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スケート&スカート!  作者: 天川太郎
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『オリンピックの代表枠がかかった演技。白河歩夢の戦いが始まります』

 ただ一人佇むは広大な銀盤。

 その冷たさに直接触れているわけではない。少なくとも今この瞬間は。

 だが空気から伝わる冷たさは確かに俺の体力を奪う。

 ――この冷たさで冷静になれたらどれだけいいだろう。

 アリーナを埋め尽くす観衆。彼らの視線もまた冷たかった。そりゃそうだ。彼らがプレミアの付くチケットを買ってわざわざここまで来たのは、何も俺の演技を見るためじゃないんだから。

『歩夢選手にとって初めての世界選手権。弟の翔馬選手とともに兄弟で挑む予定だった本大会。翔馬選手は、世界選手権四連覇がかかっていましたが、インフルエンザで欠場』

 そう。この会場にいる人々の目当ては俺ではなく、弟の白河翔馬だ。

 白河翔馬。

 オリンピックチャンピオン。

 世界選手権、グランプリファイナル、全日本選手権、全てで三連覇。

 前回のオリンピックから無敗。

 まさにフィギュアスケート史上最強のスケーター。

 それが俺の弟、白河翔馬だ。

 だが、あの憎たらしい最強の男は、この世界選手権をインフルエンザで欠場。

『日本がオリンピックの出場枠を二つ以上獲得できるか、全ては兄の歩夢選手にかかっています』

 この世界選手権においての日本人選手――つまり俺の成績次第で、来年行われるオリンピックの日本の代表枠の数が決まる。

 そして、制度上、俺がこれからどんなにひどい演技をしても、日本の代表枠が一つ以下になることはない。つまり、常勝無敗の白河翔馬がオリンピックに行くためのチケットだけは既に確保されているのだ。

 では俺の演技には何がかかっているか。

 それは、俺自身がオリンピックに行く可能性。

 日本代表の一人目は確実に白河翔馬だ。なぜなら彼は今まで一度も負けたことがないのだから。例えきっと代表選考会である全日本に出場しなくても、翔馬は確実に代表に選ばれるだろう。

 であれば、俺がオリンピックに行くには、二つ目の代表枠が必要。

 そしてその二つ目の代表枠を獲得するには、この大会で最低でも10位に入らないといけない。

『自分らしい演技がしたい、そう語っていた白河歩夢』

 リンクは静寂に包まれる。

 自分のブレードが氷を削る音がだけが甲高く響く。そしてその残響が残るうちにヴァイオリンの旋律が鳴り始め、演技は始まった。

 曲はニーノ・ロータの“ロミオとジュリエット”。

『さぁ最初のジャンプはもちろん四回転』

 人類の限界点――クワドラプルジャンプ。

 限界を超えられる人間だけが勝者になれるフィギュアスケートにおいて、四回転は避けては通れない。

 公式練習では、六本中一本しか決まらなかったが――

 俺は、氷の冷たさから逃げるように跳び上がった。

 刹那の跳躍。全てが線となりスパイラル――。

 絶望的な遠心力。肢体がバラバラになってしまわないように身体の芯の方に全てを引き付ける。

 その瞬間だけは、俺が俺でいられる瞬間だった。

 だが、その逃飛行は、あっという間に終わりを告げる――零度の冷たさとともに。

『四回転のトウループ……転倒です』

 観客からため息が漏れたのがよく聞こえた。

『一つ目の四回転は転倒。ここから巻き返したい』

 実質的には“減点方式”の要素が大きいフィギュアスケートで、転倒は取り返しがたい失敗だ。

 だが、まだ失敗は一つ目。俺にはもう一度挑戦する権利がある。次を決めれば、オリンピックへの可能性はまだ残る。

『予定ではこの後にもう一つ四回転』

 さっきは力みすぎた。今回はその反省を踏まえてスピードは抑え目で、慎重に――

 ――だが、今度は全力の跳躍さえ許されなかった。

『四回転の予定が、二回転になりました』

『うーん、二つ目の四回転も失敗』

 ――終わった。

 十五年間夢見てきたオリンピック。

 見えるところまで来ていたその大舞台が、いまこの瞬間に目の前から消えた。

 いや、消えたというか、俺が勝手に転がり落ちて見えなくなっただけか。

 ――――――――

 ――――――

 ――――

 ――気が付くと、演技が終わっていた。

 ついでに、リンクも観客も消えていた。

 真っ暗な空間だけが残った。

 そこには光はおろか、氷の冷たささえなかった。

 そして突然、暗闇の中に弟の姿が浮かび上がる。 

 彼の足元には、まるで落ち葉のようにメダルが散乱していた。あれは今年の世界選手権、そっちは去年の世界選手権、そして三年前のオリンピックのやつも――全て無造作に捨て置かれていた。ほとんど全ての選手にとって、一生かけても手に入らない“一番”と言う勲章も、彼にとってはまったく意味がないものなのだ。

