.序章
2年前の夏、俺はとある博物館に来ていた。
絵画蒐集が趣味だった祖母の影響で俺も絵画などの美術品に興味があり、時間さえあれば地元の美術館や博物館、時には県外に赴いたり、色んな博物館を逍遥していた。
色んな絵画を見て感じ、その時から既に俺は絵画の虜だった。
――――そんな時、俺はとある学芸員と出逢った。
鼓膜を叩き、劈くような蝉の鳴き声、青空の下で照りつける太陽は雲という障害もなく地上に恵みの陽射しをもたらしていた。
現代の産物、コンクリートに日光が注がれ、辺り一面は灼熱地獄と化していた。
そんな屋外とは対照的に、博物館の屋内はまるでこの世の極楽浄土の如くひんやりとした冷風が建物全体に行き渡っていた。
アウトドア派の人間には申し訳ないが、やはり夏に屋外は自分には合わない。
他の大多数の人間も恐らく同じことを思っているだろう。
そんなことを黙考しながら、地元の大学に通う現役市大生の雛見は市内では比較的小規模の博物館、鷹川博物館に来ていた。
過去にも何回か訪れたことはあったが、今回この博物館を来訪した理由は数十年ぶりに展示されるというイタリアからの有名画家による作品展が開催されるからだ。
ヨーロッパの有名画家の作品展ということで、一部の絵画マニア、それだけではなく地元や県外からも事を訊きつけてやってきた来館者で博物館は非常に盛況していた。
「人が多いな……」
人混みの中で小さく呟く。
いつもは友人を誘って行ったりするのだが、今回は予定が合わず、一人で来ている上に混雑しているので迷ってしまわないか不安だ。
しかも自分は重度ではないが、方向音痴でもある。
パンフレットの展示案内を見ても、中々理解できず困る。
雛見は周辺をきょろきょろと見渡し、右往左往と移動していく。
学芸員を捜しているのだ。
館内のスタッフに訊けば、教えてくれるはずだ。
偶然、他の展示会場の入り口に立っていた学芸員らしき男性を見つけ、男性の元に躊躇いなく向かっていく。
「すみません、展示会場を探しているのですが迷ってしまって……道順を教えてくれませんか?」
「あぁ、はい、何の展示でしょうか?」
学芸員の男性は見た感じ若く、およそ20代前半ほどの青年だった。
そして驚いたのはその身長だ。
180㎝以上はあると思われた。自分と10㎝以上は差があるだろう。
そして彼の顔を見れば、表情は笑っているものも、目つきは鋭くまるで睨まれているかのような気分になるものだった。
学芸員は展示案内のパンフレットを使って、丁寧に教えてくれた。
分からないまま周辺を彷徨って時間を浪費するよりは余程マシだった。
やはりこういう時は従業員に訊くのが最適だ。
「今回のお目当ては、"ヴェネツィアの風景展"でしょうか?」
パンフレットをしまい、かの学芸員は謹厚にそう訊ねてきた。
無理して営業スマイルらしきものを作っているように見えるが、ちゃんと形になっていないようだ。
雛見は先述の質問に「そうです」と短く答えた。
"ヴェネツィア"とはイタリア北東部に位置する都市で、「アドリア海の女王」「水の都」「アドリア海の真珠」などの別名を持ち、中世には国の首都として栄えた都市でもある。世界でも有名で、日本人でもイタリアといったら多くの人間がヴェネツィアを思い浮かべるだろう。
「そうですね。有名画家の展覧会だけあって、混雑が凄いですね。」
「いつもはこんなに来館数が多いということはないのですが、初日から突然盛況し始めて…
やはり知名度というものは凄いですね。」
「えぇ、こんなに凄い展覧会なら友人に無理にまで誘って来れば良かったかなーって少し後悔しました。
」
「…失礼ですが、お一人でしょうか?」
「そうです、一人というのも非常に虚しいですが。」
怪訝そうに伺う学芸員に怪訝に思いながらも答える。
やはり、一人で来るなんて淋しい奴と思われただろうか。まぁ、この歳で美術品を見るのが好きなど若者の趣味にしては珍しいし、周りに自分と合う者など早々居ないし仕方ないのだが。
すると学芸員の目許は先程の鋭い目つきと違い、柔らかい自然な目つきに変化した。
顔全体を見てもわずかに口元も笑っているように見える。
「申し訳ありません。お一人の上に、若い方でしたのが珍しくて。失礼ですが、絵画がお好きなのですか?」
「はい。家族の影響であくまでも展覧会に行ったりする程度ですけど…」
「そうなのですか、若い方にもお気に召されて大変嬉しいです。」
学芸員の表情は先程とは違って自然体で笑っているような雰囲気だった。
まるで雛見の言葉に心底から嬉しがっているような。
美術品と無縁そうな若者にも興味を持ってもらえれば、学芸員も嬉しい限りだろう。
「お時間取って失礼しました。いってらっしゃいませ。」
学芸員はそう言って会釈をすると、その場から颯爽と立ち去り会場の人混みの中に消えていった。
余りにも突然のことで雛見は茫然と立ち尽くしていた。
ただ学芸員と少しの間話しただけだったのに、雛見は何時間も話し込んでいたように感じた。
なんだか学芸員と触れ合ったことで、雛見の心情が僅かながらに変わったようだった。
普通なら苛立ちを感じるはずのこの人混みも、今だけは緩和されているような気がした。