寄る辺のない帰路
晴明と崇慧が陰陽寮で出会って、一月が瞬く間に通り過ぎていった。
その間に会話をした回数、いまだなし。
崇慧と他の陰陽生を仲良くさせるために、保憲はいろいろと試みたが、すべてが徒労に終わっていた。
崇慧が他の者に対して一線を引き、まったく打ち解けようとしないのだ。
最初は話しかけていた陰陽生達も、一人、また一人と近づくのをやめ、今では完全な孤立状態ができあがっていた。
独りのほうが気楽でいい崇慧にとって、疎外感や寂しさを感じることはまったくなく、誰も近づくなとさえ思っている。
それがわかるからか、陰陽生達が陰でこそこそ悪口を言っているのを、晴明は何度も聞いていた。
「あいつ、いったいなんだ。陰陽寮に遅れて入ってきたから気を使うと思って、こっちから打ち解けようと話しかけているのに、無視ばかりして」
「村主様のご子息だからっていい気になっているんじゃないのか」
「保憲様に言われて、いろいろ教えてやろうとしているけど、あの態度じゃ、何も教えてあげる気にならないよ。なあ、晴明」
などと、時々同意を求められることがあった。
「う、うん。まぁ、確かに無視とかは、ちょっと問題があるとは思うけど……」
「ちょっとじゃない、大いに問題だ! 保憲様に対しても、相手にしない態度をする時があるのだぞ。ありえないだろう」
「そ、そうだね、ははははっ……。じゃ、じゃあ、僕は仕事があるから、これで……」
悪口を言うのがあまり好きではない晴明は、こういう場合、適当に相槌を打って場を後にするか、仕事に集中することにしていた。
集中するつもりでいても、耳だけは会話に向けられることもしばしばだが。
みんなが崇慧に距離を置くようになっても、仕事の時間は傍に身を置かなければならない。
整然と並ぶ机を前にして、毛筆をすらすらと動かし、書写をしている陰陽生。
当然、その中には崇慧もおり、その前の机には晴明が座す。
ぴりぴりとした視線が背中に突き刺さっているようで、晴明の筆は遅々として進まないことが常々あった。
呼吸をするのさえはばかられ、吸うのも吐くのもゆっくりとおこなう。
――なんで、僕がおどおどしないといけないんだよ。
心中でぼやきながらも、崇慧の威圧的な存在感に何も言えず、怯えながら陰陽寮での生活を過ごす日々が続いていた。
「はぁ―」
背後から吐き出された溜息にびくりと肩を動かし、顔を少しだけ後ろに向けるが、崇慧の顔が確認できるまで振り返らない晴明。
完全に振り返ると、あの鋭い眸で睨まれると思ったからだ。
眸を書物に戻し、一呼吸をおいて筆を走らせる。
――まったく、溜息をつきたいのはこっちなんだけど。
再び不平を思うと、咳払いをする。
それによって気分を変え、職務をこなそうとするのだが、背後にいる崇慧の存在が集中力を欠かす。
結果、晴明の仕事が終わったのはすっかり陽も沈み、空に星と月が輝くほどの刻限、酉の刻二つ時になっていた。
「あ、ありえない。こんな刻限まで仕事をさせられるなんて。しかも、どうして僕が崇慧のやり残した仕事を代わりにしないといけないんだよ!」
ぶつぶつと文句を言いながら、両手を大きく振り、大股開きで歩く。
「次に会った時に一言文句を言ってやる。自分の仕事は自分でやりなよって!」
崇慧が陰陽寮に来るようになって、何度も言っている台詞だったが、いままで一度として完遂されたことはない。
が、それでも言わずにはいられなかった。
特に今日はだ。
いままで遅くても夕刻には帰っていたのに、今回は夜の帳がおりてから岐路に着いていた。
信じられない思いと怒りで、化生の蠢く刻限だというのを忘れている晴明だったが、どこかから聞えてきた犬の遠吠えに、怒りに満ちていた感情が急速に薄れ、気味の悪さが支配していく。
それとともに振っていた手が無意識に胸元にきて、徐々に足の運びが遅くなると、ついには歩くのをやめ、小刻みに周囲を見渡しだした。
晴明の立っている場所は明かりの灯っていない暗闇の部分で、湧き出した唾を思い切り飲み込むと、ゆっくりと後ろを振り返る。
何もない、と言うよりも、暗くてよくわからない。
「こ、ここは大内裏も近いし、右京じゃないから、そうそう物の怪なんて出ないはずだよ……」
自分に言い聞かせるように声を出すと、向き直って一歩を踏み出した。
陰陽生とはいえ、新米の晴明にとって、魍魎が現われた場合の対処法はどうすればいいのか考えてみるものの、まったく解からないから対処自体できるはずがない。
「どうして保憲様はこんな時刻まで居残りをさせたんだろう。もしものことがあったら、どうするんだよ」
崇慧から保憲の批判に切り替えると、静まっていた怒りが沸々と湧き上がってきた。
だからといって、崇慧のように文句を言い続けることはない。
二言、三言だけ言うと不平は終わり、再び周囲の静寂が気になってくる。