4 白い夢の中で
『……シエナ?』
誰だろうか。
ぼんやりとした世界の向こうから、名前を呼んでくるのは。
『……シエナですね? ああ、やっと会えました。よかった……』
(あなたは誰?)
微睡みながら、シエナは問う。
目を開けているのか閉じているのか、それすらよく分からない曖昧な世界。辺りは真っ白で、濃い霧の中に立っているかのよう。
シエナの心の声を受け、ふふっと笑う声がする。
『私? 私のことなら、もう分かっているんじゃないですか? だって私は――っ!』
(何?)
一体誰なのか。ここは、一体どこなのか。
せめて、この白い世界が晴れたなら。相手の顔が見えたなら、分かるかもしれない。
(ねえ、あなたは誰?)
だが、しばしの沈黙の後に返ってきたのは低い笑い声だった。
『……そう、ですか。でも、いいんですよ。また、会いに来ますから』
(……また?)
『そう。今回は、シエナに会えただけで十分です。また、話をしましょうね』
(どういうこと?)
尋ねたいのに、もっと質問したいのに、もう何も返ってこない。
あれは、誰だろうか。
誰が、シエナを呼んだのだろうか。
ぱきん、という大きな音に、シエナは覚醒した。
瞼を開くが、目の前には濃い闇が広がるばかり。目が少しずつ暗闇に慣れてくると、馬車の壁や積み荷などの輪郭がぼんやりと浮かび上がってきた。
(……そうだ、今日は野営になったんだっけ)
毛布の中で身じろぎし、シエナは本日の行程を思い返す。
王都を出発したシエナとルイスは、最初の目的地に向けて馬車を走らせた。そうして夜になる前に本日の野営地を決めて野宿の準備をしたのだった。
夕食では、乾燥した肉を水で戻してパンと一緒に食べた。伯爵家の令息であるルイスにはあまりにも質素な食事だろうと思って彼の様子を窺ったのだが、彼はシエナの危惧に反して「若い頃の遠征では、泥まみれの野菜も食べましたからねぇ」とあっけらかんと笑って肉を食べていた。豪勢なディナーでなくても不満はないようだ。
シエナはゆっくりと体を起こし、手探りで馬車のドアに触れた。そっと押し開けると、夜闇の中にちらちらと踊る炎の影が見える。
馬車のドアが開く音を聞いたためか、たき火の前に座っていた青年が振り返る。防寒用の毛布を肩から被っていた彼は馬車から上半身を覗かせるシエナを見、困ったように眉を垂らして微笑んだ。
「おや、もうお目覚めですか」
「……いえ、ちょっと変な夢を見て」
「そうですか。……交代の時間にはまだ早いので、落ち着いたらまた眠ってくださいね」
「ええ、そうするね」
野営では、交代で睡眠を取ることにしている。今日はシエナが先に眠っていたのだ。
眠気が来るまでと馬車のステップに腰を下ろしたシエナは、炎の灯りに照らされるルイスの顔を見つめる。
夕闇のため、今は少し彩度を落として見えるライトブラウンの髪に、エメラルドの双眸。騎士団の豪奢な制服とは違う質素な旅着姿ではあるが、そのシンプルさがかえって彼自身の清らかな魅力を前面に押し出しているようだ。
そして、シエナを気遣う優しい声。
(……同じ、だな)
先ほど夢の中でシエナが耳にした、謎の声。
声も、口調も、ルイスとそっくり――否、全く同じだ。
(今日一日ルイスと行動したから、あんな夢を見たのかな)
現実のルイスはシエナのことを「シエナ様」と呼び、夢の中のルイスは「シエナ」と呼び捨てにしたという違いはあるが、些細なものだろう。
ルイスはたき火の前に座り、手で折った小枝を放り込んでいる。ぱきん、と小枝が爆ぜる音がした。先ほどシエナを目覚めさせたのも、この音だったのだろう。
『また、会いに来ますから』
(……まさか、ね)
ふふっと小さく笑い、シエナは腰を上げた。
「……それじゃ、もう少し眠ってくるわ。時間になったら起こしてね」
