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午前の練習を終えシャワーを浴びる。いつもなら昼食後もまた練習に戻るのだが、今日はこれで練習を切り上げなければいけない。
――親から、実家への召喚命令が下ったからだ。
実家はリンクから電車で一時間のところにある。帰ろうと思えばいつでも帰れる距離だ。
だが、この半年間一度も帰っていなかった。
半年間実家に帰らなかったのは、なにも忙しかったからじゃない。単純に親に会いたくなったのだ。
今回、召喚命令が下った理由も「親元を離れて生活している息子の顔を見たいという親心」では決してない。実家に行っても暖かく迎えられるなんてことはないのだ。
ものすごく久しぶりに下り方面の電車に乗る。平日の昼間なので電車にはほとんど客が乗ってなくて、余裕で座ることができた。
反対側の車窓を眺め、景色が流れていくのをなんとなく見つめる。
やたら時間の流れが遅かった。けれども、本でも読もうかという気分にもなれず、電車がただジリジリと実家に近づいていくのに身をゆだねる。
十分ほどで地元の駅に着く。そこからほんの5、6分歩くと実家が見えてきた。
久しぶりに見た我が家。だが実家に帰ってきたという安心感は皆無だった。
ドアの前まで来たところで、カバンのポケットを開き――そこで実家の鍵を忘れたことに気がついた。仕方がなく柵の外まで戻ってベルを鳴らす。
すると「はーい」という母さんの声がインターホン越しに聞こえた。「ああ、俺」と言うと、20秒ほどで扉が開く。
「おかえりなさい」
母さんは暖かい表情で俺を迎えてくれた。
「ただいま」
そう言ってから、靴を脱ごうと足元に目線をやると真っ黒な革靴が目に入った。靴を脱ぎながら「父さんいんの」聞くと「半休とったの」と母さんが答えた。
心の中で大きくため息をつきながら、自分の靴をキレイにそろえる。いつもは靴なんてほったらかしなんだけど。
そして玄関の横にある自分の部屋の扉を開けた。荷物をベッドに降ろして、はぁと大きくため息をつく。
父さんが既に帰ってきているというのはちょっと予想外だった。てっきりもう一時間くらいは猶予があると思っていたのだ。
――リビングに行けば“尋問”が待っている。
こんなにも気が重いのは一体いつぶりだろうか。
もう一度ため息をつく。そして俺はそのまま部屋を出て、いったんトイレに逃げ込んだ。便座に座り込み時間を稼ぐ。
そして2、3分経ったところで、もう一度大きなため息をついてから、水を流しトイレを出て階段を上った。
リビングに顔を出すと、ソファーに座っていた父さんと目が合った。
「おかえり。久しぶりだな」
その言葉は、威圧的というほどではなかったけれど、かといって優しさにあふれるという感じでは決してなかった。
「ああ久しぶり」
俺は一瞬迷った末、父さんの対面は避け、横の面に腰を下ろした。
「元気にしてるか」
「まぁね」
「大学の方はどうだ」
「ぼちぼちだね」
実際はほとんど行ってないのだが。
「単位はかなり残ってるみたいだが」
本当にありがたいことに、半期ごとに大学から各家庭に取得単位数の報告がいくのだ。
文系の場合、一般的には三年生の時点で卒業に必要な単位を9割方取得しているものらしいが、実家に届いた書類には、その半分も取れていないことがバッチリ記載されててしまっているはずだ。
「割と周りもそんなもんだよ」
これは別に嘘ではなかった……あくまでつるんでいる周りの人間に限った話だが。
「まぁ留年だけはしないように頑張れよ。最近は留年に厳しい世の中だからな」
「ああ、頑張るよ」
留年しないよ、とは言い切れない自分がいて、葛藤のすえそんなあいまいな言葉が出てきた。
「留年しても学費は出さないからな」
父さんは念押し、とばかりにそう付け加えた。
だが尋問はこれで終わり……というわけでは決してない。
「それで、就活の準備はしてるのか」
きっと、これが本題。
俺は今20歳、大学三年生。普通なら来年の三月から就職活動をする年齢だ。
……普通なら。
「まぁ、大学のセミナーみたいなのには行ったよ」
もちろん嘘だ。
だが、その嘘に他人から聞いた事実を付け加えることで、リアリティを出す。
「なんか就活本みたいなのを読み上げるだけだったけど」
「インターンとか、もう始まってるだろ。エントリーはしているのか」
そんなのしてるわけないだろ。内心そうつぶやく。
「今はシーズン中だから」
俺がそういうと、父さんは少し語気を強めていった。
「大体なぁ、良い企業はインターンで学生を囲い込むんだ。三月になってからじゃ遅いんだぞ」
大体なぁ、三年生になったからと言って、就活をするなんて、俺は一言も言ってないんだぞ。
そもそもなぜ俺がサラリーマンになるという前提で話が進んでいるんだ。
就職する気なんてないんだと、そう言ってやりたい。
……もちろんそんなことは口が裂けても言えないが。
今俺がスケートに専念できるのは、この人がスケートに必要な大金を黙って出しているからだ。
フィギュアスケートはものすごくお金がかかる競技。我が弟、白河翔馬のように超一流の実績を上げ、かつ世間からも人気がある選手なら話は別だが、ほとんどの選手は両親のお金に頼って競技を続けている。
つまり、親が金を出さないといったら、その瞬間引退を余儀なくされるのだ。
「とにかく、年内いっぱいでスケートには区切りをつけて、大学と就活に集中しろ」
「……年内?」
「何も今すぐに辞めろとは言わない。全日本を区切りにすればいい」
フィギュアスケートのシーズンは3月まで続く。
2月にはオリンピック、3月には世界選手権がある。
それなのに、年内を区切りにしろと。
つまり、父さんはこう言いたいのだ。どうせオリンピックや世界選手権に行くことはできはしない。だから、12月でキレイに引退できるだろと。
怒りで手が震えた。
でも、それなのに何も言い返すことができなかった。
世界選手権に行ける。オリンピックにも行ける。一生スケートで食べていける――そう言い切ることができなかった。
それが意味するのはつまり、俺の選手生命はあと一か月しかないということだ。
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