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スケート&スカート!  作者: 天川太郎
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 ♪


 公式練習の後一旦ホテルに戻って昼食を済ませてから、女子シングルのフリーを観戦するために再び会場に向かう。

 昨日のショート、レイカはなんとショートプログラムで6位に入り、最終グループに残っていた。

 もっとも、6位にギリギリ食い込めるかどうかという中堅選手数人がが揃って失敗したというだけで、レイカがオリンピック代表に近づいた訳ではない。事実、上位陣との差は歴然で、3位との点差は15点以上ある。ジャンプが少ないショートでさえこの点差だ。フリーになればもっと点差は開くだろう。

 怪我からの復帰後と考えれば「大健闘」という評価もできる。

 だが、オリンピック代表を狙っての演技と考えると、ショートで白黒ついたと言うのが妥当だろう。

 ――どうあがいても、奇跡は起こらない。

 だから別に期待をしているわけではないが……

 結末だけは見届けなければと思った。

 観客席に、選手たちのために用意された一角がある。そこで最低限の拍手をしながら、序盤の選手たちの演技をぼうっと見つめた。

 第一、第二、第三グループ――ここに属している彼女たちは、オリンピックとは無関係。その演技を見ながら――それを自分に重ね合わせて――一体、何のために滑っているのだろうと考えた。

 そして――いよいよ最終グループ。

 六分間練習の開始が告げられ、まっさきにリンクへと飛び出したのはレイカだった。

 鮮烈な赤の衣装をまとって、勢いよく滑るその姿はかつての全日本女王にふさわしいものだった。

 だが以前と違うのは、トリプルアクセルや三回転三回転といった高難度のジャンプを一切跳ばないということだ。三回転さえも跳ばない。一回転のジャンプで軌道を確認するだけだ。

 六分間はあっという間に過ぎ去る。残り二分ほどというとき、レイカはリンクサイドに戻って来た。

 第一滑走の彼女は六分間の最後の時間を体力の回復に充てる必要があるが、それにしても休憩に入るのが少し早い。

 やはり、練習量が制限されている以上、体力不足というのはどうしてもあるのだろう。


【選手の皆さんは、六分間練習を終了してください】


 他の選手が全員引き揚げ、レイカだけが銀盤に残される。


【19番。近藤レイカさん、千葉クリスタルパレス!】


 ――大声援。演技後ならともかく、演技の前からこの大きさはちょっと珍しい。それだけファンのレイカへの期待が大きいということだ。

『さぁ、元世界女王、近藤レイカの登場です。かつてオリンピック金メダルの最有力候補と目されていましたが、二年間で三度のケガがありました。今でも彼女の足には三本のボルトが入っています。代名詞だったトリプルアクセルを跳ぶことは、もうできません』