「はい。よい夢を」
小枝をかき集めつつルイスが答える。
馬車に戻ったシエナは毛布にくるまり、ルイスが呼びに来るまでもう一眠りした。今度は、何の夢も見なかった。
翌日、シエナたちは最初の調査ポイントに到着した。
「……うん、この辺りで停めて」
地図を手にしたシエナの指示を受け、ルイスが馬車を停める。シエナは魔力測定装置を箱から出し、御者台からしげしげとルイスが見下ろしてくる中、調査の準備を始める。
魔力測定装置は、一抱えほどの大きさの箱形の道具だ。重さはそれほどでもないので、短い距離ならば女性の腕でも十分運搬できる。ベルトを取り付けられる金具も付いているので、鞄のように肩から提げて持ち運ぶこともできた。
「それが魔力測定装置ですか……初めて見ました」
「ええ、魔術師団の備品を持ってきたの。旧式だから、あまり性能はよくないけれどね」
言いながらシエナは装置を地面に置き、その上部に右の手のひらを載せた。
この装置は魔術師の魔力によって作動し、周囲の魔力の濃度を探ることができる。地域ごとにある程度の平均値は例年調査として叩き出されており、資料として持ってきている。この資料の数値と大差ない結果が出れば問題なし。異様に高い数値が出た場合は調査の必要がある。ちなみに、低い数値が出た分には問題ない。記録だけ取っておいて今後の経過観察に委ねればよいのだ。
シエナが力を込めると、青色の粒子がふわりと辺りに広がる。これは、氷属性の魔力であり――シエナが凍り属性の守護を受けた魔術師である証。魔力測定装置を起動する分には属性は関係ないので、使用者によって色とりどりの魔法粒子が見えるのだ。
「……青? 何か、ぼんやりとしたものが見えますね」
「……ああ、それはルイスにもある程度の素質がある証拠よ。ただ、ぼんやり程度なら自分で操るのは難しいだろうけれど」
「でしょうね」
ルイスは膝の上に肘を突き、興味津々の眼差しでシエナの手元を見つめてきていた。非魔術師も程度が違い、ルイスのように粒子だけならなんとなく見える者もいれば何も見えない者、粒子ははっきり見えるけれど自分では発動できない者など様々である。こればかりは、生まれ持った才能に左右される。
シエナの魔力を受け、装置の針がぴくっと振動する。やがて少しずつ針が移動し、ある一定の目盛りのところまで行くとそれ以降動かなくなった。
「……うん、既定値通りね」
「終わりですか?」
「ええ。私の魔力と周囲の魔力が作用して、濃度が分かるの。見た感じ、前回の測定結果と大差はない。この近辺では魔術師による問題や天変地異が起きていない――平和な証拠よ」
かつて魔術師たちが犯したあやまち。血なまぐさい殺し合いの時代を繰り返さないためには、魔術師が積極的に動かなければならない。
資料に数値を書き付け、装置を片づける。「ルイスは装置に触らない」という約束をしているので、装置を馬車まで運び上げるシエナを、ルイスは手持ちぶさたそうに眺めてきていた。
「それじゃあ、次はこのまま交易路を南下していくわ」
「了解しました。……そういえばこの辺は、秋から初冬にかけて盗賊が多発します」
「季節も関係するのね?」
「やはり、寒さの厳しい冬を迎える前にもうけておきたいのでしょう。……もちろん、盗賊に事情があるからといっても容赦はできませんが」
シエナが乗り込んだのを確認し、ルイスは馬を走らせる。シエナは荷台の窓から、ルイスの座る御者台へと身を乗り出した。
「……キャラバンのように小隊を組んでいるわけでもないし、私たちみたいなのはやっぱり狙われやすいのかしらね」
「シエナ様は、盗賊との戦闘に遭遇したことはおありですか?」
