ミリタリズム
戦争。
軍事的な暴力行為、破壊行為を行使して、政治的、或いは宗教的目的を達成しようとする一種の手段。
君達は戦争をどう見る?
危険な思想か?
それとも効率的に自身の国の敵を排除することの出来る、有用な手段だと容認するか?
私は戦争を根本的にこう思っている。
人を管理することで発生する、人類淘汰の一種だと。
人は安定した居住地を得ると、必ず増える。
繁殖する。
ゴキブリの如く数を増やし、汚らわしい程の住処を作っていく。
人間にとっての楽園……国をな。
だが、人が増えると、比例して増えるものが存在する。
それは何か分かるか?
……人の思想だよ。
人と共存したい。
人と破壊したい。
人と愛し合いたい。
人と学びたい。
人とSEXしたい。
人と戦いたい。
人と競いたい。
人と作りたい。
人と逝きたい。
人と悲しみたい。
人と囁きたい。
人と競合したい。
そう……様々な願望による、思想。
数多の思想だ。
それは人の数だけあると言ってもいいだろう。
それらの思想から、戦争行為を肯定するか、否定するか。
まあ、数にして半々だろう。
人は思想の数を増やし保持するが、同時に思想のバランスに均衡をもたせたくなるものだ。
しかも意識的にではなく、無意識的にだ。
男と女があるように。
善と悪があるように。
生と死があるように。
心と体があるように。
陰と陽があるように。
思想もまた、バランスというものがあるのだ。
そして、それは原則として対立する。
絶対にだ。
和平の道などありえない。
何故なら、善と悪があるように、戦争と平和があるからだ。
いつの世も、戦争をしようと息巻く悪人と、平和を維持しようとする善人がいるものだ。
平和は絶対に不可欠で、幸せな道だと善人の誰もが思うだろう。
戦争など、2度とあってはならない悲劇だと。
一方、戦争は絶対に不可欠で、世界にとって必要な道だと悪人の誰もが思うだろう。
争いなくして、幸運など訪れないと。
さて、これは私から見れば、両者共に一方的なエゴにしか見えないのだよ。
一方を叩きのめすことしか、両者は考えていない。
善人は悪人を敵視しているし、悪人は善人を敵視している。
そう、両者ここに共通するものがある。
……敵視だ。
つまり、敵意だ。
どちらとも敵なのだよ。
だから対立するのだ。
男と女が。
善と悪が。
生と死が。
心と体が。
陰と陽が。
対立は必然。
これは太古から行われてきた、自然的な”現象”だ。
否定することは出来ない。
火が燃えることを否定出来ないように。
水が命を支えていることを否定出来ないように。
……人が人と戦っていることもまた、否定出来ないのだよ。
さらにこの自然的な争いを中核に、宗教の違いや国の侵略、植民地化、資源地の奪取など、表面的な皮の建前を被せ、人は戦う。
つまり、戦争だ。
人が群れていることが、争いの原因だ。
これは止められない。
和平出来ない。
一時の間だけ、仮初の平和が勝つこともあるだろう。
戦争には勝敗があるものだ。
時にはどちらかが勝ち、どちらかが負けることもある。
平和が少し多い今の世界が、その象徴だろう。
時には悪が勝つだろう。
戦争を当たり前の行為だとみなが思い込み、そして戦う。
そういう時代があったことを忘れるな。
たった、数十年前の話だ。
第二次世界大戦。
あれは酷かった。
ドイツ、日本、およびイタリアの三国同盟を中心とする枢軸国陣営。
そして、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ、および中華民国などの連合国陣営との戦い。
総死者数、五千万人~八千万人。
悲劇だ。
だが、当然の結果だ。
人は争う。
これは避けられない。
人々は一丸となれない。
だから争う。
勢力が二分化し、それぞれが争うことで、初めて人は自身の勢力内で団結出来る。
力を尽くせる。
勝利こそが目標になるからだ。
その本質は社会でも同じだ。
会社という勢力があり、売り上げを競い、他を排除しようと努力する。
それは他の小さな会社を押しつぶし、敵対する会社を圧迫することに繋がる。
学校も同じようなものだ。
幼稚園ですらがそうだ。
戦争とは人間の本質だ。
人は戦争を終戦に追い込もうと躍起になる。
だが、人々は戦争を繰り返す。
そして平和を繰り返す。
悪と正義の対立だ。
これは人類が誕生した瞬間から定められた、宿命なのだ。
再び君達に問おう。
君達は戦争をどう見る?
危険な思想か?
それとも効率的に自身の国の敵を排除することの出来る、有用な手段だと容認するか?
私は戦争を根本的にこう思っている。
人を管理することで発生する、人類淘汰の一種だと。




