9 見てくれる人
夜、シエナは簡単なお茶のセットを手に自室のベランダに出た。
持ち出したのは、宿の備品であるポットとティーカップ、そしてお気に入りの茶葉と簡単な茶菓子。疲れた頭と体には、好きな食べ物が一番である。
眠れない、というほど繊細ではない。
ショックだ、というほど打たれ弱くもない。
ただ、風通しのいい場所でおいしい紅茶でも飲みつつ、頭の中をすっきりさせたかった。
「……疲れた」
ポットに茶葉を入れて椅子に腰を下ろしたシエナは、周りに誰もいないことを理由に心の内をぽろっと零した。
夕方、商人を警吏に引き渡した後に戻ってきたルイスは、シエナが申し訳なくなるぐらい動揺していた。目の前でシエナを侮辱する言葉を聞かせてしまったことを悔いていたのだろう。
だが、それはルイスの責任ではない。どう考えても、自分のことを棚に上げてシエナを詰った商人が悪い。
だから、ルイスの前では、強がってみせた。自分の足で立って、微笑んで、まっすぐ前を見て。
(それに、もう慣れている)
こんなことに慣れるなんて、悲しい限りである。
だが、魔術師は尊敬されるだけの役職ではない。魔術師、と聞いただけで顔をしかめる者もいるし、攻撃してくる者だっている。
魔術師を憎む者たちのことを恨む気にはなれない。現に、魔術師にひどい目に遭わされたから魔術師を恨むようになった、という者も多いのだ。そんな者からすれば、魔術師なんて皆同じ。魔術師と非魔術師の和平を謳った法律がなければ、ロデリック王国は崩壊していただろう。
法律があるとはいえ、全ての魔術師を統率できるわけではない以上、魔術師を憎む者は存在する。そして彼らから蔑視を受け、同族の尻ぬぐいをしていくのがシエナたちなのだ。
(魔法なんてものがなければ、違ったんだろうな)
すいっと空中に指を滑らせる。とたん、パキパキと微かな音を立てて空気中の水分が凍り、シエナの指の軌跡をたどるように氷の模型ができあがった。
魔法がなければ。
そもそもこの世に魔術師なんて存在がなければ。
パキン――と繊細な音を立てて、氷の模型が砕け散る。魔術によって作り出された氷はガラスの破片のように足下に降り注いだ後、水滴を残すことなくふわりとかき消えた。
(もっと、平和な世界になったのかな)
だが、いくら考えても「かもしれない」は空想論に過ぎない。
シエナはふうっと息をつき、カップに紅茶を注いだ。そこへ――
「――シエナ様、いらっしゃいますか」
部屋のドアがノックされる。在室を問うのは、やや心配そうなルイスの声。
「ええ、ベランダに」
「……よろしければ少し、お時間もらえますか」
ルイスは遠慮がちに問うてくる。
(ああ、夕食の時も、あまり話ができなかったものね)
シエナは立ち上がり、部屋に戻ってからルイスを出迎える。廊下の暗がりに立つルイスは部屋着姿だが、護身のための剣は腰に下げていた。形のよい両眉は垂れており、不安そうな表情をしている。
「どうぞ、入って。ベランダで一人お茶会でもしようと思っていたの」
「それは――邪魔をしました」
「いいのよ、よかったらルイスも飲んでいって」
シエナは彼をベランダに案内しがてら、カップボードからもう一つのカップを取る。ベランダにはあらかじめ二人分の椅子があったので、ちょうどいい。
ルイスは神妙な顔で、「茶の仕度でしたら、私が」と給仕係を申し出たが丁重に断っておいた。ルイスがお邪魔しに来たとはいえ、彼を茶に誘ったのはシエナの方なのだから、彼をもてなすのが道理である。
シエナはルイスを向かいの席に座らせ、手早くルイス用の茶を淹れる。
「はい、どうぞ。私の舌に合わせているから、ちょっと甘めかもしれないけれど」
「ありがとうございます。私もこう見えて、甘いものは好きなのですよ」
ルイスはカップを受け取り、ほんの少しだけ表情を緩めた。甘いものが好き、というのは世辞ではないのだろう。紅茶を飲んだルイスは、入室したときよりずっと穏やかな表情になっている。
「……こんな時間にすみません。どうしても、あなたの顔が見ておきたくて」
「あら? 顔なら城を出てからというものの、ほぼずっと見てきたでしょう?」
「それもそうですが、護衛対象の様子を気に掛けるというのも、私の役目なので」
