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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

千尋山の侍

掲載日:2025/11/01


 昨晩の嵐はどこかへ過ぎ去ったようだ。夜遅くまで、風はうるさく泣き続け、雨が家を太鼓扱いで叩きつけ、震えさせていた。

 着流しで外に出ると、空には雲一つなく、山から頭の先っぽだけ出した、白い太陽が城下を見下ろしている。家の門前には落ち葉がまだらにちらばっている。青々としていて、秋がまだ遠く、暑い日がしばらく続くことを思い知る。

 箒ではいておいたほうがいいだろう、庭に戻ろうとしたところで声をかけられた。

「青谷(あおや)様、おはようございます」

 声をかけてきたのは岡っ引きの玉七だった。

「与力の遠野(とおの)様が至急奉行(ぶぎょう)所へ出仕されたし、との事です」

「あい、分かった」

 青谷が答えると岡っ引きは欠伸(あくび)を漏らしながら帰って行った。青谷は家に入り羽織を着た。

 二本を腰にさすと憂鬱(ゆううつ)な気分になった。

(さて、急な呼び出しとは、昨日の嵐で土座衛門(どざえもん)(水死体)でも出たのではなかろうか)

 青谷は沈んだ気持ちで水たまりがそこかしこにある道を歩いて行く。町の商人たちは店先の水をはいていた。子供たちは泥の水たまりに飛び込み、ぴしゃぴしゃと茶色い水しぶきを飛ばす。

 (私の憂鬱も、あの水しぶきのように、飛んでいけばよいのに――)

 

 奉行所に着き中に入るとすぐに遠野が目に入った。いつも以上に表情は険しい。もっともこの男の笑顔など見たことがない。

「おはようございます、何かありましたか?」

「お奉行様の呼び出しだ。付いてこい」

 遠野はぶっきらぼうに言い放ち、奥の部屋へと向かう。

 奉行に呼び出しをくらうような失態は今年に入ってからは覚えはない。かといって良い話でもないだろう。そちらのほうは同心になってから一度も覚えがない。

「お奉行、青山が参りました」

「通せ」

 奉行の執務室の前での、障子越しのやりとりを、青谷は心ここにあらずの状態で見ていた。

 遠野は障子を開け、青谷を中に通すと、障子を閉め、その場から離れていった。

 奉行の新城(しんじょう)は机の上に置かれた書類に目を通していた。こちらに向き、青谷を確認すると、書類を閉じ咳払いをした。

「これより城内に向かう、付いてこい」

「私に何か手落ちがありましたか?」

「……詳しくは知らんが、指令があるらしい」

「直接私に? 城内からですか?」

「詳しくは知らんといっただろ、行くぞ」

 奉行は立ち上がり障子を開け出ていった。青谷も慌てて続く。

 

 五千石の虎狼(ころう)藩の城はそれほど大きくも豪華でもない。しかし、外の作りに比べて中の作りは立派なものだ。藩の財政以上のものと言える。それを可能としたのが先代筆頭家老加藤富重(かとうとみしげ)によるところだ。

 富重は藩の財政を豊かにするために、偽金作りに着手した。藩内で作った偽金を呉服屋などを使って、他藩での取引に使用し、呉服屋は富重に謝礼を渡す。富重はその謝礼を元手に呉服商売に加担し、藩内で作られた呉服が隣藩でも売られ、大変な金を生んだ。富重は藩主からも気に入られ、藩内の信任と金、そして権力を一手に握り、不正をただそうとする藩士を黙殺し、貧乏藩を並みの藩まで押し上げた。老いて床に伏せるようになると、若年寄の息子、記明(ふみあき)に仕事を任せるようになった。記明は富重に負けずの才覚で、呉服を名産品にし、京で売る計画を立て、呉服屋などから資金を募り、上方への工作を始めた。藩内の商人からの評判もあり、父の死後正式に筆頭家老に記明がなるが、どこからも反対の声は出なかった。

 しかし、加藤家の悪運もここで尽きた。加藤家本宅から出火し、記明を含む一族全員と莫大な資産が炭となって散った。この衝撃的な火事の余波は二月たってもまだ消えない。

「新城正武(まさたけ)、青谷源之丞(げんのじょう)を連れてきました」

「よし、通れ」

 新城は顎で青谷に行けと指示した。青谷は恐る恐る部屋の中に入った。

 小姓(こしょう)が待ち構える、部屋の中に入ると、筆頭家老佐久間喬知(さくまたかとも)が座っていた。城主が江戸の大名屋敷にいる間は筆頭家老が城代を務める。大名不在の藩内では一番の権力者だ。一介の下級武士の自分が直接話すことは無い立場の人間だ。

 頭を下げたままこの部屋の空気、その圧迫感に青谷は動けなくなった。

 佐久間は加藤富重の政敵ともいえる立場で、徳川吉宗の言葉を使い、質素倹約を説いていた。

 金回りのいい加藤が最大勢力を誇る一方、加藤の振る舞いに反感を持つ者は佐久間の味方となった。佐久間一派は藩内での力こそ弱かったが、潜在的な反加藤の数は多く、加藤家が亡き後、藩内を佐久間が掌握したのは自然の成り行きと言える。

 加藤派の者からは「火事は佐久間が起こしたのではないか!」、と流布する者もいたが、佐久間はいたって保守的で慎重な人物だ。こんな大事を藩内で起こすような人物ではないと、彼を知るものは分かっていた。

