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家に帰りリビングに行くと、恵理子コーチと一緒に見知らぬ女性がソファーに座っていた。女性は俺に気が付くと立ち上がって頭を下げる。
「こんにちは」
いかにも真面目そうで、少しメイクが濃いめの中年女性。グレーのスーツをビシッと着こなしていて、いかにも“できる女”という印象であった。
「あ、こんにちは」
突然のことで少し驚く。
「こちら、未央のお母さんだ」
コーチが紹介してくれる。
未央の母親、か。
「で、こちらが歩夢。うちの生徒です」
俺は慌てて頭を下げる。
「とりあえず二人とも座ってください。今お茶を入れてきますから」
絵里子コーチは表情が少し硬いように見えた。未央の母親ということは、コーチにとっては義理の姉ということになるが、仲がいいわけではないようだ。
スルーして自室に戻ることは許されない雰囲気だったので、仕方がなく母親が座っているのと反対のソファーに腰かけた。
「歩夢には、私と一緒に未央ちゃんを指導してもらおうと思っていて」
コーチはそう紹介する。いやいや、そんな予定はないぞと心の中で抗議した。
「それはそれは。娘がお世話になります」
だが、ここで否定するのは流石に気が引けた。
だから代わりに母親が喜びそうなことを言うことにした。
「未央さんは信じられないくらいの才能をお持ちで、本当に驚いています」
お世辞というわけではなく本心から出た言葉だった。実際、女子でトリプルアクセルを跳べるというだけでも、歴史に残るレベルの逸材なのだ。
「そうなんですか。特別運動神経がいいほうというわけでもなかったので驚いています」
母親はあまり表情を変えずにそう言った。
しかし、運動神経がいいほうではない、と言うのはどういうことだろうか。
今の現役の女子選手でトリプルアクセルを跳べる人は一人もいない。つまり、少なくともジャンプと言う観点では、未央が世界一ということになる。それなのに「運動神経がいいほうではない」とは。
と、俺が不思議がっていると、会話が途切れてしまいリビングに気まずい雰囲気が流れる。
未央の母親は、いわゆる母性溢れる“お母さん”という感じではなく、気軽に雑談をするような雰囲気ではなかった。
だが、一つ聞いてみたいことがあるのを思い出した。話題を他に見つけられないことだし、この機会に聞いておくのもいいかもしれない。
「未央ちゃんに、本格的にフィギュアスケートを習わせる予定はありますか?」
未央がトップを目指すのであれば、一刻も早く練習を始めないといけない。
なにせ女子の場合、ジャンプ力のピークは十代の中頃に来てしまうのが一般的だ。高校生になるころにはスケーターとしての“旬”がきてしまう。
未央は11歳。同年代のトップ選手たちはすでにシニア顔負けの演技ができるレベルにある。その差を埋めるためには、一日でも早く本格的な練習をスタートさせたほうがいいのだ。
――だが、お母さんの反応は芳しくなかった。
「まぁ、未央がやりたいと言っていますし、勉強に差し支えない程度であれば、応援したいと思っています」
勉強に差し支えない程度、という言葉に小さな反感を覚えた。
「本人は本格的にスケートをしたいと思っているようですが、どれくらいの頻度で通わせてあげられそうですか」
思わず反抗的な声色になってしまう。それを感じたのか、未央の母親はすこし顔をしかめた。
「そうですね、週一回練習するくらいであれば」
……週一回だって?
