二つの眸に身を竦め
周囲は再び黒の世界に染まり、静寂に包まれる。
晴明は呆然と座り込んでいたが、やることの終わった崇慧は腑抜けの少年の前を、そそくさと通り過ぎていく。
が、右足の裾をいきなり掴まれ、態勢を崩して踏鞴を踏み、なんとか転げるのを防いだ。
「お前! いきなり何をするんだ!!」
晴明の手を払い、仁王立ちして見下ろす。
「ご、ご、ごちが……」
「は? 腰が抜けて立てないって? しかもなんだ、その顔は。男なら泣くな」
「う、うるじゃいなぁ~。お、おどこでも泣く時はあるんだもん」
嘔吐きながら涙を拭い、自分を見下ろす陰陽師を睨みつける。
「はいはい、そうだな。じゃ、」
「ま、待っでぇ~」
踵を返し、去ろうとする崇慧を呼び止める。
「なんだよ、お前は!」
「だ、だっでぇ~!」
「だってなんだよ! 言いたいことがあるならさっさと言えよ。俺は早くここから消えたいんだ」
崇慧の剣幕に気圧されてわずかに俯き加減になったが、晴明は唇を噛み締めて堪え、涙を拭い、鼻をすすり上げた。
「き、君は、陰陽師になりたくないはずなのに、どうして……」
「どうしてかって? 人を救うのに、陰陽師の地位なんて必要ない。それだけだ」
「確かにそうだけど、ちゃんとした陰陽師になれば、それだけ人を救う機会だってあるはずだよ」
「違う!!」
いままでとは違う大喝に、晴明は完全に顔を地面に向けた。
目頭が熱くなり、止めていた涙がじわじわと染み出してくる。
いつも人を遠ざけ、剣呑としている崇慧が感情を露にした一言に、これまで以上の怖さを覚えてしまったのだ。
「人のためなんて虚言さ。結局は仕事で、救えるはずの人を救わないことだってある」
つり上がっていた眸を下げ、悲しみを含ませた表情に急変する。
「……何か、あった?」
「お前に関係ない。とにかく、俺は早く消えたいんだよ。用が済んだのなら行くぞ」
いつもの冷徹な崇慧に切り替わり、見下した眸で下を見る。
「そ、そんなに急いで、どうかしたの?」
虫が鳴くような小さな声で言ったものだから、崇慧の眸が細くなる。
「あぁ?」
うじうじしている少年に、苛々を募らせた冷徹な激昂を見せる。
たった一言だが、それだけで周囲の肌寒さよりも晴明を震え上がらせた。
苛立つ原因は他にもある。
怯える少年は気づいていなかったが、崇慧は耳を鋭敏にして、静まり返った夜にやっと感じ取れるほどの音を聞き取っていた。
少人数分の足音がこちらに向かってきている。
鬼を浄化した時の光と、鬼の発した鬼気を他の陰陽師が感じ取ったと予測し、自分の存在が明らかになる前に、ここを去らなければと考えているのだ。
が、ある妙案が浮かび、晴明に言っておこうと見下ろす。
「おい、晴明」
「は、晴明?」
自分の名前を呼ばれたのだろうとわかりつつも、おかしな呼び方をされ、すっとんきょうな声を上げる。
「僕の名前は晴明じゃない、晴明だ」
「それはどうでもいい」
「ど、どうでもいいって、よくないよ。人の名前をなんだと思っているんだよ」
「いいから聞け」
不平を口にする晴明を、強めの語気で黙らせる。
「今から、ここに陰陽師が来るはずだ」
「お、陰陽師が!?」
すでに禍は去っているものの、これで本当に助かるんだと、安堵で顔の筋肉が和らいでいく。
「いいか、晴明。ここで俺に会ったこと、やったことは誰にも喋るな」
「え? どうして?」
「どうしてもだよ。絶対に言うんじゃない」
いいことをしたのに喋るなと言われ、疑問しか浮かばずに小首を傾げる。
「俺の事を知られたくないんだよ」
「良いことをしたんだから、別にかまわないじゃないか。知ったらみんな君のことを好きになるはずだよ」
独りが好きな崇慧にとって、それは苦痛以外のなにものでもない。
眉を歪め、いやいやと顔を振る。
「それが嫌なんだ。それに、こんなことを陰陽寮に知られたら……」
怒られるとは思わないが、これまでのように自由にできない可能性がある。
そうなるのが嫌で、秘密にしておきたいのだ。
「とにかく、もし、なにか訊ねられたら、お前がやったことにするんだ」
「え! ぼ、僕が!?」
「そうだ、お前が調伏したことにしろ」
「無理無理無理無理、僕があんなすごいことをできるはずないよ」
「わかっている」
間髪入れずに即答した若い陰陽師に、晴明はむっとする。
いや、確かにできないけれど、考える素振りくらいしてもと心の中で不平を浮かべるが、決してそれを言葉にしない。
「いいか、鬼を退けたのはお前だ、晴明」
「そ、そんなぁ……」
「もし、俺がやったと言った時は……」
最後まで言葉を発することなく、眸で脅す。
普段は細い眸で物事を見ている二つの双眸が、どうしてそこまで開くのだというくらい大きく見開かれ、瞬きをせずに晴明を見下ろす。
口元に満面の笑みを浮かべ。
さながら凶悪な悪鬼のごくと晴明の心を支配し、消え去ったはずの恐怖に再び包み込まれる。
晴明の心が逆らうな、命の危険があるかもしれないと警鐘を打ち鳴らす。
息をせき、激しく上下する胸を落ち着かせようと手を置き、慌しく上下運動を繰り返す獅子落としのごとく、何度も頷く。
「じゃあ、俺は消えるが、明日陰陽寮で会おう」
崇慧は言いたいことを言うと、裏門の方角に向かって足早に移動をする。
闇に紛れていく後ろ姿を、呆然と見つめる晴明。
その眸は崇慧を見送っているものの、見開かれた二つの眸が残像のように焼きついており、身震いをしていた。