「至急の事ゆえ本題に入る。そちも知っているだろうが虎狼藩内には加藤家が作った偽金が蔓延しておる。私は藩内の偽金を一掃するべく、秘密裏に調査を行っていたが、昨晩その書類が二名の藩士、山村吉之助(やまむらよしのすけ)と笹間親三郎(ささましんさぶろう)によって盗み出された。恐らくその藩士たちは幕府からの隠密だと思われる。そちは手勢を四人ほど集め、南御鶴(みなみおつる)の関所に応援に行け。関所には早馬を送り二人の事を知らせてはいるが、南御鶴の関所は現在では重要な場所では無い為に、人出が少ない。関所を破られぬように増援がいる。道中に隠密が潜んでいる可能性もある、隠れ家になりそうな場所は、中に人が居らぬか確認しておけ。隠密は殺しても構わん、書類を取り返すことが最優先だ。もし書類が幕府の手に落ちれば、偽金作りが知られ、お家はお取り潰しになる。失敗の許されぬ任務だ、心してかかれ。下がってよい」

「ははっ!」

 青谷は鬼から逃げるように、素早く部屋から出た。

(隠密が書類を手に入れたのが昨夜なら、今頃は北の七草山(ななくさやま)を抜け、北の関所を通り藩の外に出ているだろう……江戸から離れる南の関所に向かうものか。そもそも重要な任務を自分に任せるはずがない、失敗の責任を負わせるために選ばれたのだろうな……)

 青谷は朝から更に積み重なった、憂鬱な気分で城を後にした。


 青谷は四人の手勢をどう集めたものかと考えていた。事の重大さを考えれば下っ引きを数に入れるのはまずいだろう。武士でなくてはいけない、かといって処罰を受ける可能性がある任務を受けてくれるものがいるだろうか……。

 とぼとぼと歩いていると、奉行所の門前で同僚の浦上長重(うらかみながしげ)とばったり会った。

「どうした青谷、寝坊か? 昨日の嵐で家の屋根でも吹き飛んだか?」

 浦上はカラカラと笑いながら話してきた。

 浦上は青谷より十歳ほど年上で、うだつの上がらない万年同心である。人が良く貧乏くじを引かされることも多いようで、懐具合はあまりよさそうにはない。

 出世にしか興味のない人間にとって浦上は無用の存在で、むしろ疫病神のごとく嫌われたりもしている。青谷にとっては気の置けない先輩である。

「城からお呼び出しがかかりまして……」

「それは縁起が悪い、どうせいい話ではなかっただろう?」

 青谷は浦上であれば事情を話してもよいと思った。

「実は……」

 浦上の耳にコソコソと件の話を聞かせた。

「そうか……この藩の財政もいよいよと思っていたが、こんな終わり方をするとはな――」

「申し訳ないのですが浦上様、関所への増援に付き合ってもらえますか?」

「あい分かった、拙者も武士などやめて江戸に出て商人にでもなろうかと思っていたところだ。これがこの藩での最後のお勤めと思えば後腐れもない。失敗してお家断絶になっても、いっそ清々しい」

 浦上はまたカラカラと笑ってその場を後にした。青谷は浦上の後ろ姿がとても名残惜しく思えた。まだなにも始まってすらいないが数日後にはこの日常も全て終わるのだろうかという思いが青谷の心に覆いかぶさった。

 青谷は奉行所に入りすぐに書庫に向かった。やはりそこには江川甚内(えがわじんない)が居た。江川は藩内一の道場の門下生の一人で免許皆伝を持った師範代である。青谷とは幼少期から面識があり、剣術の先生であった。江川は加藤富重と親戚筋で、富重が藩外に出かけるときは護衛として同行するように富重から声が掛かるほどに信頼されていた。江川は金や政治には興味がなく、城内で剣術指南役を務めていたが、加藤家の滅亡後、江川は失脚させられ、奉行所の資料係、閉職に置かれた。江川本人は特に動ぜず、黙々と職務を全うしている。青谷にとって理想の人物だが、自分では遠く及ばない境地へといたっていると感じていた。

「江川先生、おはようございます」

「……青谷、何か問題か?」

「実は……」

 青谷は城での話を江川に聞かせた。

「なるほど、手勢に私を加えるのは道理というものだな」

「申し訳ございません」

「なに、本来であれば私がお前の身代わりになるべきことだ、任務が失敗に終わった時は、いくらでも私に非があったと言ってくれて構わんぞ」

「……恥ずかしながら、私にはそこまでして守るべき立場も顔もございません」

「ふふ、お前のその実直なところは変わらんな……家に帰って旅支度をする」

 江川は足早に書庫から出ていった。

 青谷が書庫から出て待合所に戻ろうとすると同僚の小笠原丈右衛門《おがさわらじょうえもん》に声をかけられた。

「城に行ってたって?」

「悪い話だぞ」

「聞かせろよ、手柄の匂いがするぞ」

 青谷は苦い顔をしながら城での話を聞かせた。

 小笠原は青谷の同僚同心だが、商人たちを優遇し、心付けをたびたび貰っていた。しかし、筆頭家老が佐久間に変わり、質素倹約の元、商人たちへの締め付けも行われるようになると、商人たちも小笠原への対応が冷たくなり、小笠原は同心に旨味を感じなくなっていた。

