第2話 申請
ヴィルジニーが言った『一時停止』の意味が分からず、レオンが「は?」と首を横に傾げた。
周囲の者たちも同様だ。
意味が分からない。
「……一時、停止?」
何だそれはと、レオンが聞いた。
ヴィルジニーは穏やかな微笑みを浮かべながら、返答した。
「レオン殿下との交流、わたくしに対する王子妃教育を一時的に停止させていただきます。それを先ほど書面にて申請いたしました」
「は?」
「停止期限は、わたくしの質問に王家からの正式な回答をいただくまで」
ヴィルジニーの言葉に、会場内がざわざわと落ち着きがなくなる。
何だ。
一時停止とはどういうことだ。
物語でよくある婚約破棄や解消ではないのか。
マドゥアス侯爵令嬢はいったいいきなり何を言い出したのだ……。
周囲の喧騒やレオンの訝しげな顔など気にも留めない様子で、ヴィルジニーは続けた。
「質問状に書いた内容は二つ。一つ目、第二王子レオン殿下の婚約者に対する公費は、毎年金貨五百枚分と決められております。しかし、レオン殿下から、わたくしの誕生日、今日のような夜会に参加するときのドレスや宝飾品の贈り物は皆無……」
ヴィルジニーの言葉を遮って、レオンが声を荒げた。
「浅ましいぞ! 贈り物が欲しいなどと自分から言うとは」
ヴィルジニーは冷笑を浮かべる。
「わたくしは殿下から贈り物が欲しいとは申し上げてはおりません。金貨五百枚分、国庫に納められたままであれば、文句は言いません」
「では何だというのだ!」
「殿下の婚約者に対する予算を、婚約者であるわたくしに使わずに『何』に使ったのかを、明確にしてくださいと申し上げました」
王族であっても、予算を勝手に使うことは許されない。
「婚約者に対する予算が、もしも『殿下の遊興費』に使われているのであれば、臣下として告発する義務がございます」
「ぐっ!」
事実として、レオンは、ヴィルジニーに対して使うべき予算をポーレットに使っていた。
ポーレットのドレス、ネックレス、靴……。
ポーレットが今身に着けているものすべて、本来は婚約者に対して使うはずの予算から買ったものなのだ。
だがヴィルジニーは「隣のご令嬢のドレスは殿下が贈ったものですか」などと、追及はしなかった。
ポーレットに目線を向けることもしない。
ヴィルジニーはレオンだけを視界に入れている。
「二つ目。本日の夜会のエスコートに関して。わたくしをエスコートするのか否か、二週間前にお尋ねしましたが、第二王子殿下からのご返答は終ぞございませんでしたね」
「それは……」
「できないのなら、できないと言っていただければ。わたくしは父か兄と共に参加する所存でございました」
レオンは答えに窮した。
ほんの嫌がらせのつもりだったのだ。
みじめに一人で夜会に参加するヴィルジニーをあざ笑うつもりだったとは……、流石に言うことはできない。
「どのような意図により、返事を保留のまま、殿下が今、この夜会にご参加なさっているのか。王家の意図、殿下のお考え。正式な回答を求めました」
レオンは答えられないまま。「く……っ!」と無意味に息を漏らすのみ。
もしも、ヴィルジニーがポーレットを非難するのであれば。
「嫉妬とは見苦しい」「ポーレットは友人であり、非難されるような対象ではない」などと言うこともできた。
だが、ヴィルジニーは個人的な批判は一切していない。
国が定めた予算を本来の用途ではなく『何』に使ったのか。
レオンがヴィルジニーに対してエスコートをしなかったことの批判ではなく、するかしないのかの問いに対して、夜会まで返答がなかった意図の確認。
レオンやポーレットに対する批判ではない。
「陛下に対し、質問状は既に送らせていただいております。正式な回答をいただくまで、レオン殿下との交流、面談、わたくしに対する王家からの教育は、一時停止させていただきます」
改めて述べると、ヴィルジニーは、優雅に一礼をした。
レオンに背を向け、夜会会場の出口へと向かう。
シャンデリアの光が、ヴィルジニーの歩みに従って、その赤金の髪をきらきらと輝かせる。
それは、まるで、光の軌跡。
あまりの美しさに、会場のあちらこちらから感嘆のため息も漏れた。
ポーレットもだ。
ヴィルジニーが現れた時から、ポーレットはヴィルジニーの所作……、いや、存在自体に目を奪われた。
なんて麗しいご令嬢なのだろう。
あのご令嬢の立ち居振る舞いが楽団の奏でるワルツだとしたら、自分などは下町の騒音だ。
ポーレットは自分の礼儀のなさ、立ち居振る舞いの乱雑さを恥ずかしく思った。
実のところ、ポーレットはこれまで間近でヴィルジニーを見たことはなかった。
もちろんレオンの婚約者であることは知っていた。
だが、レオンが語るヴィルジニーの様子は、まさに物語の悪役令嬢。
口うるさく、嫉妬深く、レオンの意見など聞かず、わがままで、高圧的で……と、レオンから聞かされてきた。
高飛車な令嬢が婚約者なんて、レオンさま、お可哀そう……。
ポーレットはそう思っていた。
同情が愛情に変わるのはあっという間で。
ポーレットは、自分ならヴィルジニーのようにレオンを悩ませたりはしない……と、今の今まで思っていた。
だが、レオンの口から語られるヴィルジニーではなく。
初めて真っ当に、ポーレット自身の目で見たヴィルジニーは。
……美しくも、ご立派な、高位貴族のご令嬢だわ。
婚約者であるレオンに引っ付いている小娘に嫉妬心を向けることなく、臣下として冷静に抗議を口にする。
ポーレットはレオンを見た。
苦々しい表情を浮かべるだけのレオンを。
これまで、一方的にレオンを信じて、愛して……。
しかし、ヴィルジニーに対し何も言えず、その背が遠ざかっていくのを見送るしかできないレオンは……。
自分は間違っていたのではないか……。不安がポーレットの心の中に広がって行った。