 彼の視線はまるでブレードのように鋭かった。でも、それは俺に向けられたものではない。彼はもっとはるか遠くを見ているだけなのだ。

「オリンピックにもいけないくせに、何のために演技するんだ?」

 ふと彼の言葉が響いた。その言葉は俺の十年よりもはるかな重さと速さを持って、俺の心をえぐっていった。

「お前がスケートをやる意味なんてな――


 ――つんざくようなアラームの音。


 弟の残像が残るまぶたを開けると、朝の光が少しばかり入ってくる。

 目覚ましに手を伸ばして、俺を暗闇から救い出してくれたその不快な音を止めた。

 ――悪い夢を見ていた。

 でも、目覚めた今でも「夢だったのだ」という安心感はなかった。

 夢というよりはもはや記憶に近い。

 なにせ、オリンピックの代表枠をかけて戦ったのも本当なら、ボロボロの演技をして日本の代表枠をたった一つにしてしまったのも本当なのだから。

「はぁー」

 わざとらしく息を吐く。

 早起きには慣れている。でも、気持ちよく起きられる日と、そうでない日があるのは間違いない。言うまでもなく今日の目覚めは最悪だ。

 俺はゆっくりと上体を起こして、壁際においやられてクシャクシャになったブランケットをぼうと見つめた。

 とりあえずやる気が起きない。

 かといって二度寝をすると生活のサイクルがズレてしまうのはよくわかっている。なので、俺は少しだけ体を起こして、机の下に置いてあった雑誌を手に取った。

 写真多めのその雑誌を眺める。

 うん、やっぱりいいなぁ。

 そうしてやる気を充電していると。

 唐突に。

 一人の女の子が、ノックもなしに俺の部屋に侵入してきた。

 少女の可憐さを残した顔つき。すらりとした肢体。そして長く伸びた黒髪は眠気眼で見ても美しい。

 ――近藤レイカ。

 フィギュアスケーターだ。

 俺と同じ神崎恵理子コーチに教わり、コーチの自宅に下宿している。つまり俺の同居人である。

 ……まぁ、同じ家で同じコーチに教わっていると言っても、俺との差は歴然な訳だが。

 大会で一度も優勝したことがない俺と違って、レイカの実績は凄まじい。全日本優勝4回、グランプリファイナル優勝2回、世界選手権優勝2回、オリンピック銀メダル。

 間違いなく史上最強のスケーター――だった。

 そう。過去形だ。

 彼女は前回のオリンピックの後三度も怪我をして、今ではもう難しいジャンプを跳べない体になってしまっている。

 最近ようやく練習を再開したが――もはやオリンピック出場は叶わないだろう。

「……何読んでるのよ」

 と、おはようのあいさつもなしにレイカはそんなことを聞いてきた。

「何って、見ての通りだけど」

 やれやれ。疲れて、視力が悪くなっちゃったのかな?