「隠密狩りか……仕留めれば褒美が出るだろうな」

「本気で捕まえられると思っているのか? 書類が盗まれたのは昨夜だぞ。藩内にまだいるわけがないだろう」

「いいや、昨日の嵐で足止めを食らってるかもしれんぞ。すぐに関所に向かえばあるいは――グズグズしておれんな、お前を置いて俺だけでも向かうぞ」

「相手は二人だ、返り討ちに会うぞ」

「そうだな……なら早く残りの一人を誘って、番所前に来いよ!」

 小笠原は足早に奉行所から出ていった。

 武士が四人もいれば五人目は浪人でもよかろう。道場で適当な人に声をかけるか。青谷は奉行所から出て道場に向かおうとしたところで声をかけられた。

「青谷、なにか面倒事を請け負ったって? 小笠原が発奮していたぞ」

 声をかけてきたのは稲垣安忠(いながきやすただ)、幼馴染だ。

 稲垣は父親が江戸詰めの留守居役で、諸藩との外交を任されている。稲垣は次男であるが長男より父に目をかけられているようで、参勤交代の際には城主と共に江戸へ行っている。もっとも役があるわけではないので立ち帰りとなるが、江戸に行くことが多いためか、どこか垢抜けた印象を身に纏っている。それが将来家督を継ぎ江戸詰めになるような雰囲気を感じさせた。

「ああ、これから南御鶴の関所に向かう」

「俺も同行しよう、腕利きが必要なんだろ?」

「お前が来ることは無い……何らかの理由を付けて処罰を受けるだけだ」

「ふんっ! それこそ誘ってもらわねば困る。それが友というものだろう」

 稲垣は言いだすと聞かない、仕方なく一員に加えることとなった。

 二人で役宅に向かう。稲垣は相手が隠密と知って、不足なしと言った。役がなく日々を剣と学問を磨くだけに使う、稲垣は自分の腕が生きる場所を探しているように見える。

 

 青谷は役宅に帰り、草履(ぞうり)を脱ぎ草鞋(わらじ)を取り出した。南御鶴には暮六つ( 約十八時)前にはたどり着く、しかし、夜中に隠密探しが行われるかもしれない、合羽も着ていったほうがいいだろう。

 部屋の隅に放っていた笠と道中合羽を引っ張り出し、手早く旅衣装に着替える。

 草鞋を履き、外に出て待ち合わせ場所の番所に向かう。ぐずぐずしている所を誰かに見られると後で家老に叱責されるだろう……。

 途中、稲垣と合流して歩いていると、浦上が後ろから走って来た。

「旅支度をどこにしまったか忘れてしまって、探していた」

 三人が城下町南端の番所に着くと、江川と小笠原が待っていた。

「番所の留守番に聞いてみたが、城下外に出ていく二人ずれの藩士は見ていないそうだ」

「こいつらはあてにならん、早く関所に向かおう」

 小笠原が先頭に立って城下から出ていく。四人がその後についていく。

 

 城下町から出るとすぐに田畑が姿を現す。虎狼藩は山地が多く、稲作に適した平地はそう多くない。城下町周りの少ない平地には田畑が隙間なく埋め尽くされている。

 青い稲が横に倒れている、嵐の影響だ、収穫に悪影響がなければいいが。

 太陽の光が草木に残る水滴を輝かせている。

 城下へと流れていく川も荒れている。

「青谷、隠密の詳細を教えてくれ」

「藩の機密書類を持って逃げたのは、山村吉之助と笹間親三郎の二名だ。知っている者はいるか?」

「知っている。二人とも道場に稽古に来ていたからな」

「ああ、俺も知っている。手合わせもしたことがあるが二人ともかなりできるぞ」

 江川と稲垣が答えた。青谷は自分も顔を合わせただろうかと思い出そうとしたが、記憶にはなかった。

「体に不自由がないなら北の山を抜けて北亀(きたがめ)の関所から江戸に向かっただろうな」

「ええ……家老もそれを承知の上で我らを南御鶴に向かわせるのです」

「青谷、そんなに後ろ向きでは運が逃げるぞ」

「小笠原殿には希望がおありで?」

「いいか、青谷。事が動くときはな、何が起こるか分からんものよ」

「……言い得て妙だな。剣の道にも通じるものの考え方だ」

「ほらみろ、師匠もこう言ってなさるぜ」

「江川先生、あんまり小笠原を調子にのせないでください。こっちの体が持ちません」

 その後は誰も喋らず黙々と歩を進める。

 四半刻(約三十分)ほど歩くと民家が姿を消した。

 この辺りは勾配が急で、田畑を作るには向いていない。

 燃料にされたのか、木が伐り倒され、視界だけは良いが、花などは無く、藪が広がるだけだ。

 

