メサイアコンプレックス
「君は彼一人で最善のルートを選んで欲しいと思っているようだけど、それは叶わない。なぜなら人間は一人で幸せにならないから。彼一人では絶対に最善のルートは通れない」
杜撰な笑みを貼り付けて慈悲を込めるようにそう言う。そこに慈悲などないけれど。
憐憫ですらないただの嘲りだけれど。
ただそれは彼の思考と少し矛盾している。
彼は他人を愚かしくも愛らしいと思って救っているのではなく、ただの快楽の食事としてしか見ていない。
満ちない空腹を少しでも満たす為に目の前の皿にガサツに乗せられた食い物を呑み込む。
しかし、誰が目の前の食べ物を嘲笑うというのだろうか。彼の変態性はそんなものではない。
だからこれは愚かな人類を嘲笑するものなんかではない。
快楽の自己完結ができない自分への自虐だ。
「一人で幸せになれない……それは私も同意見だわ。けれどあなたは彼がせっかく思い直す機会を破壊してまで何がしたいの?快楽のためなのは知ってるけど、それを置いといても誰も傷つかずに円満に終わる方法だってあるはずよ」
完全な大団円とは行かずとも、間藤くんと手紙の彼女が納得するような幸せ。
その形が結果彼女の思いが実らない形に収まろうとも、彼ら二人が出した結末ならそれで良かった。
私達は彼の背中を押すだけで良かった。
でもこの男はシナリオを自分のいいように書き換えようとしている。
人の恋路を歪めさせるわけには行かない。
「快楽、性欲、欲望。僕の目的はそれを満たすため。そこに他人も幸せも心地よさも求めない。ただ一心にその苦悩の蜜は僕が独占出来ればいい。快楽の独占がどれほど心地よいか、殺人衝動を持つ君ならある意味わかるのではないの?」
ドス黒く濁った欲と快楽の海を支配する大蛇。
頭から流血している彼の姿は正しくそんな化け物に見えた。
彼の脳に私は殺されてしまいそうだ。
彼を知りたいという好奇心がありながらも、彼の全てを知って仕舞えば全てが終わる気が濃密にしていた。
「えぇそうかもね……ところで貴方、流血してるけど痛くないの?」
私が彼の問いかけへの答えを濁してそう尋ねると、笑顔の皮を剥いでまた灰色の顔に彼はなった。
それから少しもたたずに彼は近くにあった捨てられたアフロディーテ頭部像を拾い上げてーー自分の額を思い切り殴りつけた。
ゴンッ!
と、鈍い音がした。
止まりかけていた流血が傷口を抉られたことで溢れ出し、滴った血液が彫像を伝って床に赤くマダラ模様を描いていった。
私はその様子を見て絶句する。声帯を氷のメスで切り取られたように悲鳴を発そうとしても声が出なかった。
彼の顔は崩れない。喜怒哀楽どれにも中途半端に崩れず、痛みを堪えている様子もない。
その行為が何をいたしているのか私にはわからなかったが、狂気だけは伝わってきた。
私は一体何をすれば良いのだろうか?
いや、何をしたら許されるだろうか?
「痛くない」
「え?」
巡る思考の中彼は唐突にそう言った。
「僕は痛みを知らないんだ」
「どういうこと?」
「鈍器で殴られようが、刃物で刺されようが、君に殺されようが、僕は痛みを知らない。他人を救う快楽しか知らないんだ」
痛みを知らない。
そういう彼の瞳には今まで見た感情の中でも本物に近い純粋な気持ちが秘められている気がした。
私は彼が快楽を得た時の表情がどことなく偽物ーー真実でないものに感じていた。
嘘ではなくても偽物。
でも、今の彼に宿るその感情は彼の内側から正常に湧き上がる清水のような本物の感情だ。
寂しそう。
私はそう思った。
「痛くないのね、分かったわ。そんな大袈裟にやって見せなくても私は理解しているつもりよ」
「人は血を流すところを見るだけで心配する。僕がどれほど心配に値しないと言っても、ね。だからいつもこんな感じで痛みを感じていないと証明してるんだよ」
彼にとっては心配されることは苦痛なのかもしれない。
助ける側に回って快楽を得ているならば、痛みどうこう関係なく助けられる側に回るのは気分が悪いのかもしれない。
とはいえこんな正しく出血大サービスなパフォーマンスを見せられて心配をやめるのは決して痛くないのか、と理解したのではなく頭がおかしいと思われたからではないかと私は思う。
「痛くなくても保健室にはいくべきなのは確定ね。貴方が痛みを感じなくても体は悲鳴をあげてると思うけれど?」
「愛川さん。体が弱っている今こそ殺し時なんじゃない?君のその手で僕の首の骨を捻り折って見せてよ」
一転してふざけた態度に切り替わる。
この淫乱は煽りよる。
相楽くんは顎を上に上げて男性らしからぬ細く白い首を私に差し出す。
鎖骨の上にその両手を蛇の這わせて、煽情的に扼殺されることをイメージさせてくる。
血を滴らせながら、瞳孔の開ききった目をこちらに向けて恍惚の笑みを浮かべている彼。
あぁ……今すぐにでも嬲り殺したい。
こんな最低最悪な男、殺してしまう方が世のためになるかもしれない。快楽のために恋路を邪険に扱う破戒者なんていない方がいいのかもしれない。
それでもーーまだーー堪えなくちゃね
「あらあら?相楽くん、それはもしかして間藤くんの依頼が解決できないかもしれないから逃げているのかしら?」
「……んー?うんん。犯人は手紙を読めばだいたい見当はつくもんだよ。後は君にそれを伝えて僕はゆっくりと惨たらしく殺されるだけ」
間藤くんからいつの間にか受け取っていたハートのシールで封がされていたラブレターをズボンのポッケから出して私のほうに差し出してくる。
さぁ、続きを始めようか。と言いたげに呼吸を荒くしてこちらを見てくるが、そんなもの今はどこぞに放り捨てて解決策しなくてはいけないことだろうに。
「それがわかっているなら最初から言いなさいよ!さっさと本人のところに行くよ!」
「え?愛川さん?ここで僕をーー
「何言ってんの?こんなところで素手で締め殺したらバレるに決まってるでしょ?私刑務所で一生を終えるのは勘弁だから!」
彼の胸を両手で突き飛ばしてふざけた態度を破り壊す。
痛みを知らないのならどこまで転んでも痛くないのでしょう?
私はそんな不意に思いながら、彼の屍を踏み越えて旧校舎の出口に向かった。
「えぇ……」




