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没落令嬢アデライン・アルマン侯爵令嬢の結婚  作者: やまだ ごんた


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9/16

9.始まりの朝

 重いカーテンが開かれ、一気に明るくなった部屋でアデラインは目を覚ました。

「おはようございます。奥様」

 ナタリーは相変わらずの仏頂面で、アデラインに頭を下げた。

「おはよう。ナタリー」

 アデラインはまだ眠気をひきずったまま、もそもそとベッドから這い出た。

 サイドボードには花の絵が散りばめられた陶器のたらいが2つ並んでいて、1つからは心地よさそうな湯気が立ち昇っている。

 アデラインはひとりで微笑むと、湯気が立っているほうのたらいで顔を洗った。程よい温度のお湯が、夜の冷気で引き攣った顔をゆっくりと解してくれるようだ。

 続いて冷たい水でもう一度洗う。冷たい水は肌を引き締めて血行を良くしてくれるのだ。

 顔を洗い終えるとナタリーの差し出したガーゼの手拭いで顔を拭き、鏡台の前に腰を下ろした。

 鏡台の上には昨日はなかった薔薇の香りのする化粧水や、蜜蝋を練り込んだ良い香りのするクリームなどが並べられていた。

 鏡越しにナタリーを盗み見ると、少しだけ気まずそうにブラシを持って立つ姿に、アデラインは気がついていないふりをしながら微笑んで、目の前に並べられた化粧水のボトルを手に取った。


 食堂で軽い朝食を済ませたアデラインは、自室に戻るとトマスから預かった予算表を睨んでいた。

 一見複雑な簿記の記述に見えたが、読み込んでみるととてもわかりやすくまとめられていることに、アデラインは感心した。

 おかげで今年の予算の使い道と、残りの金額を把握することができた。

 アデラインはひと息ついてナタリーを呼ぶと、トマスとポーラを自室に来るよう伝言を頼んだ。

「この屋敷に招いたゲストのリストも持って来るように伝えてね」

 アデラインが付け加えると、ナタリーは頷いて部屋を出た。

 10分とかからずにトマスとポーラが部屋を訪れると、アデラインは予算表と書き記したメモ書きをトマスに渡した。

「屋敷の模様替えをしたいと思うの。このお屋敷にはとても高価な装飾が多いから、それを活かした配置にしたいわ。旦那様に了解を取って下さる?」

「旦那様は屋敷のことは奥様のお好きなようにとおっしゃっておられました」

 トマスが答えると、アデラインは少しだけ驚いて、ついポーラを見てしまった。

 ポーラは真っ直ぐに立ったまま、アデラインの顔を見返して小さく頷いた。彼女も承知のことなのだとわかると、アデラインは少しだけ心が軽くなったような気がした。

「報告を見せてもらったわ。リネン類は今年全て入れ替えて、家具の修繕も済ませているのね。余った予算内でお庭のお手入れをしたいのだけど、いいかしら」

「承知いたしました。手配いたします」

 トマスの返事にアデラインは安心したように微笑むと、ポーラを見た。

「屋敷の模様替えの前に、装飾品の目録と合わせておきたいの。お願いできるかしら」

 アデラインの言葉に、ポーラは丁寧に頷いた。

 次に、アデラインはトマスが持ってきたこれまでのゲストのリストに目を通した。

 ナタリーの言ったとおり、頻繫に客を迎え入れるような屋敷ではないようで、過去3年間の訪問客は僅か1枚の紙に納まる程度だった。

「この屋敷のゲストは平民のブルジョワばかりね」

「左様でございます」

 トマスの返事に、アデラインはリストから目を離さないまま続けた。見知った貴族の名前が一切ない。

 その代わりに、新聞で時折見かける銀行家や、投資家の名前が所々に書かれていた。

「昨日のジーンの給仕は悪くはなかったわ。でも、旦那様は今後貴族のお客様をお迎えになる機会も増えるでしょう」

 トマスにはアデラインの言わんとすることがすぐに理解できた。

 ジーンが昨夜、アデラインのグラスに酒を注ぐ時、彼は何度もそっとグラスの底を手で押さえていた。その上、食器の音を食堂に響かせるという失態も犯していたのだ。

 ゲストなど滅多に迎え入れない環境が、完全に仇となった。そのせいで、使用人たちの実戦経験はあまりにも乏しく、本物の洗練から遠く外れてしまっていたのだ。奥様はまさに、その怠慢と技術の未熟さを見抜かれ、警告されているに違いない。