 一刻(約二時間)ほど歩くと、山の中腹で茶店が見えた。

「茶店で休憩しよう」

「そんな暇はない」

 小笠原が少し怒気のある声で言った。

「しかし、四十を過ぎたこの体には暑さの中、山道を登るのは堪える」

 浦上が額の汗をぬぐいながらぼやく。

「まあ、急がせるつもりなら、馬を用意するはずだ」

「この件には馬を与えるに及ばんということだろう」

「そうだそうだ、ゆっくりと行けばよい。昼飯だって用意してきてないのだ、ここで何か腹に入れておいた方がいい」

 浦上は茶屋へ飛ぶように入り、ハキハキとした声で団子を注文している。四人も店先の長椅子に腰を下ろした。

 茶店で茶を飲みながら休憩していると、大八車を押す商人風の男たちが現れた。

 皆の目が商人一人一人の顔を確認している。中に隠密が紛れ込んでいないかと疑っている。

「あら、ゲンさん、どうしたの?」

 店の女将が奥から店先に出てきた。商人たちは女将に軽くあいさつしながら、椅子に腰かけ始めた。

「北の山が土砂崩れで道が塞がっちまって越えられないんで引き返してきたんだ」

「あの道が通れないんじゃ、北亀村に行くのには山を大回りしなきゃいけねえ」

「それで番頭がな、どうせ大回りするなら大八車に荷物を積み込んで、運んだ方がいいて言うんで、南御鶴に荷物を取り行くんよ」

「その土砂崩れ、人が通れぬほどか?」

 小笠原が笠を手に持ち、椅子から腰を浮かせながら商人に尋ねた。

「ええ、あたしは見てなんですけど、山越えの商人が城下町の店に引き返して、そう言うんですよ」

「行こう!」

 小笠原は財布から代金を出し長椅子に置くと、飛び出すように店先から出ていった。

 四人もそれに続く。

「ありがとうございました、お達者で」

 後ろから茶店の女将の声が聞こえた。

 

「隠密はこっちに向かうか?」

「恐らくな。北の山の麓をまわって関所に向かうと着くのは明日の朝だ。今日中に藩から出るなら南御鶴の関所を抜けるしかない」

「嵐の夜に山を登りはしない、山の麓で夜明けを待ち、山登りを始めたはずだ。隠密が土砂崩れを知ったのは夜が明けてからだ。それから引き返して、南御鶴に向かった」

「城下町を避け、猪森(いのもり)を通ったとすれば……これはわしらの方が隠密より先に関所に着くかもしれんぞ!」

「茶屋で休憩などしてなければ――」

「茶屋にいたから土砂崩れを知れたのだ。ところで南御鶴の関所には早馬で知らせがいっているのだな?」

「ええ、家老はそう言っておりました」

「南御鶴の関所は人も少なく腕利きもいない。あの二人なら破れるだろうな……」

「くそー、家老が馬を用意してくれていれば――」

 五人の足取りは早かった。というより軽かった。今まではもはや風前の灯火、藩の命運は尽きたと思っていたが、虎狼藩の悪運はまだ尽きていなかったらしい。五人ともこの藩に特段惜しみなどなく、お家が取り潰されるのも必然だと抵抗なく受け入れていた。藩の為に命をかけろと言われても、どこか冷めた気持ちがあったのは確かである。

 今、この五人の血を熱くさせているのは藩を守れる可能性を見出したからではない。隠密に対する嫌悪からである。身分を偽り、主君をだまし、人の腹を探って、不正を告げ口する。それを手柄として幕府で出世する。藩士の立場からすれば不快な存在だった。

 隠密の二人は首尾よく任務を果たし、江戸で褒美が貰えると舞い上がっていただろうが、今朝になって山が通れないと知って、泡を食ったはずだ。隠密が予定を外したことに五人はほくそ笑む。貧乏藩の下級侍が、幕府隠密に一撃お見舞いできると思うと、痛快なものだ。五人の体からは湯気が上がらんばかりに興奮していた。

 城下と南御鶴の間にある、一番高い峠が見えるところまで行くと、谷に二人の男の姿が見えた。

 服は浪人風だ。急いでいる風には見えないが、仲間と合流しようとしているのかもしれない。

「見覚えがあるものはいるか?」

 全員首を横に振った。

「ここからではよく分からん、峠からなら見えるはずだ」

 小笠原が慎重に峠を登っていく。

 青谷は身を屈め浪人たちの様子をうかがう。川岸で水をくむ二人の男の背後から、老婆が現れた。二人は老婆に水を渡していた。

 人違いのようだ。一刻も早く関所に向かはなければならないのに老婆を連れることは無いだろう。

 小笠原も老婆の姿を確認したらしく、手を振っている。

 四人が立ち上がり峠へと向かおうとした、その時、山道の脇の木々がガサガサと音を鳴らした。

 四人が立ち止まり、待ち構えると、藪の中から二人の男が飛び出してきた。

 体に葉っぱをいくつも纏った姿とその必死な形相が探し人であることを確信させた。

「いた!」

 浦上の大声に二人の隠密は反応し、こっちを見ると、自分たちの追手だと理解したのか、元きた山へと戻ろうと踵(きびす)を返した。

 隠密の一人は山に帰ろうとしたとき、横目に眩しい光を感じた。光の方を見ると高くそびえたつ白刃が見えた。太陽の光を跳ね返しながら、白刃は自分に振り下ろされた。

 隠密はとっさに後ろに飛び退くも、相手の踏み込みが勝り、左肩から腕を深く切られた。

「ぐわっ!」

「覚悟!」

 小笠原は低く構えた刃先を横に返し、横振りで隠密の首を狙った。隠密は刀を抜き鍔元でなんとか小笠原の必殺の一撃を防いだ。

 しかし、片手では小笠原の剣の圧力を押し返せず、刀がゆっくりと肩にめり混んでいく。

 その時、怪我をした隠密の背後からもう一人の隠密が飛びだし、小笠原の横を駆け抜けた、その瞬間に居合を放った。

 隠密の刀は小笠原の腹に深く入ったが、まるで泡沫を斬るごとく体を切り裂き、素振りの後のように自然に鞘に刀を収めた。

「できる――」

 江川が隠密の居合を見て思わず口から漏らした。

 あれだけ深く刀を入れながら、骨に当てることなく切り裂いた。服を着た相手にそれをやれるのは並大抵の腕前ではない。

 小笠原は力なく倒れ、腹をおさえうずくまった。

 隠密は怪我した片方に手を差し伸べ、支えるようにして山に入っていく。

 青谷が小笠原の元にたどり着くと、大きく裂けた腹から大量の血が流れだし、土と混ざって黒い泥となり、小笠原の服にこびりついていた。まだ息はあるが、長くはもたないことは明白だった。