「ええ――魔術師団に入ったばかりの頃は先輩と一緒に遠征に出ることもあって、二三回遭遇したわ」
その時のシエナは、先輩二人に加えチェルシーも入れた四人と、護衛騎士三人で実習を兼ねた遠征に出ていた。
魔術師団の積み荷には特殊な魔具など、高価なものも多い。それを狙う盗賊は頻繁に現れた。「魔術師は、よほどのことでない限り人に対して魔術を放ってはならない」というルールがあるのを知った上で。
魔術を使えたなら、シエナ一人でも十分盗賊たちと戦える。何しろ、シエナの氷属性魔術を使えば盗賊たちが詰め寄ってくるよりも前に、氷柱で串刺しにできるのだから。チェルシーだって、地属性の魔術を行使して地割れを起こすこともできる。
(でも、そんなことをすれば魔術師として生きていけなくなる)
たとえ正当防衛のためだとしても、「魔術師は人を攻撃する」という動かぬ証拠を見せつけてしまえば、人は魔術師を恐れる。そうして、三百年前とは少々形は違っても殺戮の世を繰り返してしまうのだ。
シエナたちが道をはずれた魔術師たちに容赦しないのは、この不安定な土台の上に立つ「平和条件」を崩されてはならないからだ。もしも魔術師が人を攻撃したならば、魔術師団はその魔術師を始末しなければならない。たとえ相手が、魔術師団の仲間だったとしても。
だから、いざ戦闘となってもシエナたちにできるのは、騎士のサポート。氷柱で敵を刺し貫くのではなく、氷壁を作り出して攻撃を受け止める。川を凍らせて道を作る。その程度だ。
そのため、シエナは今まで盗賊などと遭遇したことはあっても「戦った」ことはない。魔術師が「戦う」のは、相手もまた魔術師だった場合のみだ。
シエナたちが生まれた時から持っている爆弾。その爆弾を手放すことはできない。できないから、「私たちは爆弾を持っているけれど、決してあなたたちを攻撃することはしません」という誓いを立てなければならない。そして、その爆弾を人に向けて放とうとする同胞がいるなら、抹殺しなければならない。
「……とはいえ、私はほぼ戦力にはならない。サポートなら全力でするから、白兵戦はお願いする。相手が魔術師や魔具のたぐいなら、遠慮なく私が叩きのめすから」
「……はは。叩きのめす、ですか。勇ましいことですね」
横目でシエナを見たルイスが小さく笑う。「叩きのめす」を使ったのは間違いだっただろうか。
ルイスに幻滅されてはならないと、シエナは急ぎ言葉を続ける。
「いえ、その――ほら、逆に言うと相手が魔術師ならルイス単身だと厳しいでしょう? 魔具は持っているようだけれど、接近できなかったら意味がないし。それに、身内の不始末はするべきだからね。道を外れる魔術師がいるなら――戦わなければならない」
先輩魔術師は、かつて道を外れた魔術師と戦ったことがあると語っていた。
それは、魔術師の素質があり、国立学校を出ながらも魔術師の理念に反旗を翻した者たち。「なぜ、せっかく生まれ持った力を抑えなければならない」と考える者。もしくは、己の魔力が制御しきれずに狂い果てた者。
彼は、遠征先でそういった魔術師と遭遇した。相手は強力な水属性魔術の使い手で、雷属性魔術を得意とする彼は一撃必殺で敵を焼き殺したのだという。
この手で刃を持って、直接切り込んだわけではない。雷撃を放ったのは自分でも、実際に相手をあやめたのは自分の手ではない。
それでも――自分の魔術で死亡した敵を見て、震えが止まらなかったという。
(私もいつか――いや、ひょっとしたらこの旅で同じ経験をするかもしれない)
学校を卒業し魔術師団に入って、三年。誓いを立てた魔術師ならば、遅かれ早かれいつか経験することだ。
(その時は、腹を括らないといけない。全部ルイスに頼るわけにはいかない)
それが、魔術師として生まれたシエナの使命であり、義務であるから。