悠くんママが死んだ。
※note・Nolaノベルにて同日投稿の作品です。
誰の記憶からも消えてしまうこと。それこそが本当の「死」ではないか。
私がそう考えるようになったのは、悠くんママの死がきっかけだった。
小学校の同学年で、わんぱくな男の子だった悠くん。いつも騒ぎを起こして先生に怒られてばかり。だけどサッカーが上手くて人気者だった。悠くんと同じクラスになったことはなく、一緒に遊んだこともなかった。そんな私たちとは対照的に、お母さん同士は仲が良かった。悠くんママはいわゆる「ボスママ」で、ママ友の交友関係が非常に広く、情報通だった。
私と悠くんが別々の中学校に進んでからも、ママ友の交流は続いた。母は専業主婦だったので、父が帰る時間まで悠くんママとのおしゃべりを楽しんでいた。私も母と一緒に悠くんママの家へ遊びに行ったことがある。私がお菓子の盛られた皿に手をつけていないと、悠くんママは食べるように促してくれた。
「ほら、母さんに遠慮せんと食べんさい!おばちゃんが許してあげるけん!」
そう言って、悠くんママは朗らかに笑うのだった。
悠くんママは生まれつき足が悪く、いつも杖をついていた。しかし、その不自由さを微塵も感じさせない行動力の持ち主だった。車でフラワーアレンジメントの教室に通ったり、複数のママ友LINEグループを運営してランチ会を調整したり。色々なところに交流の輪を設けていた。
そして、悠くんママは困難を乗り越えた強い人でもあった。悠くんパパは、悠くんがとても小さい頃に急逝したそうだ。風邪で病院へ行った夜に急変し、その日のうちに亡くなったという。旦那さんを失った悲しみを抱え、一人で小さな子どもを育てていくのは想像を絶する苦労があっただろう。
そんな悠くんママには、人付き合い以外にも好きなことがあった。足の不自由さから家で過ごすことが多い悠くんママは、テレビをよく見ていた。たとえ見たい番組がなくても、BGM代わりにずっとテレビをつけていたほどだ。ドラマやジャニーズの番組が特に好きで、ドラマ好きな私の母とは話が合うようだった。
私と悠くんママが最も交流を温めていたのは、私が社会人になって、ポケモンGOで繋がっていた時期だ。悠くんママの車に乗せてもらってポケストップ巡りをしたり、お互いのポケモンを交換したり。
「えっ、そのグルグルやってるのは何?」
ポケモンが捕まりやすいスマホ操作を私がやっていると、悠くんママは興味津々で尋ねてきた。悠くんママは、画面に出現したポケモンをひたすら捕まえる楽しみ方をしていた。対して当時の私は攻略サイトを読み漁り、平日の通勤では絶えず高個体のポケモンを追い求め、休日は特別なポケモンをゲットしに自転車を走らせていた。そのため、やり込んでいるプレイヤーにとっては常識の小技も、悠くんママにとっては未知のテクニックであるようだった。
「えっと……こうやったらボールがぐるんっとカーブするんですけど、そしたらポケモンが捕まってくれる確率が上がって……」
私が説明すると、悠くんママは懸命に実践していた。しかし慣れが必要な操作なので、ボールがポケモンに当たらず、却ってポケモンが捕まらなくなってしまった。無駄に大変な思いをさせてしまって、何だか申し訳ないな。気軽に楽しんでいる人に対して、難しいことを教えるんじゃなかった。私が心の中で後悔していると、悠くんママの操作したボールが、遂にポケモンに当たった。
「あっ!できた、できた!」
悠くんママは嬉しそうに捕まえたポケモンを見せてきた。
「知らんかったわぁ。教えてくれてありがとうね!」
その笑顔を見て、私も口元を綻ばせたのを覚えている。
しかし、新型コロナウイルスが流行してから、悠くんママの生活は一変した。フラワーアレンジメントの教室は中止になり、再開未定。大好きなテレビでは、どこのチャンネルでもコロナの話ばかり。外出を控えて、ママ友のランチ会も、ポケモンGOも辞めてしまった。コロナ禍で過ごした2年間、かなりストレスを抱えておられただろう。
それが影響したのかは定かでないが、ある日突然、悠くんママはめまいと吐き気で入院した。様々な診療科の検査を受けるも原因は分からず、何も食べられなくて点滴から栄養を摂る日々が続いていた。
悠くんママは折に触れて「自分は食べるのが大好きだから、食べられない形での延命は望まない。美味しく食事ができなくなったら死なせてほしい」と話していたらしい。そんな悠くんママが、何も食べられない状態で過ごした数週間は、とても辛い時間だったに違いない。
そして悠くんママは日に日に意識が朦朧としていき、退院することなく息を引き取った。それはあまりにも突然で、衝撃的なことだった。ずっと元気だったじゃないか。寝たきりでもないし、老人でもない。体調不良や持病の話も聞いていない。少し入院して安静にしていれば、すぐ退院できるんだと思っていたのに。老齢のご両親、成人してまだ数年の悠くん、多くのママ友を残して、あまりにも早く旅立ってしまわれたのだった。
葬儀の帰り、母がぽつりと呟いた。
「悠くんママ、うちのお父さんが死んだら同じ老人ホームで暮らそうねって約束してたのに」
さらにショックを受けたのは、葬儀から数日が経過した後だ。私の母は、家事の合間を縫って録画したドラマを観る。私は貴重な休日を無駄にしないよう、必死にポケモンGOを起動する。悠くんママがいなくなった日常に慣れたのだと自覚した時、私は途轍もない罪悪感に襲われた。
この世界では、毎日多くの人がどこかで亡くなっている。それでも社会は動き、人々は日常生活を送る。頭では分かっていることだが、何だか自分が冷酷な社会の歯車のように思えてならなかったのだ。
身近な人が亡くなったのは、私にとって初めての出来事だった。顔が広いボスママで、大勢から慕われていた人なのに、だんだんと存在感が消えていく。そこにいたのに、そこにいないことが当たり前になっていく。それがひどく悲しくて、恐ろしかった。
忙殺。非常に忙しいことを意味する。その忙しさは、やがて記憶の中の故人を殺すのだ。
今はこんなにも悠くんママが心の領域を占めているのに、忙殺されるうち、じりじりと限りなくゼロに近づいていくのだろう。そして記憶の奥深くに埋もれ、手の届かないほど遠くに追いやられてしまう。きっと私は、数日以内に悠くんママを思い出さなくなる。
そうなる前に、悠くんママとの思い出を、拾い集めて留めておきたい。そうすれば、悠くんママは私のどこかで生き続ける。何年経っても生前のひと時を鮮やかに思い返すことができる。
だから私は、こうして記録を残すことにした。普段は思い出す暇がなくても、インターネットの海に投下されたメッセージボトルは、悠くんママの記憶を大事に抱えて揺蕩うことだろう。
ママ友会の中心だった悠くんママ。遊びに行くとお菓子を勧めてくれた悠くんママ。私とポケモンGOをして喜んでいた悠くんママ。
亡くなった後の世界で、大好きなジャニーズがバラバラになっているなんて思いもしなかっただろうな。小学校の先生になった悠くんの立派な姿、もっと見たかっただろうな。悠くんが翌年結婚したって聞いたら、あと1年でも生きていればって悔しいだろうな。私も悔しいよ。
いつか、ふとしたきっかけで、この思い出をインターネットの海から拾い上げ、取り出して慈しむ日が来るだろう。
それまでは、このメッセージボトルの中で生きていて下さい。
どうか、お元気で。