 「一人は手負いだ、逃がすわけにはいかない!」

 「小笠原の仇だ、見逃せん!」

 稲垣と浦上は隠密を追って山に入っていく。

「見つけてしまった以上は追うしかないな。小笠原を無駄死にして帰れん――」

 江川も二人を追って山に入っていく。

 小笠原を無駄死にはさせられない。その言葉は青谷にかけられたものでもあるのだろう。隠密を追って山に入ることが本当に正しいのか、それを迷う時間はもはやない。行かなければ、帰ったところで隠密を取り逃せば小笠原の死の責任を自分は負わされるだろう。

 小笠原はまだ息がある、しかし、大量の失血で気を失ったようだ。介錯するべきかと迷ったが、そんなことをしている場合でもないだろう。瀕死の小笠原を一人残し、青谷は山に入っていく。

「ヒュイーヒョロロロー」

 頭上にトビが現れ、大きな鳴き声を上げた。それは山に人が入ることを知らせる警報のようだった。


 笹間親三郎こと角沢正永(かくさわまさなが)は江戸に産まれた、御家人の三男坊であった。他の家と例に漏れず肩身が狭い身の上だ。次男三男は長男に不幸があった時の備えでしかなく、長男が無事元服し、跡取りを産もうものなら、もはや不要の長物である。それでも御家人の一員として武芸を学ぶのは使命である。それすらしなければ何のために自分はいるのか、飼い殺しの苦悩に迷う。角沢と同年代の御家人は次々と酒や女に溺れるようになっていった。仕官の道などなく、自分の将来を悲観し、暗い地の底へと落ちていく、角沢はそんな姿から必死に目をそらし、剣の修行に打ち込んだ。それが幸運にも報われたのは師匠に紹介された大目付目黒勘解由(めぐろかげゆ)からもたらされた隠密の仕事だった。角沢は一考もせずに引き受けた。このままここにいればいつかは自分は駄目になる。そんな恐怖からの脱出だった。

 虎狼藩に仕える|笹間家の跡取り新三郎(しんざぶろう)は長く病にかかり寝たきりの状態であった。そこにきて当主の文亮(ふみあき)が流行り病に倒れ余命いくばくとない状態になった。笹間文亮と妻女は家を潰さないために養子をとる算段であったが、どこからもいい返事がなく、途方に暮れていた。それが隠密の仕事を束ねる目黒の耳に入った。目黒は虎狼藩の内情を探るべく隠密を送り込もうとしていたが中々上手くいかなかった。そこで笹間家を乗っ取る形で隠密を送ることにした。角沢は目黒に連れられ笹間家へ行くとそこで、角沢が笹間新三郎に成り代わることを目黒が提案した。床に伏せる文亮は救いの神だと目黒と角沢の手を握った。翌日には文亮は虎狼藩の藩士を家に呼び、新三郎に家督を譲ることを伝えた。藩士は新三郎と面識がなく、それが角沢だとは分からなかった。こうして角沢正永は笹間親三郎として虎狼藩に仕えることとなった。本物の笹間新三郎はその三日後亡くなり、文亮も後を追うように二日後亡くなった。

 笹間文亮は江戸に家を構えていたが虎狼藩と江戸を行き来するのが仕事であった。新三郎はその仕事を引き継ぎ虎狼藩へと向かった。


「止血しておこう、追手が血の跡を追ってくる」

 角沢に肩を貸していたもう一人の隠密が角沢を地べたに下ろしながら言った。

「追いつかれるぞ」

「追手は俺の剣の腕を見ている。待ち伏せを恐れて慎重に進んでいるはずだ。まだ距離は離れている」

 行李(こうり)(旅などで使う携帯用の物入れ)を開いて塗り薬を取り出した。

 角沢が中を覗くと鬢付け油が見えた。

「鬢付けまで持ってきていたのか」

「髪が乱れた時に、関所で不審に思われると思ってな」

「もうその心配はなくなったな……この先は千尋山(ちひろやま)だ、入れば戻れぬというぞ、どうする?」

「進む、千尋山を嫌って追手が引き返してくれるかもしれん」

「……その後は?」

「南御鶴に仲間がいる、奴らを振り切れば合流する」

 


 噂通り千尋山は木々に覆われ視界は悪い、うっかりと谷に足を生み入れそうになるのもうなずける。

 先頭を行く浦上に追いつくと、浦上は足跡や血痕の後を見つけ出し、着実に隠密の後を追っている。

「ここが千尋山か……山賊殺しの異名は伊達ではなさそうだな」

 千尋山はその険しさから人が住んでいないため、度々山賊が現れ根城にするが、いつの間にか山賊が居なくなる。山賊は山に食われたのだと人は口々に言った。

 虎狼藩でもかつて千尋山の測量の為に藩士を派遣したが、一人の藩士が足を滑らせ谷に落ちた。その藩士を谷から出すのに三日も要した。それを聞いた藩主は千尋山の測量を諦め、立ち入りを禁じた。