 トマスは眉間に皺を寄せて、自分の教育の甘さ——いや、自分の作法の甘さを恥じた。

「私の落ち度にございます。すぐに私を含め再教育を徹底いたします」

 トマスの返事にアデラインは満足そうに頷くと、次にポーラを見た。

「この屋敷に客間メイドは?」

「おりません」

 ポーラははっきりと返事をした。

 堂々とした態度から、おそらく不要と言ったのはヒューガードか、義父母のいずれかなのだろう。自分に落ち度はないと言いたげな態度に、アデラインは好感を覚えた。

「先ほどトマスにも言った通り、今後は必要となることも増えるでしょう。メイドたちを整えてちょうだい」

「かしこまりました。ひと月以内に」

 ポーラの自信に溢れた答えに、確信めいたものを感じたアデラインは満足気に微笑むと、もう一度トマスを見た。

「結婚祝いへの返礼を整えたいわ。手伝いができる侍女と侍従を手配してほしいの——そうね、1週間以内には可能かしら」

「侍従はトビー・フェルナンドをお付けします。字の読み書きができて、計算も得意な男です——侍女につきましては、実は本日の午後に屋敷に来るよう手配しております」

 トマスの返事は、ジーンの失態を挽回するには最適以上のものだった。


「キャサリン・デニスと申します。奥様、お会いできて光栄ですわ」

 きっちりと結い上げた赤い髪とエメラルドのような鮮やかな緑の瞳が印象的なキャサリンは、身上書によると31歳でデニス男爵の未亡人ということだった。

 デニス男爵といえば、この国でもかなり古い家系であり国王陛下の覚えもめでたかったと、アデラインは記憶していた。

 2年前に40歳を過ぎたばかりの頃に亡くなり、爵位は実弟が継いだと新聞で読んだ記憶がある。

「アデライン・アルマンよ。男爵は素晴らしい方だったとお父様から聞いたことがありますわ」

「ありがとうございます。おかげさまで、男爵家でもよくしていただいておりましたが、子供もおらず血縁関係もない者がいつまでも居候をするのは心苦しかったところに、お声がけいただくことができて、とても嬉しかったのですわ」

 キャサリンが微笑むと、アデラインの心まで明るくなるようだった。

 決して美人ではないが、愛嬌のあるキャサリンのことを、アデラインはすぐに好きになった。

 所作や礼儀作法はもちろん、アデラインの指示から意図を汲み取って、てきぱきと仕事をする姿は、ナタリーの仏頂面すらも崩すほどだった。

「では、早速奥様のお着替えを手伝わせてくださいませ」

「あら、わたくしはこの格好が好きなのだけど」

 ポーラが用意した新しいシュミーズドレスは、モスリンの生地を二枚重ねた長袖で、とても着心地が良かった。

「それは結構ですわ。では、おぐしだけでも整えさせていただいてよろしいですか」

 その提案にはアデラインは断る口実がなかった。

 アデラインが鏡台の前に座ると、キャサリンは早速ブラシを動かしながらナタリーに指示をだす。

 ナタリーとて、アデラインから見れば仕事のできるメイドだったが、キャサリンはナタリーの動きを先読みした指示を出すものだから、ナタリーは慌てふためきながらキャサリンの指示をこなさねばならなかった。

 それでも、きっちりこなすあたり、やはりナタリーは優秀なメイドなのだと、アデラインは改めて感心したのだった。

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