フィギュアスケートは一日サボれば途端にジャンプの感覚が鈍ってまともに演技できなくなるような競技だ。
トップレベルの選手は年間を通してたったの一日も休まず練習をしている。週一回の練習ではどんなにスゴイ才能持ち主でも一流のスケーターになることはできない。
つまり、未央は世界一の才能を持ちながら、世界の頂点に立つ権利を放棄させられようとしているのだ。
「私は、未央がスケートをすることに反対なんです」
未央のお母さんは、ハッキリとそう宣言した。
最初、小学生の娘が習い事をすることに、そこまでの拒絶反応を起こす意味がわからなかったが、その理由はすぐに語られた。
「あの子の姉――未希もスケートをしています」
未希。
――高橋未希。
おそらく彼女の名前を知らない日本人はいないだろう。
出演したドラマは高視聴率を連発、バラエティや歌手活動でも活躍する国民的な子役だ。
演技をさせても、トークをさせても、歌を歌わせても、クイズ番組に出させても、何をさせても彼女はその圧倒的な才能を発揮した。
だが、彼女が何より力を発揮したのは――フィギュアスケートだった。
テレビの企画でスケートをはじめ、その後メキメキ上達。
昨年度はなんと全日本ノービスで銅メダルを取ってしまった。
ポスト・近藤レイカの呼び声も高い。これからの日本を代表するスケーターになるだろう。
「娘のことを自慢するようで恐縮ですが……未希は有名人です。きっと、その妹である未央が本格的にスケートを始めれば、本人の実力以上に注目されてしまう。未央が意味のないことで傷つくのは目に見えています」
……なるほど。未央がスケートを始めることに反対の理由が、一応は理解できた。
「未希には、世間の理不尽さを吹き飛ばす力があります。でも、今の未央にその力はないと、私は思っています」
未央が不必要に注目されることへの不安感なのだ。
その気持ちはわからないでもない。
――だけど。
お母さんは、娘のことを過小評価している。 どうして姉にできて、妹にはできないと決めつけるのだ。
「未央ちゃんは既に高い技術を持っています。もちろん習わなければいけないことは多いですが、二年もすれば、世界ジュニアに出て上位を争う存在になります」
一体いつぶりだろう。他人を本気で説得するなんて。
だが、肝心の相手は、こちらのいうことを聞く気なんてみじんもない様だった。
「娘の才能を買ってくださるのは本当にうれしいですが、結論は変わりません」
取り付く島もないとはまさにこのことだった。
「あの子は普通の子なんですから」
普通の子。
あの鮮烈なトリプルアクセルを見た後では、どうにも違和感のある言葉だった。
だってトリプルアクセルは、普通の子どころか、歴代のオリンピックチャンピオンさえ跳べなかった、ごく一握りの天才にしか与えられないものなのだ。それを跳べる未央が普通の女の子であるはずがない。
……だが考えてみれば、俺みたいなガキの言うことで娘の人生を決めてしまう親がいるはずはない。ある意味妥当な反応ではある。
「まぁ娘に才能があると言うことであれば……そうですね、例えば万が一、二か月後に未央が全国大会に出られるくらいまで上達したなら、本格的にスケートを習うことを認めますよ」
もちろん、未央の母親は本気で言っているわけではあるまい。マイナー競技ならいざ知らず、フィギュア大国日本の全国大会に、たった2ヶ月で出場するなんて絶対に不可能だ。
つまり、最初から未央にスケートを習わせる気なんてありませんよと。そう言うことだ。
「それでは、すみません、そろそろお邪魔します」
そう言って、未央の母親は立ち上がった。
「もう少ししたら未央ちゃんが帰ってきますよ」
コーチがそう言ったが、母親は「この後仕事がありまして」と返す。
「……じゃぁ、またいつでも来て下さい」
「ご迷惑をおかけしますが、娘のことをよろしくお願いします」
俺たちは一応玄関まで行って、未央の母親を見送る。
そして扉が閉まって未央の母親が見えなくなった瞬間、コーチが俺に問いかけてきた。
「2ヶ月、いや、1か月半で全国大会。つまり関東大会突破。お前はどう思う?」
全日本ノービスの予選である関東大会はは1ヶ月半後に開催される。コーチは、そこで未央が上位を取れる可能性を聞いてきたのだ。
俺は即答した。
「まぁ無理でしょうね」
小学生レベルの大会と侮ることなかれ。女子の場合、体重が軽い方がジャンプを跳びやすいこともあって、ノービスでもかなりレベルの高い戦いが繰り広げられる。
たったの一か月半で全国レベルになれるはずがない。
いくら未央がトリプルアクセルを跳べるからと言って、それだけでは演技にならない。スピン、ステップ、そして基礎的なスケーティングスキル。最低限覚えるべきことだけでも山のようにある。
そして、そのうえでプログラムを用意しなければいけない。一流の選手だってプログラムは半年以上の長い時間をかけて作っていくのだ。
それをたった一か月と半分で。普通に考えれば絶対に無理なことだ。
――だが。
このままでは未央という才能が陽の目を見ることはない。
果たしてそれでいいのか?
俺は自分の心にそう問いかけた。
だが、解決策は思いつかなかった。
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