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全員の演技が終わり、少ししてから表彰式が行われた。
この後、ちょっとしたお疲れ様の食事会があるのだが、今日はこのまま帰ることにした。未央はどこにいるかわからなかったので、スマホで「帰ろう」と三文字だけのメッセージを送る。
すると、しばらくしてから「ちょっと待って」という返事が。
「歩夢さんッ!」
と、優勝の表彰状を持った未希ちゃんがこちらに駆け寄ってきた。
「連覇です! どうですか!」
と満面の笑みで聞いてくる。
「いや、本当に強い」
未希ちゃんの実力は、全国でも三本の指に入る。他の参加者たちとは正直レベルが違う。
「今年は歩夢さんと同じトゥーランドットを使ってるから、すごく気持ちよく滑れるんです」
未希ちゃんが今期のプロにトゥーランドットを選んだのは、俺が昨シーズンからこの曲を使っているかららしい。俺の演技を良いと思って、その曲を自分のプロに使ってもらえるというのは、スケーターとしてものすごくうれしいことだ。
思わずニヤけそうになる自分の顔を一生懸命引き締めていると。
――突然後ろから低い声がした。
「コーチ」
振り返ると、衣装から私服に着替えた未央が立っていた。
「準備できたか」
俺が聞くと、未央は無視して、代わりに袖を引っ張った。
「帰ろう」
その顔には涙はなかったが、いつもと比べて表情が暗いのは一目瞭然だった。
と、横で俺たちのやりとりを聞いていた未希ちゃんが、未央が引っ張っているのとは反対側の袖を引っ張る。
「えー! 歩夢さん帰っちゃうんですか!?」
「ああ、ごめん。今日は帰るよ」
「そんな。お食事楽しみにしてたのに!」
俺も決して食事会に出るのが嫌ではなかったが、しかし今日は帰るべきだと思った。
「ごめん。今日は帰るわ。また一緒にご飯食べよう」
俺が言うと未希ちゃんはしぶしぶという感じで袖を離した。
「約束ですよ」
「ああ」
俺は手を小さく振って未希ちゃんに別れを告げ、踵を返した。
――ついぞ、未央と未希ちゃんがまともに会話をすることはなかった。
いや、少なくとも今の未央にそれを求めるのは酷だろう。
きっと彼女は思ったはずだ――完敗だと。
いくら未央が天才だからと言って、たったの一か月の練習で数年の差が縮まるわけじゃない。現状、未希に負けているという現実は認めざるを得ないだろう。
すれ違う関係者に挨拶をしてリンクを出る。
沈黙が続く。吹き付ける風は、今朝よりも冷たく感じた。そして、駅までの道のりを半分ほど行ったとき――未央はようやく口を開いた。
「あいつに勝てる方法を教えてください」
その言葉を聞いて、俺は立ち止まった。つられて立ち止まった未央の顔を見ると、その瞳はさっきまでの暗いそれではなくなっていた。
代わりに――まさしくスケーターの表情になっていた。
未希ちゃんの演技を見て圧倒されたはずだ。
自分では絶対に勝てないとわかったはずだ。
それでも、彼女の口から出てきたのは「勝つ」という言葉だった。
「無理だろそりゃ」
俺は素直な、そして常識的な感想を述べた。
だが、それに対して未央はキッパリ言う。
「無理かどうかはコーチが決めることじゃない」
俺に勝ち方を聞いてきたのに、俺が無理だと言ったら、あんたの言うことは聞かないと。
「未希ちゃんは超強い」
ブロック内でトップなのは言うに及ばず、全国レベルで見ても――それは即ち、世界レベルで見ても――トップクラスの実力を持っている。
まともに戦っても、勝てるはずがない。
そして、フィギュアスケートにはまともに戦う以外の選択肢はない。試合当日までに9割方勝負は決まってしまっている。
試合当日にアッと驚く「盤外戦術」を用意することはできないのだ。
「別に未希ちゃんに勝たなくたって、全日本ノービスは目指せるぞ」
全日本ノービスに出場する条件は、関東大会で入賞すること。
優勝することではない。
未央の目的はフィギュアスケートを続けることだ。そのためには別に関東大会で未希ちゃんに勝つ必要はない。そんな無理をすれば、逆にわずかに残された全日本ノービス出場への道さえ閉ざされてしまうかもしれない。
だが、
「一番じゃないと意味がない」
彼女はキッパリそう言い切った。
その言葉は俺の胸に深く突き刺さる。
「わたしは高橋未希にずっと負け続けてきたから」
高橋未央は、姉のことを高橋未希と呼んだ。
それは、きっと誰よりも姉のことをライバルとして意識しているから。
国民的な女優で、歌手として紅白にも出て、勉強もスポーツもなにもかもできる天才。
そんな姉に、未央は今まで一度も勝てなかった――勝てないと思い知らされてきた。
それでも、そんな強大なライバルに勝ちたい。それが彼女の原動力の――熱量の正体。
「負け続けてきたからわかってる――今日勝とうとしないなら、明日もきっと勝てない」
振り絞る様に、彼女はそう言った。
――その気持ちは、よくわかった。
フィギュアスケートの史上おそらく最高の才能を持つ少女と。
これぽっちの才能もない俺と。
その対極にいる二人をつなぐたった一つのもの。
――圧倒的な姉弟に勝ちたい。
そのルサンチマンが俺たちを突き動かす。
絶対に勝てないとわかっていても、勝つまではきっと止まれないのだ。
「そうだな」
常識で考えれば、スケートを初めて4か月の子が、国内トップレベルの選手に勝てるはずがない。
それでも、
「お前が勝つとしたら……」
俺は自分の弟子に、俺が持ちうる最強の技を教えることにした。
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