さよなら平成
一人の男がタクシーに乗り込んだ。男はよれよれのトレンチコートを着ており、両手をポケットに入れて後部座席の真ん中に座った。髪は寝癖がついたままで、髭も剃られておらず無精髭。左目の下に小さな火傷跡があったが、それよりも印象的だったのがその目に生気が見られなかったことだった。いかにもわけありそうな男であった。タクシーの運転手は後ろからでは顔がよく見えないほど帽子を深くかぶっていて、気だるそうにバックミラー越しに男を見ると、
「お客さん、どちらまで」と言った。
「一九八九年まで」
それだけ言うと、男は背もたれにもたれかかった。運転手は「はいよ」と返事をして、タクシーを動かした。しばらく普通に走りだしてから運転手は言った。
「今から時を遡りますのでシートベルトをしてください」
男はポケットから手を取り出し、トレンチコートで汗を拭うとシートベルトをしてまたポケットに手を突っ込んだ。
「時間酔いで頭が少しばかり痺れたような感覚になるかもしれないですが、それこそ時間が経つと自然と治るので我慢してください。どうしてもつらい時には言ってください」
運転席の横に取り付けられているメーターの数字が二〇二〇年からめくれるようにして少しずつ数字が減っていった。それから車内から見える景色は異様なものであった。車が動き始めたときは景色が通り過ぎるものであったが、次第に建物や歩いている人たちが歪んでいって真っ黒な空間へと変貌していった。ヘッドライトの光も暗闇へと吸い込まれるだけで何も照らすことはなかった。たくさんの色をパレットの中でかき混ぜたようだと男は思った。
「お客さん、平成元年産まれかい?」
「……ええ、まあ」
運転手に声をかけられて男は面倒臭そうに俯いた顔をあげた。
「どうしてわかったんですか?」
「意外と多いんですよ。自分の産まれた年代に行こうとする人って」
「へえ、そんなもんですか」
「過去に行ってどうするんです?」
「特には。とりあえず平成にさよならしに行こうかと思って」
「面白いことを言いますね。平成にさよならかぁ。今度使わせてもらいますね」
「はあ、どうぞ」
「ただ気を付けてくださいよ。当たり前ですが、時代が変わるというのは今とは違うということですから」
「そりゃあ、そうでしょうよ」
「いやいや、お客さん。これが意外と皆さん考えているよりも危なかったりするもんなんですよ。お客さん、何か危なっかしそうだから心配だなぁ」
男にとって運転手の話はどうでもよかった。会話をするというものが『行為』に感じてしまっている彼には、取って付けたワードを探すだけでも苦痛で億劫であった。しかし、次の運転手の言葉でそうも言っていられなくなってしまった。
「それにそんな物騒なものを持っていちゃあねえ」
男は驚いた表情を浮かべると、ポケットの中で握りしめていたそれをゆっくりと取り出した。拳銃である。
「……どうして、わかったんですか」
「意外と多いんですよ。自分の産まれた年代に行こうとする人と同じで、自分の産まれた年代で死のうとする人も」
「そう、でしたか」
「あれのせいかい?」
男は頷く。
「会社が倒産しまして。同い年の何人かで設立した会社だったんですがね。余裕はあまりなかったんですが、今日まで精一杯やれていたんです。よく会社の奴らと言ってましたよ。新しい元号になって、これからもっと頑張らないとなって。今まで最初の平成世代としてやってきて次の新元号世代に負けないようにって、みんなと笑いあいながら。それがあんな……。相手が確かなものだったらまだよかった。目に見える敵として、諦めもついたかもしれないですが。だけど、こんなの、こんなのってないじゃあないですか。素人が書いたシナリオじゃあないんですよ! こんな結末ってないですよぉ」
声を震わせて涙ながらに男は言う。最後のほうは今にも消えそうなほど小さな声だった。
お互いに沈黙する。車内にエンジン音と風切り音だけがしばらく続いた。車の外には相変わらず黒い空間が広がっていて、これからが見通すことができない、今の時代の不安が形になっているようだと男は思った。
最初に言葉を発したのは運転手だった。
「生きていればなんとかなる。悪いこともあればいいことだってある。これからやり直せばいい。誰だって苦しい。みんなで乗り越えよう。そんなことは言いません。悪いものは悪い。苦しいものは苦しい。死にたいと思う気持ちですら他人がとやかく言うべきではないと私は思います。だってそう感じたこと、それは事実ですから。だから私があなたを慰めることもしません。どう言ったところでそれはその時の、当人だけの苦しみだ。ましてや他人がどうしようと今の本人が乗り越えるしかない。だからこれは私が私に向けた言葉として聞いてほしいんですよ。要は独り言だと思ってください」
そこで一度、運転手は息を深く吸い込み言った。
「負けんな」
その一言が、男には鉛玉を頭に打ち込まれるよりも強烈なものだった。脳が痺れるような感覚。両手で顔を覆いながら声を出して泣いた。子供のときのように、嬉しさに、悲しさに、不安に駆られながら。感情任せに、ただただ泣いた。
「着きましたよ、お客さん」
「ありがとうございます。えっと、タクシーチケットは使えるかい?」
「ええ、使えますよ」
運転手はタクシーチケットを男から受け取った。そして拳銃を指さすと、
「あと、そいつも」
男は一瞬、悩むそぶりを見せたが大人しく拳銃を運転手に渡した。
「それじゃあ、お客さん。いってらっしゃい、良い時を」
男は何か言いたげな表情を浮かべたが、何も言わず諦めたかのように手を振ってタクシーを降りて行った。男はしばらくあてもなく歩く。すると電気屋に展示してあったテレビを見て、足を止める。美空ひばりの歌が流れていた。男は彼女の歌が好きだった。男は唇を噛みしめてまた歩く。これからどうなっていこうが顔をあげて真っ直ぐ、ひたすらに。時の流れのようにやっていくしかない。男の目には涙と生気が宿っていた。
運転手は男が去った後、改めてタクシーチケットを見つめる。そのチケットの有効期限は二〇二〇年五月十日と印字されていた。男がタクシーに乗った日二〇二〇年五月十一日。チケットの有効期限から一日過ぎていたのだった。
「まあ、いいでしょう。なんてったって、今は一九八九年なのだから」
運転手は窓を開けて銃口を空に向けて引き金を引いた。銃声が平成に響き渡った。
「さよなら平成、そして私」
運転手は拳銃とくしゃくしゃに丸めた期限切れのタクシーチケット、そして深々とかぶっていた帽子を窓から投げ捨てた。バックミラー越しに映った運転手の左目の下には小さな火傷跡があった。
彼は時を駆けるタクシーを運転する。




