青い青い空に雷
とりあえず、この状況で私が殴りつけても悪くはないと思うんだ。
その日、私はシャワーを浴びていた。もちろん自宅で。お気に入りのオレンジの香りのボディーソープを洗い流していたその時。浴室にこもっていた蒸気が風に乗って流れた。
お風呂場には私しかいなくて、窓や脱衣所へのドアを開けてなどいないのにひんやりとした空気が流れるはずがない。怪訝に思って空気の流れていった方へ視線を向けたら……固まった。人間、心底ビックリすると声も出ないのだと初めて体験した。
だってたいして広くもない浴室に見た事もない男が立っていたのだから。
驚くなという方が無理だ。
家族でもない、親戚でもない、ましてや友人知人でもない、全く見知らぬ二十歳前後の異性。そいつも驚いたようにぽかんと口を開けて突っ立っている。こんな状況でアレだが何というか、うん、間抜け面。
突如人の家の風呂場に現れたこの男。一言で表すなら『王子様』である。それも大変顔のよろしい。
長い髪は一本の三つ編みにされ、首の後ろから右肩を通って前に垂らされている。その桜色の髪は編んであるにも関わらず腰の辺りまである。その桜色の前髪から覗くつり目ぎみの瞳はツツジ色。
萌黄色の軍服のような服には若草色の見事な刺繍が施してあり、膝裏くらいまである白いマントは絹の様な艶やかさ。
全体的にパステルカラーで春のような印象だが、ピンクの髪にピンクの目って染めるにしてもカラコンにしてもこのカラーリングは如何なものかと思う。
それから彫りの深い顔はどう見ても外国の人で到底日本人には見えない。あと腰には剣と思われる物体が。……銃刀法違反とか知ってますか?つーか知っててくれよ。私の身が危ないだろう、今現在。いきなりグサリ、とかやられたら冗談じゃないって。
腰に佩いた剣が本物であれ偽物であれ凶器であるのには変わりがない。そんな武装している男に比べて私は真っ裸。風呂に入っていたんだから当たり前だけど。
シャワーから絶えず流れる水流はボディーソープの泡を落とすという役目を終え、今はただ私の素肌を打っている。男前な不法侵入者とお互い見つめあう事数秒、正気に戻ったのは私の方が早かった。とっさにシャワーの水の蛇口を閉め、無言の気合いと一緒にシャワーヘッドごといまだにぽかんとしている痴漢男に全力で投げ付けた。
「ぅあっつーーーっ!」
水の蛇口を閉めた為、シャワーから出ているのは熱湯。それが衣服の上からとはいえ身体にかかったのだ。水で薄めてないんだからそりゃ熱いだろう。肌の出ている顔や手にもかかったかもしれないが、そんなもの私の知った事ではない。不法侵入で痴漢な犯罪者に容赦する必要などないのだ。そんな乙女の敵には人権なんぞ認めない。こちらはか弱い乙女やっちゅーねん。
それからついでとばかりに足元にあった洗面器も掴んで投げ付ける。鈍い音がして顔面を押さえる変態。熱湯と洗面器のダブルパンチで悶絶する不審者の横を素早く通り過ぎ、私は浴室から脱衣所へと脱出を謀った。
……はずだった。
踏み出した私の右足は脱衣所へ行こうとしていて、中に浮いていた。その時、蹲っていた男が思いの外強い力で私の足を掴んで引っ張ったのだ。私の『左足』を。どうなるかなんてわかるだろう?案の定バランスを崩した私の身体は後ろへとひっくり返る。
声を出す間もなく後頭部への衝撃と共に私は意識を手放した。最後に思った事はうわー私まっぱじゃん、という情けなくも女としては切実なものだったのを追記しておく。
今はもう馴染んでしまった、見慣れない夜空をよく仰いでいたあの頃。私は確かに異物だった。泣き喚いて怒鳴って癇癪をおこして。ひたすら『帰りたい』と願っていた。
風呂場で頭を打って気絶した後、目が覚めたら知らない場所で私の世界には帰る方法がないと言われたから。わけも解らないまま私は私の生まれた世界と決別したのだ。これが自棄にならずにいられようか。
私には私の世界が……生活があったのだから当然だ。家族が、友達が、仕事が、恋人……はいなかったけれども。私を形作ってきた、そしてこれからも形作っていくはずだったそれらをいきなり失った喪失感。もう二度と手に入れられないという絶望。
どれくらいの間ふさぎ込んでたのかはあんまり覚えてない。でもある日、すとんと気持ちが落ち着いた。っていうか突き抜けた。泣き喚いてても仕方ないって。そう思えるようになったのはきっとあの人のおかげだ。まあ彼だけじゃなくてその周囲の人のおかげもあったけど。
それから私は前向きにこの知らない世界と向き合うようになった。知らないならば知ればいい、居場所がなければ作ればいい。物語みたいにうまくはいかなかったけれど、毎日少しずつ自分に出来る事はやってきた。そして出来た私のいていい安心できる場所。
この場所を手に入れるまでに元の世界にいたなら考えられないような体験もした。命を狙われたり謀に巻き込まれたり貞操の危機に陥ったり大怪我をしたり命を狙われたり。事実は小説よりも奇なりっていうのを実感した。
非日常が日常になる生活ってどうよ!とこの世界で出来た気の置けない友人その一に愚痴ると『諦めろ』と一刀両断され、その二に言うと『君のしぶとい生命力と悪運の賜物だよね』とにっこり笑われた。……何で私こんなのと友達になったんだろう。特に友人その二。
次々と思い浮かぶ昔というほど昔ではない過去に苦笑する。辛かった事も、苦しかった事も、悔しかった事も、悲しかった事も。嬉しかった事も、楽しかった事も、恥ずかしかった事も、驚いた事も。もう帰れないあの世界で体験した事も、この世界で体験した事も。それら全てが今の『私』を作っている。
感慨深く見上げた夜空は無数の星であふれ、何ともいえない気持ちにさせた。はあ、と溜息を吐くと後ろから馴染んだ香りと共に温かいものに包まれた。
「どうした?」
抱き締められたまま頭上で呟かれる声音に伺うような色が滲んでいる。あらら、心配させちゃったか。ちょっとぼうっとしてただけなんだけどなあ。
まったくこの人は心配性っていうか過保護で困る。そうさせてしまうような事があったから仕方が無いのかもしれないが。この世界に来てしまったばかりの頃の精神的に不安定な時期も知られてるし。あとは……主に殺人未遂とか誘拐とか殺人未遂とかの事件に巻き込まれたり。何でこう私の周囲では事が起こるのかと小一時間くらい誰かに問い詰めたい。
「んー?ちょっと考え事」
背後の彼に凭れ掛かりながら、私のお腹の前で組まれた私よりも大きな手に触れる。
「不安、か?」
「まさか。明日、晴れると良いね」
そうだな、と呟く彼の腕の中でくるりと反転する。ツツジ色の目を見て笑いかけると彼も目を細めた。ああ、幸せだ。
「しっかし、まさか私が異世界で結婚するなんてねえ……」
しかもお風呂場に侵入した変態と。
「いや、あれは不可抗力だっ!」
クスクス笑う私に憮然とした表情で反論する明日正式に夫となる彼。私には口では勝てた事のない彼の人は笑いの治まらない私をぎゅうっと抱き締めた。
異世界トリップして王子様と結婚とか。
まさに青天の霹靂。