二十五年目の箸袋
スタジオの強烈なライトは、何度浴びても慣れることがない。
網膜を焼くような白光の向こう側で、何十人もの観客が僕たちの言葉一つひとつに反応し、波のような笑い声を上げる。
その中心に立っている自分を、二十五年前の自分が見たらどう思うだろうか。
「――いや、本当に失礼な奴だったんですよ」
僕はひな壇の中段で、苦笑いを浮かべながらマイクに向かって喋っていた。番組のテーマは「ファンとの忘れられない思い出」だ。
他の芸人たちが「熱狂的なファンに追いかけられた」「高価なプレゼントをもらった」といったエピソードを披露する中、僕はあえて、ずっと心の隅に澱のように溜まっていた、あの夜の話を持ち出した。
下北沢の夜、二十五年前
「まだ僕が二十代の後半で、深夜番組にちょっと出始めて、『あ、顔見たことあるかも』って言われ出した頃の話です」
舞台は下北沢の、古びた居酒屋だった。
当時の僕は、常に苛立っていた。
深夜番組のネタ見せコーナーで少しばかり注目を集め、劇場での出番も増えていたが、給料は家賃を払えば消えてしまう程度。将来への不安と、自分たちの才能に対する根拠のない自信が、胃の腑で常にせめぎ合っていた。
その夜、僕は相方と二人で、ライブの反省会を兼ねて安い居酒屋のカウンターに座っていた。ビールは水っぽく、突き出しのポテトサラダは乾いている。店内のテレビでは、名前も知らないアイドルが愛想を振りまいていた。
「……なぁ、今日の二本目、あそこの間をもう一秒詰めた方がよかったかな」
相方の言葉に答えようとした時、横から不意に声が掛かった。
「あの、すみません。テレビに出てる人ですよね?」
振り向くと、そこには僕と同じくらいの年齢の男が立っていた。顔は赤く、足元が少しふらついている。酔っ払いの客だった。
僕は愛想笑いを浮かべ、「ああ、一応芸人をやってます」と短く答えた。サインを求められることもたまにはあったが、大抵は色紙や、せめて手帳の端切れだ。
だが、その男が差し出したのは、あろうことか**「割り箸の袋」**だった。
「サイン、もらえます? 名前分かんないけど、昨日テレビで見て面白かったから」
僕は絶句した。
割り箸の袋。すでに使い古され、油染みが少しついた、ペラペラの安っぽい紙だ。
相方が隣で眉をひそめるのが分かった。僕の胸の中にも、熱い塊がせり上がってきた。
(馬鹿にされている――)
そう思った。色紙を用意するほどでもない、その辺のゴミにでも書かせておけばいい。そんな傲慢さが透けて見える気がした。
「おい、失礼だろ。せめて紙ぐらい……」
相方が口を開きかけたが、僕はそれを手で制した。
怒鳴りつけてやりたかった。こんなゴミに書く名前は持ち合わせていない、と。だが、当時の僕は、わずかな知名度を失うことも怖かった。ここで騒ぎを起こして「売れかけの芸人が威張っていた」と噂されるのが、何より恐ろしかったのだ。
「いいですよ。これで」
僕は無理やり口角を上げ、男が差し出したマジックをひったくるように受け取った。
ザラザラとした箸袋の表面に、殴り書きのようなサインを書く。インクが滲んで、僕の名前はひどく汚らしく見えた。
「はい、どうぞ」
「あ、あざーす。頑張ってくださいね、名前知らんけど」
男は千鳥足で自分の席に戻っていった。僕は彼がその箸袋をポケットに無造作に押し込むのを見た。どうせ明日になれば忘れて、洗濯機の中でボロボロになるか、ゴミ箱に捨てられる運命なのだろう。
惨めだった。
自分の芸が、自分の名前が、その程度の価値しかないのだと思い知らされた気がした。その夜のビールの味は、生涯で一番苦かった。
書き換えられた意味
「――っていう話なんです。酷いでしょ? 箸袋ですよ。芸人を人だと思ってないというか、使い捨ての道具だと思ってるんですよ、その男は」
スタジオ内は爆笑に包まれた。司会の大御所芸人が「そら腹立つわな!」「名前も知らんのにサインもらうなよ!」と合いの手を入れ、観覧席からも同情混じりの笑いが漏れる。
僕は完璧な「芸人の顔」で、その場を盛り上げた。かつての屈辱も、今や立派なネタだ。二十五年という歳月は、鋭かった怒りの角を丸く削り、笑いという名のコーティングを施してくれた。
収録は無事に終わり、僕は楽屋へ戻った。