 虎狼藩では千尋山は忌み嫌われ誰も立ち寄らない。

「奴らが忍者の出なら下手に時間を与えると危険だ。山での戦いには長けている」

「いいや、忍者の出はないだろう」

「先生はなぜそうお思いに?」

「忍者は変装の名人、状況に応じて僧や商人にも化ける。追手が迫っていることが分かっている状況で、武士の姿でいるはずがない」

「なるほど、それなら剣の腕を見込まれて隠密の声が掛かった口でしょうな」

「ああ、少なくとも怪我をしていない隠密、山村吉之助は我らの誰よりも強いだろう」

 山中の段差が連なっている場所に簡易的な石畳が引かれている。かつての測量隊が残していったものだろうか。

 五人は石畳の段差を駆け上っていく。

「うっわ!!」

 先頭の浦上が一番上の石畳に足をかけると足がつるりと滑り、浦上が倒れてしまった。

「大丈夫か浦上?」

 すぐ後ろにいた稲垣が浦上を助け起こす。

「ああ……あの石畳は何か変だぞ」

 稲垣がしゃがんで石畳を確認する。石畳には鬢付け油が塗られていた。隠密が通った時に塗って行ったのだろう。

「こんなつまらぬ手に引っかかるとは不覚!」

 浦上は足を捻ったらしく、満足に歩くことが出来ない。

「私の事は置いて先に行け。隠密はすぐ近くだ」

「浦上が一人になったところを狙うかもしれん。青谷は浦上を連れて後ろから参れ。私と稲垣が先行して隠密を追う」

 江川はそう言うと石畳を登り、山の奥に進んでいく。稲垣もそれに続く。

 青谷は浦上に左肩を貸し慎重に山を登った。


 山村吉之助こと助川虎松(すけかわとらまつ)は相棒の角沢に肩を貸しながら迷っていた。怪我をした角沢と共に南御鶴にたどり着くのは難しい、彼をここに置いていくのが正しい選択ではないのか。

「……ここがいい、俺はここに残る」

 角沢がそう言ったのは小さな崖を登った先にある大木の前に来た時だった。角沢は大木を背にして座ると深く息を吐いた。助川はただ黙ってそれ見ていた。

 大木の葉は二人の頭上を覆い、深い影をつくっている。

「俺がここで追手を足止めする。上手くいけば何人かに手傷を負わせられるかもしれん」

「……いいのか?」

「元より失敗すれば命はない仕事だ。受けた以上は覚悟の上だ。それより書類を頼むぞ」

 助川は黙ってすぐにその場を離れた。ここに留まることは百害あって一利なしだ。助川は自分に言い聞かせたが心に引っかかるものがあった。

 

 江川は土や草をよく確認し、人が歩いた痕跡を追った。小半刻(こはんとき)(約三十分)歩くとなだらかな勾配の崖があった。江川は崖の上での待ち伏せを警戒して、崖を横に回り、木々の中を音を立てないように進み、崖の上が確認できる、高さまで登った。崖の上に怪我した角沢が大木に寄りかかって座っているのを見つけた。もう一人の姿は見当たらなかった。稲垣が後ろから追いつき、横に伏せて様子をうかがう。

 囮として残って、仲間を逃がしたのだろうか。ぐずぐずしているともう一人を取り逃がすことになる、相手の姿を捉えたのなら、躊躇(ちゅうちょ)せず向かうべきだ。

「私は右から、先生は左から回って襲いましょう」

「もう一人がどこかに隠れているかもしれん、油断するなよ」

 稲垣は黙って頷き、草をかき分け崖の反対側に移動する。

「ヒュイーヒョロロロー」

 頭上でトビの鳴き声が響いたとき、角沢は近づいてくる人の気配に気付いた。やはりここが死に場所のようだ、御家人の三男坊にしてはいい死に場所だ。

 角沢の右手から稲垣が剣を肩に乗せ、駆け出てきた。角沢は大木に背中を押し付けるようにして立ち上がり、刀を抜くと正眼に構え稲垣を待ち構える。

 角沢は稲垣が間合いに入ると同時に刀を横に倒すと稲垣の懐に飛び込んだ。稲垣は刀を振り下ろすが角沢の肩をかすめて角沢の体が腕に押し付けられた。角沢は稲垣に体を預けるようにもたれかかると振り向いて背後から迫ってきたもう一人の追手に向けて剣を振った。

 角沢の左手から近づいていた江川は角沢の動きに意表を突かれたが、冷静に角沢の剣を受けた。江川は自分の刀を角沢の刀に絡ませるようにしながら前に進む。自分が敵の刀の動きを止めてしまえば、稲垣がとどめを刺すだろうと考えての行動だった。

 背後の稲垣は左手で角沢の手首を押さえると右手の刀で角沢の腕を叩き切った。角沢の刀から解放された江川の刀は即座に角沢を袈裟斬りにした。

 角沢が力なく倒れると、稲垣は角沢から離れ江川の前に立った。

「先生、怪我はありませんでしたか?」

 稲垣が刀を鞘に戻しながら聞いた。江川が地面に伏した角沢から稲垣に目線をあげると、木の背後から影が飛び出してきた。

 江川は咄嗟に刀を構えたが、影は稲垣の背中を蹴り、江川に突き飛ばした。

「うっ!」

 隠密は刀を抜くと、体勢を崩した稲垣ではなく、刀を持った江川を狙って剣先を飛ばした。稲垣の体が邪魔で、江川は刀を振ることが出来ず、喉元への刺突を払うことが出来なかった。