 俺はしぶしぶ雑誌のタイトルを読み上げる。


「ロリコン天国」


 俺はそう答えてから、ページに視線を戻した。

 ページをめくり、小さな女の子の楽園を堪能する。

 だが、その後レイカが去っていく音がしなかったのが気になって、部屋の入口に目を向けると、そこには口をあんぐり開けた幼馴染の姿があった。

「なんだよ、まだなんか用あんの?」

 朝の貴重な読書タイムを奪わないでほしいものだ。

「……どうしてそんな雑誌を読んでるの?」

 とレイカはさらにそんな質問を投げかけてくる。

 まったく、どうしてそんな当たり前のことを聞くんだ……

「そんなの、小さい女の子が好きだからに決まってるだろ」

「……21歳の、成人した男性が、小学生の女の子をいやらしい目で見るのがマトモだと思う?」

「いやぁ、流石に幼稚園児は性的な目では見れないよ」

「誰もさらに下に行けとは言ってない!」

「いや、でも待てよ。最近の幼稚園児は発育がいいからな……いままで食わず嫌いしてきたが、よくなかったかもしれないな……」

 俺は“ロリコン天国”を脇に置いて、充電していたスマホに手を伸ばし、通販サイトの検索欄に“幼稚園児 雑誌”と打ち込む。

 と、レイカはズカズカ近寄ってきて俺から携帯をふんだくった。

「これ以上新しい趣味に目覚めるのはやめて!」

「おいおい、朝から何怒ってんだよ……」

 まったく、成人した女の思考はよくわからん。

 と、再び雑誌に視線を落とすと、レイカがピシャリと言い放つ。

「チビだから、自分と同じ小さい女の子が好きなのね」

「俺をチビ呼ばわりするのか!?」

「チビ呼ばわりもなにもあんたはガチでチビでしょうが」

 くっ。確かに俺の周りを見渡すと、俺より身長が低い人間はほとんどいない。

「……俺より身長が高いやつは全員敵だ」

「それじゃぁ、身長159センチのアンタにとって、世の中のほとんどの人間が敵になっちゃうじゃない」

「159センチじゃない! シークレットブーツを履けば161センチになる!」

「……厚底したら誰でも身長伸びるわよ」

「俺より身長高いヤツは全員死ねばいいのに」

「当然私もその中に入るわけよね」

「さりげなく自分が高身長なことをアピールするのはやめてくれ」

「私、別に身長高くないわよ。アンタがチビなだけで」

「俺はチビじゃない! 世間の人間の身長が高すぎるんだ!」

 まったく、この女は朝から俺の自尊心を踏みにじってなにが楽しいのだろうか……。

「とにかく、俺は忙しいんだ。用がないなら帰ってくれ」

 なんか幼馴染がものすごい剣幕で俺のことをにらみつけてるが、ここは無視して読書に戻ることにしよう

「っていうか、そんなヤバイ雑誌、どうどうと所持してんじゃないわよ。もっとコソコソみなささいよ。せめてネットで見るとか」

「俺はネットは嫌いだ」

「なんでよ」

「……ネットには見たくない情報があふれてる」

 俺が答えると、レイカはポンと手を打った。

「確かにね」

 そう。ネットはまったくもって不快な情報がであふれているのだ。

「そういえば、こないだ面白い記事を見つけたんだけど」

 と、レイカが突然俺にスマホの画面を突き付けてくる。

 それは某巨大掲示板のスレッドをまとめたものだった。


【白河翔馬には、何から何まで真逆の兄がいる件についてwwwww】


「やめろぉおお! そんなもの俺に見せるんじゃない!」

 白河翔馬。

 俺がこの世で最も憎む――弟の名前だ。

「――弟は、身長180センチ、兄は160センチ」

「ヤメテ! 読み上げないで!」

 俺は耳をふさぐ。だが、レイカは耳元まで口を近づけて大声で続きを読む。

「――弟はジュニアから出場したすべての大会で優勝、兄は国内大会も含めて一度も優勝したことがない」

「本当にヤメてください! 俺のプライドが砕けてしまう!」

 だが、俺が何を言ってもレイカはまとめサイトを読み上げるのをやめなかった。

「――弟は名門W大学、兄は三流私大」

「うちの大学は三流大学じゃない! 二流大学だ!」

「……よくもそんなに堂々と自分の大学をディスれたわね」

「偏差値だって60もあるんだぞ!」

「アンタはスポーツ推薦でしょうが、このバカ」

「もうやめて! 白河歩夢のライフポイントはとっくにゼロよ!」

「――そして、度し難いことにwwww兄はロリコンらしい」

「ロリコンは悪いことじゃないだろ!」

「いや。他の何より致命的でしょ……」

 ……げんなりだ。

 なんか朝から疲れてしまった。

 そんな俺の姿を見て、レイカは満足したようでクスクス笑いながら俺の部屋を出ていった。

 ……とりあえず眠気はどこかに消え去った。

 俺はよろよろ立ち上がり部屋を出る。階段を降りると、ちょうど家主がテーブルに食事を運んでいた。 

「おはよう」

 寝巻きを兼ねている黒色のジャージ。その上からでもスタイルの良さは際立って見える。

 神崎恵理子。現在26才。職業はフィギュアスケートのコーチで、今は主に俺とレイカを教えている。

 現役時代はペア競技で実績を残し、バンクーバーオリンピックの日本代表を務めた。

「おはよう」

 俺はそういってテーブルにつき、すぐに手を合わせる。

「いただきます」

 とは言いつつも、朝起きていきなりバクバクご飯を食べられるような体質はしていない。まずはコーヒーを一口飲んで虚空を見つめる。

「今日、練習のあとどこかに行かないよな」

 コーチは突然そんなことを言ってきた。

「行かないけど、なんかあんの」

 聞き返すと、コーチは不敵な笑みを浮かべた。

「まぁちょっとしたサプライズがある」

「なにそれ」

 サプライズ?

「まぁお楽しみにしておけ」

 なんだろう。想像力が欠如しているのか、何一つサプライズな展開が予想できない。

「じゃ」

 そう言ってコーチはリビングを後にした。

「また後で」

 俺は静かなリビングでパンをかじりながら、コーチのいうサプライズが何なのか考えたが、皆目見当がつかなかった。

 結婚でもするのか。それが俺の出した唯一の答えだった。今までそんな気配これっぽっちも見せなかったけれど、それはありそうだと思った。

 なにせ26歳。美女。アスリートからコーチ業に転身して三年。そろそろそういう時期だろう。

 まぁいずれにせよ、これ以上考えても答えはわからない。俺は早々に答え探しを諦めたのだった。


 ♪

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