第一話 前編
十六夜の月明かり伸びる深夜丑三つ時。さしもの帝都東京でさえ寝静まる時刻。
上野広小路で拾った客が指定した行き先は本所陸軍被服廠跡だった。
運転手は陸軍被服廠跡近くの路地に乗合自動車を停めた。自動車は米国から輸入されたT型フォード。もっともここ帝都で見られる車輌だ。市電が復旧中の今、自動車は重宝される。
「旦那、こんな時間にこんな場所で何をされるんで?」
運転手が訪ねる。
「ちょっとした仕事さ。ほれ、代金な。ここは危ないからすぐに離れた方がいい」
運転手は男から料金を受け取りながら、後部座席の二人を見た。
男はトレンチコートを纏い、その下には仕立ての良さそうな三つ揃いの背広――どこぞ名のある洋品店で仕立てたものだろうか――を着こなし、いっぱしの紳士に見える。
青年、いや中年にさしかかるであろうかの年齢。無精髭が目立つが、髪はこざっぱりと整えられていた。
目付きは鋭く、今この瞬間も何かに警戒を怠らないよう緊張している事が分かる。
しかし、軍人や警官、刑事の類には見えない。それは連れ合いからも明らかだ。
男の連れ合いは年の頃13,4位、正月の神社でしか見かけないような巫女服を纏った少女。
碧の黒髪を頭の後ろで一つに縛っている。その瞳は黒々と濡れて、見ているこちらが引き込まれそうだ。そして西洋人形の様な白磁の肌。緋色の袴から伸びる脚もまた艶めかしい。まだ化粧気のない、どちらかと言えば”美しい”では無く、”可愛い”と形容すべき存在だ。
運転手は少女に魅入られたのかどうかは分からぬが、こう二人に告げる。
「こんな時間のこんな場所じゃ、乗合も捕まりませんぜ。あっしがこのまま待っておきましょうか」
男は答える。
「そうか。なら助かる。でも、決してここから動いたり、外を見たりしなさんなよ。そして、危ないと思ったら一目散に逃げ出して構わない」
「へえ、なんぞ危ない事でもされるんですかい」
運転手は暢気に言った。
「怪異退治さ」
運転手は驚く。怪異! 昨今帝都を騒がせているあれか、と今朝読んだ新聞記事をを思い出した。
「旦那、旦那はともかく、そっちのお嬢さんは危ないんじゃありやせんかい」
男は笑って答えた。
「ふふ、俺は只の弾除けさ。本当に怪異を退治するのはこのお嬢さんだよ」
運転手は目を見開く。
「そうどす。うちがおらんと、俊達はん、何もできませんさかいに」
少女が言う。京訛だろうか、のんびりとした口調だが言葉の端々に棘がある。
「さっさと行きましょ。早うしないと被害ばっかり増えますえ」
「そうだな、行こう初子さん。さっさと帰って一杯やりたい」
運転手はあっけにとられた。相手はあの怪異だ。怪異を相手にするのになんと飄々としたことか!
運転手は「ご無事で」と言うのが精一杯だった。
◇
街灯も無く舗装もされていない路地を男――小野俊達――は紙巻き煙草に火を付けながら歩く。
少女――荷田初子――は嫌そうな顔をして後に従う。煙草の臭いが嫌いなのだろう。
静かな路地に俊達の革靴が土を踏みしめる音と、初子の草履の足音のみが聞こえる。
月が煌々と辺りを照らし、懐中電灯など無くとも十分な明るさだ。
「俊達はん、これから怪異退治だと言うのに暢気どすなあ」
「戦場では常に余裕を持たなければね。西部戦線の塹壕で学んだよ」
俊達は紫煙をふうっと吐き出す。
「そうどすか。そろそろ怪異が見えてきませんかえ」
周囲に瘴気が満ちてきた。そして、うなり声とも叫び声ともつかない咆哮が聞こえる。 何時もと同じ。怪異が現れた時に発生する現象だ。
咆哮からして、数は……ひの、ふの、六つばかりか。
「急ごう、まだ被服廠跡は何も無いから被害は無いけど、街へ行かれちゃたまらない」
焦ってまだ吸い終わっていない煙草を投げ捨てながら俊達が言う。
「はい。分かりましたえ」
二人は駆けだした。
◇
何も無い、全く何も無い焼け焦げた広場。避難した子供の所持品だったであろうか、お手玉や手鞠の焼け残りが転がる。
風は凪。酷いすえ着いた臭いが残るのは、ほんの三月ばかり前にこの場所に大量の焼死体があった為か。
電灯も無く、人気も無いこの場所はこの時間に人が居ようはずも無い。
しかし、ここ本所陸軍被服廠跡は戦場の巷と化していた。
十六夜の月が幽霊めいた異形の影を照らす。影は二つ、三つ、いやもっと多い。
一際目を惹くのは幽鬼のような白い幽霊、いや巨人と言うべきだろうか。
大きさは四間半(約4.4メートル)程。
市井の者であれば見ただけで気を失わんばかりの異形がそこにある。
月明かりに煌々と照らされ、薄ぼんやりと向こうの風景が透けて見えるが、巨人の歩みはまるで地震のように辺りを揺らす。実体があるのだ!