「うぐっ!!」

 江川は汚く濁ったうめき声を上げた。助川の刀が引き抜かれると、江川の首からは血が噴き出した。

 青谷が浦上と共に藪をかき分け、崖の下にたどり着いたのと、江川が崩れ落ちるのが同時だった。

「江川先生!!」

 江川の血を浴びて、顔を赤く染めた稲垣が叫んだ。

 その声を聞いた青谷は浦上を離すと、崖に飛びつき登る。

「この野郎!!」

 体勢を立て直した稲垣は居合抜きを助川に放った。助川は刀でそれを弾いたが、稲垣の剣圧が勝っていた。稲垣は右に左と太刀筋を変えながら必殺の剣を助川に打ち込む。夜明けから山の中を歩き回った助川は疲労からか足に力が入らず、稲垣に押し込まれる。助川はここにきて、稲垣と相打ちになる覚悟を決めた。稲垣が大振りで横に振った剣は、助川の長脇差を弾き飛ばした。

 稲垣は勝利を確信した。

「二人の仇だ!」

 稲垣は上段に刀を構えた。助川は残っている余力を振り絞り稲垣に向かって飛びついた。稲垣も全力で刀を振り下ろした。稲垣の剣筋は、助川の左耳を半分斬り落とし、左肩の肉を削いだ。助川はそれに怯まず、稲垣の懐に飛び込み、脇差を抜き、稲垣の心の臓を狙って突き立てた。

「うっ!!」

 助川は手応えを感じた。稲垣の体を右肩で突き飛ばすと、今までの屈強な姿が幻であったかのように力なく仰向けに倒れた。

「稲垣!」

 崖の上に上がった青谷は刀を抜いて稲垣の元に走る。

 助川は自分の長脇差を拾うと千尋山の奥へと逃げていく。その背を見て、稲垣は自分の脇差を抜いて投げた。脇差は助川に届かず手前に落ちた。

「稲垣、お前ほどの男が!」

 青谷は稲垣の横に屈み、稲垣の怪我を確認する。脇差は深々と稲垣の胸に刺さっていた。

「無念だ……」

 稲垣はその言葉を最後に口元から血を流して死んだ。

 その時、青谷の心に訪れたのは虚無だった。小笠原、江川、稲垣。彼等を失いながら手入れたいものなどない。むしろ、彼等との他愛ない時間だけが自分の心が休まる時だった。青谷は体から力が抜けてその場から動けなくなった。

 崖の上に這いずるように上がって来た浦上はこの場の惨状と青谷の姿を見て、腹を括った。

 二本差しを目の前に置き、正座すると、上着をはだけた。

「青谷!」

 青谷は浦上の声に反応して、振り返った。浦上は長脇差を抜いた。

「お前は逃げた隠密を追わなくてはならない! しかし、心優しいお前は足手まといの俺を一人置いては行かないだろう」

 浦上は長脇差を首に当てた。

「いいか、これはお前の責任などではない! 武士の生きる道だ! お前は我ら四人の誇りを守るために隠密を打倒し、使命を遂げるのだ!」

 浦上は首に当てた長脇差を力いっぱい引き抜いた。浦上の首の動脈が切れ、血が噴き出した。浦上は座したまま、前のめり倒れた。


助川虎松は山村吉之助と名乗り虎狼藩に仕えることになる前は目黒勘解由の家臣だった。数年前に虎狼藩は御三家尾張徳川家と些細な問題を起こし、関係が悪くなった。その後も度々両藩に不仲となる事案が起き、その結果、虎狼藩士の山村吉之助が、尾張徳川家の家臣に殺害されてしまった。流石に尾張徳川家もこれ以上虎狼藩と揉めるのはまずいと、事態の収拾を目黒に頼んだ。目黒は虎狼藩に、尾張徳川家からの見舞金が出るのでそれで手打ちにしてくれと、虎狼藩に申し出た。虎狼藩も尾張徳川家と争う気はなくそれを受け入れたが、それとは別に、藩士が殺された事が外に漏れるのは避けたい、との話になった。そこで目黒が虎狼藩に助川虎松を山村吉之助として仕えさせることを提案した。助川が目黒の右腕として優秀な人材であることを、知っていた虎狼藩はそれを受け入れた。目黒は虎狼藩が、この事件を根に持って騒ぐのではないか、と警戒し助川を虎狼藩に送った。

 それ以来、助川は、江戸から虎狼藩に移り働いていた。虎狼藩で助川の事を知る者は江戸詰めの一部藩士だけで、他の者は山村吉之助だと思っていた。助川は手際よく藩内で仕事をこなしていた。

 しかし先日、角沢が目黒の指令書を持ってきたことで虎狼藩を裏切り、偽金作りの証拠となる書類を角沢と共に盗み出した。

 助川が逃げずに追手に立ち向かったのは角沢を助けるためではない。助川は虎狼藩で生涯を終えるのだろうと覚悟していた。それは目黒の知ることではなく、また、彼なら助川の覚悟を幕府と秤(はかり)にかける価値もないものだと一笑に付すだろう。

 しかし助川は割り切れなかった。裏切り者の自分は虎狼藩士の剣を受ける必要がある、どちらが生き残るかは時の運だ。その思いが彼をあの場に引き戻した。

 残る追手は二人……まだ自分を追ってくるだろうか? どちらにせよこの怪我では南御鶴には行けない。山奥で傷が塞がるまで療養するしかない。助川は千尋山の谷へと降りていく、そこにトビの影が落ちた。

 

 青谷は道中合羽を脱ぎ、たすき掛けすると、隠密を追って千尋山に入っていった。

 足跡を追い山の奥深くに入っていく。途中で谷が現れた、これが降りれば登れない千尋山の谷だろうか。

 谷の崖に生えた草の緑の葉に赤い血を見つけた。隠密は谷に下りたのだろうか、谷には川が流れている、水分補給や傷口の手当の事を考えると谷に下りる可能性は高い。

 隠密はこの谷から出られないことを知って下りたのだろうか?