 レイカの表情からは、――前回のオリンピックの時と同じように――人生を賭けて滑るというような気迫が感じられた。

『十月の時点では一回転を跳ぶのがやっとでした。それでも関東大会に出場。そして西日本大会では三回転を成功させて、この全日本の舞台に戻ってきました』

 かつて天才少女と言われた彼女だが、今では、凡人でも軽々跳ぶジャンプにさえ苦戦している。そんな状態で、しかし彼女はこの舞台に立った。それは――

『――オリンピックを諦めてたくない。そして、オリンピックの金メダルを諦めたくない。そう言いました』

 オリンピックはそんなに甘くない。

 今やこの全日本にも、天才少女がゴロゴロいる。最終グループに残った他の五人全員が、世界選手権のメダルを狙えるほどの実力者だ。ケガ人が勝てるほど甘い世界ではない。

『客観的に見れば、オリンピックははるか遠くにかすんで見えます。しかしショートでは、元世界女王の意地を見せ、この最終グループに残りました』

 リンクの中央に立った瞬間、近藤レイカは艶めかしいジプシーの女に生まれ変わる。

『最後は夢に殺されたとしても、それでも踊り続ける。逆転のカルメンです』

 オリンピックイヤーにとっておいた、とっておきの一曲。

 恋に生き、そして死んだ女性。

 圧倒的な情熱の象徴。

 紅蓮の美女カルメンは、まさにレイカのフィギュアスケートに対する想いを体現する。 

 今日は黒のアイシャドウが印象的なその眼。そのまっすぐな視線が見つめる先は――

 怪しげな旋律から物語は始まる。

 ――私だけを見ていればいい。

 全ての男を虜にする美女のハバネラから。

『さぁ、最初のジャンプは――』

『トリプルループ!』

『新たな三回転! ショートよりも難易度をあげてきました』

 かつて、トリプルアクセルを跳びこなした少女が、演技の冒頭、とっておきのジャンプとして用意したのはトリプルループ。

 得点はトリプルアクセルの半分程度だ。

 けれど、会場からは割れんばかりの大きな拍手。

『続いて』

『トリプルサルコウ! ダブルのトウループ!』

『コンビネーションも決まる!』

 つい数か月前まで、一回転もまともに跳べなかった。そんな絶望的な状態から、彼女は全力で這い上がってきたのだ。

『トリプルトウループ、ダブルトウループ』

 決して難易度の高いジャンプではないけれど、それでも彼女ジャンプはどこまでも力強かった。

 オリンピックへの思い。それは誰よりも強いのだと、

『チェンジフットコンビネーションスピン。ポジションの変化もチェンジエッジも良いです』

『さぁ、ここから、彼女の見せ場』

 演技中盤のコレオシークエンス。

 一歩一歩がどこまでも伸びる。スケーティングに無駄がないから、抵抗がどこまでも小さくなる。“漕ぐ”ということをまったくしないのに、どんどん加速していく。

 レイカと言えばジャンプというイメージが強い。だが彼女は何もジャンプだけで世界女王に上り詰めたのではない。

 卓越したスケーティングスキル。それが彼女の土台にあるのだ。

 そして、それはケガをした後でも健在だった。いや、むしろさらに磨きがかかっている。

『オリンピックを絶対に諦めたくない。彼女はそう語りました』

 どうして彼女のスケーティングは、これほどまでに強く、美しく、そして迷いがないのか。

 どうあがいても彼女がオリンピックに行ける可能性はない。 

 ――だが、そんな絶望的な状況で、それでも彼女は諦めていないのだ。

『たとえ最後は殺されたとしても、熱く、どこまでも熱く踊る、それがカルメンです』

 恋に生きた女、カルメン。

 彼女に人生を狂わされたドン・ホセ。

 今のレイカは、オリンピックという美女に人生を狂わされたドン・ホセにも、最後までオリンピックの夢という恋に生きたカルメンにも重なった。

 だからこそ、その演技はどこまでも美しく。

『ダブルアクセル、シングルループ、ダブルサルコウの三連続』

 彼女の物語はどんどん加速していく。

『フライングチェンジフットコンビネーションスピン』

『ああ、既に泣いている観客が、会場にいます』

 大きなケガをして、もう二度と滑れないかもしれない、そんな状況でも彼女がもがいてきたその苦しさは、俺にはわからない。

 でも、こうしてこの舞台に戻って来た彼女の演技を見れば、昔との差は一目瞭然だった。

 どこまでも深くスケーティングと向き合う。まるでひと蹴りひと蹴りが、氷との対話であるかのように。

