っただろう。
「私だって父親に愛されずに育ちました。でもお母様には愛されていたから、それほど不幸ではありませんね。……私が泣くのは意地っ張りの王様が泣けないからです。この前会ったときに思ったの。こんなに泣きそうな顔をしているくせに、どうして泣かないのかしら、って」
「そうか……本当に惚れ薬は作れないのか?」
「作れないし、作れたとしても作りません。好きな人の気持ちを無理矢理変えたりするのは嫌だもの」
「君は偉いな。俺は惚れ薬が欲しい。……君に飲ませたい。朝から晩まで君のことで頭がいっぱいで、その苺髪に触れた指が熱く疼く俺の気持ちを味わってほしい」
「……そんなもの飲まなくても……」
この数日間、朝から晩まで彼のことばかり考えていた。
彼に触れられた髪が熱く燃えて疼いていた。
会いたくて会いたくて、でも会うのが怖かった。私は愛されない娘だから……ううん、そんな言い訳はよそう。愛してくれている人々に失礼だ。
私が漏らした言葉を彼が拾う。
「今、なんと言った?」
「……」
私は目を閉じてキスを待つ。
毒は無数にあり、それぞれの毒にそれぞれの解毒剤が必要だ。
ひとつの毒が解毒されても、その薬が永遠に毒を解毒し続けることはない。
やがてイザーク陛下の唇が降りてきて、私に甘い毒を注ぎ込んだ。──恋は毒。
一滴のときめきさえ心臓を穿つ。
心が歪み、体が蝕まれていく。
だから、これで最後にして。
心臓を締めつけ息を止め、心と体を燃やす毒はこれが最後。
いつかこの命が終わるときは、この毒で終わらせてほしいの。
次回、「尊称を付けろよ、第二王子野郎!」