狂喜と絶望と復讐と
「な、なんの冗談でございますか?」
自分の頬が引き攣るのがわかる。
喉を通り過ぎて出てくる言葉が震え、それが全身へと蔓延していく。
「わしが冗談など言わぬことを知っておろう。そなたはこの子を、いや、この神を産み出すための、宿主でしかなかったのだよ」
男は稚児を手に取り、高々と掲げた。
眼球を見開き、高笑いをする男に、さっき抱いた違和感は間違いではなかったと確信し、恐れを抱き始めた。
それでも、今は母になった強さがある。
我が子を取り戻さなければと、出産を終えたばかりの躰を動かし、足にすがりつく。
「返してください! わたしの子供を返してください!!」
「そなたは人の子を産んだのではない、神を産んだのだ。素晴らしいではないか、神を産み落とすなど、できることではないぞ」
「なにを言っておられるのですか! その赤子は、わたしとあなたとの間にできた子ではありませぬか」
「……そうか、そなたは知る由もなかったな」
天にかざしていた嬰児を胸に抱くと、足元の女を見下ろす。
「何をで……ございますか?」
「そなたが眠っている間、胎児に神を宿す祭儀をおこなっていたのだよ」
「な!?」
「そなたに死なれては、子も死んでしまうからな。女房を傍に置き、毎日様子を見に来ていたのだ。だが、これでもうこのようなくたびれた邸に来ることもない」
男は満面の笑みで嬰児を見つめ、それから足にしがみつく女に目線を移し変えた。
眸が鋭くなり、裾を握り締めている母のお腹を蹴り上げる。
「いつまでわしの衣を握り締めておる。汚らわしい! 貴様のような下賎の者が、わしのような貴族と一緒になれると本気で思っていたのか!!」
「あうぅ……」
「だいたい、わしには亡き妻との間に子供もいる。それを捨ててまで、そなたと夫婦になろうなどと思うものか!」
「ひ、ひどい、わたしを騙したのですか……」
ぽろぽろと涙を流し、唇を噛み締める女を前に、男は眸を細める。
「騙してなどいない。お前を幸せにしてやろうと思った」
「だったら! なぜ、このようなひどい仕打ちを……」
「なにを言っている。神を産んだ幸福者にしてやったではないか」
女が絶句し、言葉を失う。
「それが、気に入らぬと申すか! いままで神を産んだ者などおらぬ。そなたがこの世で始めての人間なのだぞ。これほど光栄なことはない! 人知を超える力を持つ、神の母になったことを誇りに思えぬと? 名誉なことだというのに、これだから愚かな人間は度し難いのだ!!」
狂気に満ちた表情で男はまくし立て、それとともに女を何度も何度も足蹴にする。
激しい動作に頭髪も衣服も乱れ、荒い息を吐き出す。
蹴られた場所を押さえ、悶えながら頭上を見上げる女の眸を見て、男は大きく深呼吸をする。
母は強い。だが、それ以前に女でもある。
母は女に戻り、我が子を取り返すことを半ば諦めた。
泣き叫び、暴れてでも取り返したい気持ちは溢れているが、それをさせない恐怖で支配されていた。
「……一目、一目だけでもいいです。顔を、見せてくださいませぬか」
抱きしめることが叶わぬなら、せめて顔だけでも見たい。
そう思うのは、決して罪ではない。
「ふん、よかろう。神を産んだそなたにも、顔を拝む権利くらいはある」
男は膝をつき、抱きしめている赤子をゆっくりと見せた。
痛みで歪んだ顔をしていた女は、我が子の顔が見られるとほころんでいく。
が、喜びで垂れ下がった眸が畏れで開かれ、絶句する。
眸が深淵の闇のようにぽっかりと開き、唇は裂け、口からは長く伸びた舌がふらふらと揺れていた。
「……あ、あ、ああ……」
わずかに言葉はもれるものの、石のように動けずにいると、稚児の顔がゆっくりと女に向けられる。
『おぬしが、われを産みだしてくれた女か。感謝する』
産まれたばかりの赤子が口を利けるはずもなく、到底子供のものには聞こえない、歪で神経を逆なでするような声を発する。
『礼に、そなたの命を吸い取ろう』
裂けた口を全開まで開き、ちろちろと揺れていた舌が、獲物に噛みつく蛇のように女に襲いかかった。
が、女の喉に接触する寸前に急停止し、眉間に皺を寄せる。
「主様、人の気配が」
『わかっている。せっかくの馳走だと言うのに……』
「贄ならばいくらでもご用意いたします。いまは身を隠さねば。完全に力が戻りきる前に見つかれば痛手をこうむりましょう」
『しかし、この女をこのままにはしておけぬ』
「大丈夫でございます。私にお任せください」
男は倒れている女の耳元に唇を近づけると、囁いた。
「この子を手に抱きたければ、人のままでは無理だ」
気絶しかかっている女が、ぴくりと反応する。
「昔、子をさらわれた女がいた。その女は、我が子を助けるためにどうしたと思う?」
「あ……あぁ、う……」
女は横になっていた顔を上に向け、擦れていく眸で男を見る。
「鬼になったそうだ。そして、子供を取り戻したという」
にやりと口角を上げる唇。
その笑みが何を意味するのか、女は理解していなかった。
それよりも、子供を取り戻す方法、そちらのほうが鮮明に心を支配した。
鬼に、鬼に、鬼に。
愛していたはずの男は自分を裏切り、我が子を奪い去る。
抱きしめることも、手で触ることも許さない。
男から、愛しい我が子を取り返さなければ。
ただ、それだけが心を支配していく。
鬼に、鬼に、と。
びくんと、女の躰が激しく仰け反る。
「それでは、参りましょう」
男は一瞥もくれることなく、退出していく。
それでも、女がどうなっているか感じ取ることができる。
微弱ではあるが、鬼気が溢れ出しているのだ。
陰陽師であるためすぐにわかり、足の運びを早くする。
子を神にし、女を鬼に落としてまで果たしたい復讐。
それが、これから始まるのだ。




