ディープ・シー
ここは深海。
漸深層と呼ばれる、水深1000メートル~3000メートルに位置する暗黒の世界だ。
日の光は届かず、水圧は半端なく大きいし生きるか死ぬかの毎日だ。
同種の仲間に会うことなんて稀にしかないし、それどころか食料となる魚にありつくのにも難儀してる。
一言で言えば、過酷な環境。
こんな場所に好き好んで生活する奴なんて、バカ野郎かクレイジーな連中だけだ。
が、残念ながらこの俺もここで生活しているバカの一匹だ。
そう……アホさ。
そして、アホにはなりたくなかったさ。
じゃあなんで住んでるのかって?
そりゃあご先祖様が俺の入っている卵をここで産み落としたからさ。
生まれる場所を生き物は選択することが出来ない。
生き方くらいは自分で決められるってよく言うが、この深海じゃあそんなこともない。
やれることなんて、捕食と泳ぐことくらいだからさ。
娯楽のごの字もない。
酷い話さ。
「……俺、このまま死ぬんかな」
一匹、誰もいない深海でボソッと呟く。
当然誰も聞いちゃいない。
聞いちゃいないからこんな恥ずかしいことを言えるのだが。
「……私も今そう思ってたけど、そんなこともなかったわね」
「……!!!!」
なんとまあ。
こりゃあ驚いた。
声のした後ろを振り返ると、メスの魚がいた。
……間違いない。
俺と同種の魚だ。
「お前……よく俺を見つけたな」
「だって君、薄っすら発光してるじゃない。同種が戯れる時に使うよくある手段の一つじゃないの」
「にしたって、これに釣られてくるのは捕食対象である魚くらいなもんさ」
「でしょうね」
「……感動してもいいか?」
「雌雄同体でもない私達が、雄雌そろってこの広大な深海で出会った奇跡に?」
「そうさ」
確率的にはかなり低いはずだ。
なのに、俺達はこうして出会った。
諦めていたその時にだ。
なんてことだ。
これで感動しない方がどうかしている。
「深海の上にあるっていう表層の海では普通のことだって聞いてるけどね」
「それは別世界の話だろ?」
「別世界だなんて言ってしまうのね。海はたった1つだというのに」
「だって、俺達が表層まで上がれば、水圧が軽減されて内臓が破裂して死ぬんだから。会いたくても会えないし、行くことも出来ない。ほら、別世界だろ」
「その言い方だと、上の世界に憧れているようにも聞こえるわ」
「……」
図星だった。
そりゃあな……行けるものなら行ってみたいさ。
でも、行けないのだ。
行ったら死ぬのだ。
じゃあ、諦めるしかない。
「俺達は日陰者さ。深海の水圧に耐えるために、他の魚とは肉体の構造がまず違うし、筋肉も少ないから自由に泳ぎ回ることなんかできやしない。色々な欠点を認めながら生きている俺達は、上の奴らにどうしても嫉妬しちまう」
「だから極力上の世界のことは考えないようにしているのね」
「お前は……上の世界のことを考えても、苦しくないのか?」
「むしろ、胸が高鳴るわ。ああいうことが出来る、こういうことが出来る。そう想像しただけでも愉快だわ」
信じられなかった。
決して叶わない想像だぞ。
想像の中だけで終わってしまうなんて……悲しいじゃないか。
「もしこの深海だけの世界だったなら、私は絶望してたわ。夢のない世界ほど、ツマラナイものはないもの。でも、この世界にはまだ想像する余地のある世界が広がってる。それだけで私は満足なの」
「……理解できないな」
「リアリストなのね」
「だって、深海には厳しい現実しかない」
「厳しい現実だけじゃあ、私は生きていけないの。そんなに強くないのよ」
弱いから、想像をする。
それは納得だな。
「でも、それが正しいなら強い俺は上の世界のことを想像しただけで苦しくなってしまう。弱いお前は平気なのに。これはどういう矛盾なのだ?」
「だから、本当は君も強くないってことなんじゃないのかしら」
「……どういうことだ?」
「君、さっきから上の世界に対して卑屈なんだもの。比べてるんだもの。自分に自信がないのねって思ったわ」
「そりゃあ比べもするだろ。上の連中は俺達の苦労の半分も理解出来ないに決まってるんだ。ここは生きるか死ぬかなんだぞ」
「それは上の世界も一緒よ。むしろ生存競争という意味では、上の世界の方が激しいんじゃないの? ここは他の生物と出会いにくい分、捕食行為も滅多に見られないし」
「じゃあ、俺達は孤独と戦ってるんだ。奴らは群れるじゃないか。仲間がいるだけ、マシなもんさ」
俺が一番辛いところはそこである。
それは彼女だって同じはずだ。
否定はしないはず……
「それだけいっぱい食べられているってことでもあるのよ。残った質量は、表層でも深海でも変わらないと思うの」
「……」
「でもね、私はちゃんとこの環境にメリットを感じてるわよ?」
「こんな暗黒の世界にメリットなんか存在するかよ」
「ちゃんとあるの。今、私はそれを感じてる」
「……嘘だろ」
「本当よ」
信じられない。
どういうことだ?
俺達は、下等生物なのだ。
上の連中とは違うはずなのだ。
孤独なのだ。
変わった連中なのだ。
歪なのだ。
なのに……どうしてそんなことが言えるのか?
「それは君だって感じてることなのよ」
「……ますます信じられないな」
「現実に生きてるから、目も曇るのね」
「うるさいな。じゃあ、教えてくれよ」
彼女は、少しだけ間を置いて、こう言った。
「雌雄同体でもない私達が、雄雌そろってこの広大な深海で出会った奇跡に感動、よ」
「あっ……」
「君が言った言葉よ。もう忘れたの?」
……そうか。
俺は、彼女と違って夢を見たくないばかりに……気付くことができなかったのか。
「私達は、表層の魚達と違って出会いにくい。でも、だからこそ出会ったことに感動できるの。それだけで、幸せになれるのよ」
「ああ……そうだな」
「だから私は、この手をずっと離さない。もう、離さない」
俺も……
「俺も大切にするよ。この奇跡を」
「ええ、お願いね」
「ああ……」
俺は今気が付いた。
住む世界は違えど。
そこにある質量は、全く同じなのさ。