マネージャーが手渡してくれたタブレットを見ながら、ふと気になってSNSを開いてみた。番組の感想がリアルタイムで流れている。
『あの箸袋の話、笑った』
『確かに失礼すぎるw』
そんな投稿が並ぶ中、一つの投稿が僕の目に留まった。
そこには写真が添えられていた。
茶色く変色し、縁がボロボロになった紙切れ。二十五年という月日を物語る、黄ばんだ質感。しかし、そこに書かれた文字は、紛れもなく僕が書いた、あの日の殴り書きのサインだった。
投稿には、こう添えられていた。
あの時の酔っ払いは僕です。
本当に失礼なことをしたと、ずっと後悔していました。
あの夜、正直に言えば、ただの冷やかしのつもりでした。明日には忘れるはずでした。
でも、あの後、あなたがどんどんテレビに出て、辛い時も苦しい時も画面の中で笑っている姿を見ていたら、どうしても捨てられなくなりました。
「名前も知らない誰か」だったあなたが、僕にとって「なくてはならない人」に変わっていったんです。
この箸袋は、僕の宝物です。
あの時、書いてくれてありがとうございました。
楽屋の空気が、急に薄くなったような気がした。
画面を凝視する僕の指が、かすかに震えていた。
捨てられるはずだったゴミが、二十五年の時を超えて「宝物」と呼ばれている。
あの夜、僕が感じた怒りや惨めさは、相手の悪意によるものではなかったのかもしれない。いや、たとえ最初は悪意や無知から始まったものだとしても、僕が歩んできた道が、その意味を書き換えたのだ。
サインをした対象が色紙だったか、箸袋だったかなんて、実はどうでもいいことだった。
重要なのは、その後の僕が、その署名にどれだけの重みを乗せられたか。
あのペラペラの紙切れを「捨てられないもの」に変えたのは、他ならぬ、二十五年間泥を這いつくばって笑いを取り続けてきた、僕自身だった。
「……何、ニヤついてるんだよ。気持ち悪い」
着替えを終えた相方が、鏡越しに僕を見て呆れたように言った。
「いや。……いい芸人になれてよかったなと思ってさ」
「はぁ? 何言ってんだよ。早く行くぞ、次の現場」
僕はスマホをポケットにしまい、立ち上がった。胸の奥に、かつての苛立ちとは違う、温かくて重い何かがどっしりと居座っているのを感じた。
楽屋を出ようとした時、廊下で出番待ちをしている若手コンビとすれ違った。その一人が、何やら憤慨した様子で相方にまくし立てているのが聞こえてきた。
「信じらんねえよ。さっきの出待ちの奴、コンビニのレシートにサインしてくれって言いやがったんだぜ? 俺たちのこと何だと思ってんだよ。失礼にも程があるだろ」
若手の男は、かつての僕と同じ目をしていた。尖っていて、脆くて、自分の価値を誰かに認めてもらいたくて仕方のない、飢えた獣の目だ。
僕は一度通り過ぎようとしたが、ふと思い直して足を止めた。
振り返り、驚いた顔をする若手芸人の肩に、ぽんと手を置く。
「……あ、お疲れ様です!」
大先輩の登場に、彼らは慌てて直立不動になった。
「レシートにサイン、書いたのか?」
僕の問いに、若手はバツが悪そうに頷いた。
「はい。断るのも角が立つと思って……でも、あんなの絶対すぐに捨てられますよね」
僕は笑った。かつての僕ができなかった、心からの笑顔で。
「いいか。失礼だなんだってキレる前に、まず死ぬ気で売れろ。誰からも文句を言わせないくらい、面白い芸人になれ」
若手たちは呆気に取られたように僕を見ている。
「お前が何十年も笑わせ続けて、誰かの人生に深く食い込んだ時、そのレシートはゴミじゃなくなる。相手が『一生捨てられない』って震えながら抱きしめるような、世界に一つだけの宝物に変わるんだよ。……**サインを捨てられないような芸人になれ。**話はそれからだ」
それだけ言い残して、僕は歩き出した。
背後で若手たちが「……深けぇ」「いや、意味分かんなくない?」と囁き合っているのが聞こえたが、それでいい。彼らもいつか、自分だけの「箸袋」に出会う日が来るはずだ。
スタジオの廊下は、どこまでも明るい。
僕は次の現場へ向かうため、一歩一歩、その光の中へと踏み出していった。
かつて箸袋にサインをした、あの日の情けない自分を、少しだけ誇らしく思いながら。