そこで一息ついたルイスはふっと真面目な顔になって、正面に座るシエナを見つめてきた。
「……昼間のことが、気に掛かりまして」
やはりそうだったか、とシエナは緩く笑んで首を横に振る。
「気遣いありがとう。でも、私は大丈夫よ」
「しかし――」
「身も蓋もないことを言うと……もう、慣れっこだから。昼間の商人は、私の経験上まだお手柔らかだった方。今までにはもっとぼろくそに罵倒されることだってあったし、いちいち心を病んでたら仕事もやっていけないって分かっているわ」
それでももちろん、辛い時もあった。学校を出たばかりの新人時代はなおさらだ。
そういう場合は、時には先輩に慰めてもらい、時にはチェルシーと一緒に抱き合って泣いた。
それも年月が経ち――就職して三年経った今では、人前で感情を露わにすることはなくなった。
悲しいことは悲しい。だが、少なくとも今は泣くべきではない、折れてはならない、ということは学習していた。
シエナの言葉に、ルイスは柳眉をすっと寄せる。
「……魔術師団では、そのように教育されているのですか」
「ええ――とはいえ、魔術師団の教育方針が間違っているとは思っていない。魔術師はただでさえ、生きにくい人種。悪に染まって自由に生きるか、縛られながらも善の道を行くかしかない。そんな中で後者を選んだのは私。むしろ、まっとうな人として心を壊さずに生きていく術を教えてもらったのだから、感謝こそしても恨みはしない」
「……そう、ですか。すみません、部外者が偉そうなことを」
「いいえ、ルイスは心配してくれたのでしょう」
それに、とシエナは自分のカップに二杯目を注ぎつつ続ける。
「独りぼっちじゃないもの」
「……」
「ルイスたちみたいに、協力してくれる人がいる。感謝してくれる人もいる。一緒に泣いてくれる仲間もいる。愚痴を聞いて、励ましてくれる人もいる。――私はちゃんと、たくさんの人たちに見てもらっているんだって分かるから、大丈夫よ」
独りぼっちだったら、シエナはここまでやっていけていなかっただろう。
孤独でないこと、認めてくれる人がいること。その重みを、この三年間でひしひしと実感していた。
「今日の件だって同じ。そりゃあ、私のことを胡散臭そうに見てくる人はいた。商人だって、めちゃくちゃなことを言ってきた。でも、私の仕事を認めてくれる人もいたし、町長だって私たちの報告を真摯に受け止めてくれた。それに――ルイスも」
「私も?」
「そうでしょう? だって今も、あなたは私を心配してわざわざ訪ねてきてくれたんじゃない。……私をちゃんと評価し、見てくれる人がいるなら、それで十分よ。本当にありがとう、ルイス。今日のことも、あなたが私をずっと支えてくれたから、私はちゃんと両脚で立っていられたもの」
シエナが殊勝に感謝を述べると、ルイスはやや硬くなっていた表情を緩めて紅茶をすする。
「そうですか……私もあなたの役に立てているのですね」
「もちろん。あなたはいなかったら私は、もっと早くに音を上げていただろうなぁ」
背中を預けられる人がいる。
一緒に戦ってくれる人がいる。
それの、なんと力強いことか。
ルイスはエメラルドの双眸をわずかに揺らした後、ふふっと小さく笑った。
「……分かりました。ちなみに――あなたにそう言っていただけて、私も自信がつきましたよ」
「……私、なにか言った?」
「ありがとうと、おっしゃったでしょう。……私だって人間ですからね。褒められたいし、認められたい。……今まで様々な職務にあたってきましたが、全ての人に正当な評価を下してもらえるわけではなかったものです」
「お礼を言わない人もいるってこと?」
「まあ、当然でしょう。『できて当然』とのたまう人も多いくらいですからね。シエナ様は感謝の言葉もねぎらいの言葉も惜しみなく与えてくれるので、私はとても嬉しいのです」
ルイスは微笑む。その美貌は相変わらず常人離れしているが、彼の台詞は非常に人間くさく、率直だ。
認めてほしい、自分を見てほしい。
(私と同じなんだ)
すとん、と納得できる。
背景や身分は違えど、シエナもルイスも同じ感情を持っている。
(私がルイスを認め、ルイスが私を見てくれるなら――)
それは、どちらにとっても幸せなことなのだろう。