 どちらにせよ自分は降りるしかないのだ。

 谷に降り、川下を見ると、滝になっていた。舟で川を下ることはできないようだ。

 嵐の影響で水かさが増し、轟音を上げ、流れる川を見て、幼少期に船に乗った時のことを思い出した。

 父と二人で渡し船に乗ると、船頭の身体は太く大きい、逞しい体は鋼のようで、熊を倒せるのでは無いかと思った。

 そんな男が、私にかしづいた。

「御子息様、お手をどうぞ。足元にお気を付けて」

 船頭の大きな手は、私の小さな手を、優しくギュッと握った。

 私が、自分が武家であることを、初めて実感した時だった。

 あの時、船頭が私をかしづくに値すると、思った武士のあるべき姿と、今のは私の姿は同じはずだ。

 今、私の体に熱い血が流れている。

 この先が、生きて戻れぬ死地だと分かっていても、なんの恐怖も感じない。

 あの、幼き頃に、確かに目指し、そして忘れてしまった、侍の血が、今、私に流れている。

 上流に向かって歩くと、川岸で血を洗い流している助川を見つけた。

 助川はこちらの姿を確認すると、川岸を離れ崖の下に置いていた行李を漁り始めた。

 青谷が助川の近くまで行くと、助川は手に持っていた書類を二人の間に投げた。

「助川虎松」

「……青谷源之丞」

 名乗りあいの終わった二人の間に言葉は必要なくなった。

 青谷は刀を抜いて正眼に構えた。助川も刀を抜き、右の肩に乗せた。助川は左肩を負傷している。右肩に乗せた刀の一振りで青谷を斬殺するつもりだ。それができる腕前であることも青谷は認めていた。

 青谷は息を整える。絶対に仕留めなくてはいけない。万が一にも隠密に逃げられば、五人は藩中の笑い者だろう。自分はまだしも、四人に汚名を着せるわけにはいかない。青谷は必勝を期すために焦りを殺し、慎重に相手と向き合っていた。

 助川は青谷と違い直立不動で待ち構える。相手の切込みに合わせる、後(ご)の先(せん)を狙っていた。今の自分の体力では、致命傷を負わせるほどの攻撃を放てるのは一度だろうと考えての選択だ。

 青谷はすり足でゆっくりと助川に近づく。川岸の小石が音を立て、静かな戦いの動きを伝えている。

 間合いが一間(いっけん)(一・八メートル)になろうとしたが、両者動かない。青谷は正眼に構えたまま、片手突きを仕掛ける欲にかられた。肩に刀を背う姿をみれば、相手の間合いの外から攻撃できる、突きを放ちたくなる。相手はそれを承知の上で反撃の一手があるのかもしれない、相手の剣術の腕を見ればそう思える。

 青谷は突きか、払いかを決めかねた。勝負に集中し周りの音が消えていた青谷の耳に川の音が届いた。その時、若いころに一度だけ見せてもらった江川の剣を思い出した。

 

 幼少期に川で稲垣と棒を刀代わりに遊んでいた時、江川が釣竿を持って通りかかった。

「江川先生、剣術を教えてください!」

「私に教わらんでもいい筋をしているぞ」

「駄目です! 稲垣に勝てないのです!」

「ふふ、そうか……どれ、一つ必殺の剣を見せてやるか」

 江川はそう言うと釣竿を水面に垂らした。

 

 青谷は釣竿を水面に垂らすがごとく、地面に触れるほど刀を下に構えると、助川の間合いに踏み入った。助川は相手が仕掛けてこないと判断し、先手を取った。刀を背負ったまま、体を捻り、頭を下げ、遠心力を持って必殺の一撃を繰りだした。助川の手が鞭のようにしなり、刀が上段から青谷の頭に振り下ろされた。

 刹那の中で青谷は同じ系統の技だなと思った。青谷は助川に背中を向けるように、体を捻りながら、下段に構えた刀を振り上げた。青谷の剣は助川の腕を切り裂き、助川の剣は青谷の頭から外れ、右足に刺さった。青谷は振り上げた刀をくるりと回し、体を助川に向けて回転しながら、刀を振り下ろした。

 助川にそれを防ぐ手はなく、肩から腰まで、青谷の剣に引き裂かれた。助川は体を血に染めながら倒れた。

 青谷は跪き右足に刺さった刀を抜いた。助川が動かなくなったのを確認し、右足を引きずりながら書類の元に向かった。書類を手に取り中身を確認すると、表紙を破り懐に入れた。

 青谷は川の中に入り、書類を破り川に浸けた。川の中で文字がにじみ、判別不能になるのを見て、手を離し紙が一枚一枚川下に流れていくのを青谷は見届けた。

 青谷は川から出て崖の方に向かおうとするが体が崩れ落ちた。興奮で痛みを感じなかったが、右足の傷は深く、とても歩ける状態ではなかった。青谷は這いずるように崖に向かった。崖を背に座るとぼんやりとした目で川を見つめた。川の音は聞こえなくなり、静寂の中でただ川の流れだけをじっと見つめていた。

「ヒュイーヒョロロロー」

 青谷の頭上でトビが声を上げる。全ての終わりを山に告げたトビは高度を上げ、上空からでは木々に覆われ何も見えぬ千尋山の奥深くに飛んでいく。

 もはやトビの目でも千尋山の侍の姿は見えない。

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