11.ヒューガード
「旦那様、ケイル様がお見えになりました」
扉を叩く使用人の声が、ヒューガードを思い出から引き戻した。
返事を待たずに部屋に入ってきたのは、サテンのスーツを粋に着こなした浅黒い肌をした男だった。
「やあ、アルマン小侯爵どの」
女が喜びそうな華やかな顔に軽薄な笑みを浮かべる男だったが、黒曜石のような黒い瞳には親しみが込められており、ヒューガードの心をどことなく軽くさせた。
「アリスター。3か月ぶりか?」
ヒューガードは立ち上がると、部屋に置いたソファへアリスター・ケイルをエスコートした。
「新婚生活はどうだい?美人の奥方はいつ紹介してくれるんだ」
柔らかい絹張りのソファにゆっくりと腰を落とすと、狙いすましたように使用人が小さなカップに入った香りのいいコーヒーを運んできた。
アリスターから購入した真鍮のジェズヴェで煮たてた、砂糖とスパイスたっぷりのターキッシュコーヒーは、粉っぽく味も濃厚すぎて最初は苦手だったが、今では難なく飲めるようになっていた。
「しかし、鉄道の投資権が欲しいからって、本当に貴族になるとはね」
アリスターはコーヒーを飲み終えると、楽しそうにカップに皿を被せてひっくり返した。
「港の二の舞は御免だからな」
ヒューガードは、ソファに大きくもたれるとテーブルの上に置いてあったパイプを手に取ってゆっくりと火をつけた。
「だからって侯爵家に婿入りなんて、さすがというか」
アリスターが笑うとヒューガードはゆっくりと煙を吐きだした。口の中の濃厚なコーヒーの香りがまろやかな苦みへと中和されるようで心地良い。
「没落した貴族なんか、金をちらつかせれば平民より簡単だ。どうせ手に入れるのなら中途半端な貴族なんかより、歴史ある侯爵家の方が何かと都合がいいだろ」
まるで商談をひとつ片付けたようなヒューの言い方に、アリスターは肩をすくめ、弄っていた皿に臥したカップを止めて、ニヤリと笑った。
「おい、何度も言うが俺は占いなんて非科学的なもの信じないぞ」
「まあまあ。俺からの結婚祝いさ」
「この19世紀に何を馬鹿なことを」
ヒューガードが呆れるのも構わず、アリスターはカップを持ち上げてカップの中を覗き込んだ。
「ほお——」
アリスターは興味深そうな表情でまじまじとカップを見つめていたが、ヒューガードに向けるとニヤリと笑ってみせた。
「底に沈んだ粉はひび割れた荒野か底なし沼みたいだ。お前の過去がこれだ。苦労、信頼、裏切り——だな」
ヒューガードは白けた表情で黙ってその汚れを見ていたが、アリスターはご機嫌よろしく続けた。
「ほら、ここに三日月のように粉が抜けてる。これは望みが叶う吉兆だ。だが、この影の形は……そうだな。犠牲——だな。きっと望みが叶う代わりに何か犠牲を払う徴だ」
「俺にはただの汚れにしか見えないが?」
ヒューガードが煙を吐き出すと、アリスターはその手からパイプを取り上げて自分の口元に運んだ。
「まぁそう言いなさんなって。よく当たるんだぜ?この占いは」
ゆっくりと煙を吐き出すと、パイプをヒューガードに返しながら、彼の目を漆黒の瞳で覗き込んだ。
「馬鹿馬鹿しい」
「けど、当たってるだろ?どうせ投資権を手に入れたら教会に働きかけて離婚するつもりなんだからさ」
トビーからカードを受け取ったアデラインは、まさか返事が来るとは思っておらず、驚きを隠すことができなかった。
『今後も不自由があればトマスに言うように』
それだけの文章だったが、アデラインは不思議と安堵した。
結婚してから3日が経つが、一度もヒューガードには会っていない。屋敷に帰ってきているかどうかも怪しい夫の存在を、アデラインは段々幻のように感じていたからだ。
カードに書かれた文字は、貴族のようにかしこまっても気取ってもいない、事務的な堅実な筆跡だった。
だが、それが不思議と夫の人格を表しているような気がした。
少なくとも、あの日初めて会った夫は、ちゃんと実在するのだという安心感が、アデラインには少しだけくすぐったくも感じられたのだった。