そして幽霊めいた異形は、奇妙な叫び声ともうなり声ともつかない雄叫びを上げながらびゅんびゅんと中空を舞い、二人に襲い来る。
俊達と初子は、素早く走りながら幽霊の攻撃を避ける。
その間も巨人はじりじりと接近して来た。
俊達が視線を初子に向ける。視線が合った。これだけで二人の合図は終わり。
俊達は走りながら両手で米国コルト社製の自動拳銃、M1911から.45ACP弾を撃つ、撃つ、撃つ。
銃弾を受けた幽霊はこの世のものとは思えないうなり声を上げて消滅。
先程まで存在していた事すら疑わしいかのように塵となって消え失せた。
後を追うように三つの薬莢が地に落ちる音が響く。
男は狙い過たず三体の幽霊に拳銃弾を命中させたのだ。
「俊達はん、これは楽勝どすなあ」
「いや、初子さん、雑魚はこれで充分だけど、親分は多分一筋縄ではいかんと思うよ」
走りながら会話するその間にも幽霊は俊達へ迫り、その手で生気を奪わんと試みる。
が、俊達は横っ飛びでひらりとかわす。
むろん初子の方にも幽霊は攻撃を試みるのだが、初子が手をかざすと盾のような物が出現し、幽霊をはじき飛ばすのだ。
「俊達はん。さっさと片付けましょ」
「はいはい、それっと」
軽口を叩きながら俊達は射撃する。発砲音が三回続き、白い巨人を取り巻く幽霊達をあっと言う間に成仏させた。
巨人の足音以外は静まりかえったこの場所に、薬莢が転げる音が響く。
取り巻きが倒されたのに怒ったのか、白い巨人は低く太いうなり声を上げ、その太く長い腕を振り上げた。
「問題はあのでかぶつだな、初子さん離れて!」
「はい。あとはよろしゅう」
初子は、まるで見世物の軽業師のように地面を蹴りって宙返り。二回、三回と着地しておよそ十間(18m)程巨人との間を取る。
俊達も同様に跳躍し、コートの懐から自動拳銃(M1911)の弾倉を交換しながら再装填。巨人から五間(約9メートル)程距離を取る。
二人が跳躍した瞬間、巨人の手が地面に叩き付けられる。
あたりはまるで震災の余震が来たかのように揺れた。
二人がとっさに跳躍していなければ間違い無く転倒していただろう。それ位酷い揺れだ。辺りの瓦礫が埃を立てて崩れ落ちる。
着地した俊達は転がりながら膝立ちの姿勢になり、自動拳銃の銃把を両手でぐっと握る。
「効いてくれよ!」
俊達はM1911の弾丸をありったけ巨人に撃ち込む。
富士の霊峰から汲んできた霊水で清め、自らが種字を書き込んだ銃弾だ。
この手の怪異には覿面に効くはず。
しかし、巨人は蚊にでも刺されたかのように躊躇しない。
銃弾がまるで効いていないのだ。巨人の歩みは止まらない。
「こらあきまへんなあ、俊達はん。いったん逃げましょか?」
遙か後方の初子が言う。
「いや、でかぶつをこのままにしていたら周囲に被害がでる。そしてその被害額は俺の借金に追加されるんだから、さっさと仕留めないと」
「そう言うてもなあ。俊達はん、あんた他の道具用意してますのん?」
「とっておきの式神が。あとは初子さんの大祓詞が頼りかな」
「わかりました。ほな、うちは準備しますので俊達はん、牽制よろしゅう」
その言葉と同時に初子は真剣な表情になる。
巨人はますます俊達に近づいてくる。周囲の地面を揺らしながら。
「効いてくれよ――いけ、俺の式神!」
俊達は手に持つ呪符を中空に投げる。
呪符はきらめきながら輝く羽を持つ白銀の鶴となる。
そして白銀の鶴はその鋭い嘴で巨人へ襲いかかった。
しかし式神の攻撃は巨人に打撃を与えてはいるものの、ちょっとした足止めにしかなっていない。
そのうちに巨人の腕に掴まれ、ぐしゃり、と握りつぶされる。
「たかあまはらにかむづまります。すめらがむつかむろぎかむろみのみこともちて……」
初子の祝詞が始まった。
巨人の歩みは続く。俊達まで後五間(約9メートル)。
「ええい、象撃ちの銃を持ってくれば良かったかな」
弾倉を交換して再装填しながら俊達は独りごちる。
巨人は尚も接近。
「あまつみやごともちてあまつかなぎをもとうちきりすえ……」
「初子さん、早く! 俺死んじゃうよ」
巨人が歩む。
俊竜が撃つ。
火を噴く自動拳銃。続けざまに光が走り、銃声が耳を打つ。
牽制弾だが、巨人は躊躇せずに進んでくる。
なおも巨人の進撃は続く。やはり拳銃弾程度では足止めにもならないらしい。
泣き言を言う俊達は初子から「もう少しまちなはれ」と言う無言の視線を感じた。
「そう言われても……ええい、ままよ」
俊達は最後の弾倉を取り出して再装填、巨人へと連射。
全弾命中だ!
しかし、それはやはり致命的な打撃たり得ない。
「かくいぶきはなちてはねのくにそこのくににます。はやさすらひめと……」
あと三間(5.4メートル)。もう腕を振り上げた巨人が目の前だ。
「早く! 早く!」
俊達の視界を巨人の白い体が埋め尽くす。
◇
時に大正12年(1923)9月1日。帝都東京は未曾有の大災害に見舞われた。
多くの被害を出した震災から二月、復興の槌音響く霜月。
突如として帝都に数多の怪現象が発生する。
それは過去に妖怪・幽霊と呼ばれたものとは違い、物的・人的被害が多数発生。
実戦経験のある帝国陸軍の精兵が動員されたが、通常の兵器では対処出来なかった。
事態を重く見た帝国政府はその現象を”怪異”と呼称。
宮内省に専門の部署を秘密裏に設立した。
表向きは東京帝室博物館整頓課と言う閑職だが、実際に怪異と戦いこれを殲滅するための部署である。
陰陽道宗家、土御門家から派遣された土御門晴仁の指揮の下、怪異の殲滅を目指すため小野俊達は今日も戦うのである。
以下次回。