 それはきっと彼女の銀盤への恋。

 パーカッションの一つ一つを、深く、深く、深く、どこまでも深く氷に刻み付けていく。

『――ここまで帰ってきました。さぁ、最後のジャンプ』

『ダブルアクセル』

『やりきりました!』

 そのジャンプから、観客たちの拍手が鳴りやむことはなかった。

 最後のストレートラインを全力で駆け抜けて――

 そして彼女が氷に膝をつき、曲が鳴りやんだその瞬間――

『近藤レイカが全日本に帰ってきました!』

 とうの昔に観客は総立ちだった。

 無数の旗が揺れる。

 無数の花束が舞う。

 零度リンクの上に立つ少女に、観客たちはどこまでも温かい歓声を送る。

『以前の様に難しいジャンプは跳べません。しかし、見てください。この会場を』

 ――戦うということ。

 これが、まさに戦うということなのだ。

 相手がどうかなんてことは関係ない。

 そうではなくて、自分が勝ちたいと思うかどうか。

 自分がオリンピックに行きたいと思うか。

 ――いや、そんな理屈はどうでもいい。

 ふつふつと何かが、心の奥底から湧き出てきた。

 単純にスゴいものを見せつけられた。幼い頃から一緒に滑ってきた仲間に、ものすごい演技を見せつけられた。

 だから、居ても立っても居られない。

 自分も、彼女を超えるような演技がしたい。

 そんな原始的な衝動。

『近藤選手と言えば、ジャンプというイメージが強かったと思うんですが、今日はスケーティング、それに表現力。素晴らしかったと思います』

『難しいジャンプが跳べない中、いまは演技全体の完成度。そこにこだわっていきたいと話しました、近藤。今日はそれを見事にやりきりました』

 もしかして、そんなことを期待させる――期待させてさえしまう、演技だった。

 レイカも、観客も――俺だって、祈るように得点の表示される画面を見つめる。

 さぁ――得点が出る。


『順位は――――6位!』


 だが、それが現実だった。

 プログラムの質をどれだけ高めていっても、高度なジャンプなしではオリンピックには届かない。

 それは、きっとレイカ自身もわかっていただろう。

『大健闘! 素晴らしい演技を見せてくれました!』

 でも、それでも、諦めずに戦った。

 絶対に勝てないとわかっていても、それでも戦ったのだ。

 そして、彼女は本当に素晴らしい演技をした。だから観客たちは惜しみない拍手を送る。

 ――画面に映ったレイカのその表情は、1割の納得と、そして9割の悲壮が浮かんでいた。レイカは次の選手の演技が始まるまでしばらくキスアンドクライに座り込んでいたが、やがて立ち上がってリンクの裏に消えていった。

 俺はそれを見て観客席から立ち上がり、彼女を追いかける。

 俺がレイカを見つけた時、ちょうど演技後のインタビューが終わったところだった。俺が声をかけるより先に、レイカがこちらの存在に気がついた。

「金メダル、逃しちゃった」

 涙はなかった。けれど彼女の瞳は確かに赤かった。

 幼いころから、ただひたすらフィギュアスケートにだけ打ち込んできた少女。

 周囲からも、絶対にオリンピックチャンピオンになると期待されきたこの少女が、今、その夢を絶たれた。

 その絶望感たるや、想像を絶する。

 ――オリンピックとはそういうものなのかもしれない。

 多くのものを魅了する。けれど、その女神に選ばれるのはほんのわずかな人間だけ。それ以外の人間に待っているのは、ただの絶望だ。

 その気持ちは痛いほどわかった。

 だが――彼女は最後まで戦い抜いた。

 本当に最後の瞬間まで、絶対にオリンピックに行くのだという決意とともに戦い抜いた。

 ――今の俺は彼女にかける言葉は持っていない。その物語の終焉を受け入れるのは、きっとレイカ自身にしかできないだ。

 でも、彼女の物語は俺の物語を変えた。

 ――俺も最後まで戦おう。例え無理だとわかっていても、それでも最後の瞬間まで戦うのだ。

 どんなに完璧な演技をしたって、翔馬に勝つことはできないかもしれない。 

 翔馬の強大さは凡人の想像を簡単に超えてくる。どれだけ強い決意を固めても、彼の演技を前にすれば圧倒されてしまう。

 それでも戦おう。

 やっぱり勝ちたいから。

 俺は白河翔馬に勝ちたいのだ。

「俺も、最後まで戦うから」

 俺は彼女にそう宣言した。


 ♪


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