第十七話 最低最悪
美鶴はスダの視線を振り払うかのように、べらべらと話し続ける。
「まあ、こういうのってね、楽しいんだよ。こいつらバカみたいに踊るしさ、簡単に利用できるし。信成子ちゃんもさ、結局俺たちに……」
その瞬間、時雄が爆発した。
「信成子を……返せ……!!!」
怒声とともに、時雄が美鶴に飛びかかる。その手には、隠し持っていた包丁。異常な速さで振りかざされる刃が、教室の空気を引き裂く。
「おっと……」
美鶴は咄嗟に後ろへ飛び退く。彼の顔には驚きはない。むしろ、笑みすら浮かんでいる。
「へえ……やるじゃん。さすが日頃からいじめの先頭に立ってただけのことはあるな。でもさ……」
時雄は何度も、何度も包丁を振り下ろす。しかし、美鶴は驚くほど冷静に避け続ける。
「俺、地味に見えてもさ、極真空手やってたもんでね」
挑発するように美鶴は笑う。その言葉が時雄の神経をさらに逆撫でし、彼の動きはより乱暴になっていった。
周囲の者たちは、誰も止めようとしない。
源喜も、華子も、そしてスダも。
華子は一瞬、動こうとした。しかし、時雄の狂気じみた表情を見た途端、息を呑み、硬直する。木刀を握る手がわずかに震えた。
「信成子……返せぇぇぇぇぇ!!!」
時雄の叫びとともに、包丁が再び振り下ろされる――その瞬間だった。
美鶴の手が、素早く懐へと伸びる。
次の瞬間、銀色の光が閃いた。
「……あ?」
鈍い音とともに、時雄の体が揺れる。
美鶴の手には、小型のナイフが握られていた。刃は赤く染まり、時雄の脇腹から血がじわりと広がっていく。
「お前ら、バカだよ……本当に……」
美鶴はつぶやき、乾いた笑みを浮かべた。
時雄は呻き声を上げながら後退し、やがて崩れ落ちる。
「こんなもんだよな、お前らの……」
美鶴が吐き捨てようとした、その時だった。
ゴッ!
強烈な衝撃が、美鶴の顔面を打ち抜く。
「黙れ、このクソ野郎……!!!」
源喜の拳が、美鶴を殴り倒した。
美鶴は床に転がり、鼻血を噴き出しながら呻く。痛みに顔をしかめながら、ゆっくりと起き上がろうとするが、その前に源喜が彼の胸ぐらを掴み、さらに拳を振り上げた。
「時雄! 時雄!!!」
源喜は振り返り、時雄のもとへ駆け寄る。しかし、その腕の中で、時雄は弱々しく呟いた。
「……信成子……最近、様子おかしくってよ……俺のこと、避けてばかりで……させてくれなくて……」
教室が凍りついた。
「……おい、時雄……?」
源喜の声がかすれる。周囲のメンバーの顔が青ざめていく中、時雄はさらに続けた。
「無理やり……しちゃったんだよ……俺……最低、最悪だよな……」
涙が一筋、頬を伝う。
「信成子……ごめん……な……」
その言葉を最後に、時雄は静かに息を引き取った。
誰も声を発さない。
教室に訪れた沈黙が、あまりにも重く、残酷だった。
スダは、一歩下がる。そして、冷めた目でその光景を見つめた。
「結局……こうなるんですよね。いつだって、バカが……」
スダの言葉が、虚しく教室に響き渡った。
美鶴は震えていた。
その体は小刻みに揺れ、脂汗が額に滲んでいる。先ほどまであれほど傲慢にふるまっていた男の姿は、もうどこにもなかった。
「……あ……ぁ……」
声にならない声が漏れる。唇は震え、目は虚ろに彷徨っている。そして――
じょぼっ……
教室に、生々しい音が響いた。
美鶴は恐怖のあまり、その場で失禁してしまった。ズボンの布地に広がる濡れた染みが、彼の惨めさを際立たせる。
彼は、もはや言葉を発することすらできない。ただ、がくがくと震えながら、何かを言おうとして口を開くが、まともな言葉にはならない。
その姿は、どこか哀れで、しかし、どこまでも醜かった。
ギリッ……
その様子を見て、華子は静かに木刀を握りしめた。
「信成子があんな目に遭ったことが許せない……!」
華子の声は低く、しかし、怒りと憎しみがはっきりと込められていた。
「信成子がどれだけ辛かったのか、時雄も無念だったわね……私は許せない。これは侮辱だ。女としても、人間としても、許せない!!」
彼女の言葉が空気を一層冷たくし、張り詰めた緊張が場を支配する。
美鶴はその言葉にかすかに反応するが、恐怖で動けず、ただその場に崩れ落ちる。
その時、ハルキが割って入った。
「離れろ、華子さん。一旦やめろ」
ハルキは低く、しかし、静かな圧を込めて言う。
「確かに、今ここにいるみんなは美鶴を消したいと思っている」
その言葉に、教室内の視線が彼に集まる。
ハルキはゆっくりと周囲を見渡した。源喜、富弥、そしてスダ――誰もが憎しみを抱えている。
そして、彼は小さく息を吐き、口を開いた。
「でも、殺しても終わらないぞ。どれだけこいつを傷つけても、信成子は帰ってこないし、時雄も戻らない」
沈黙が流れた。
確かに、皆が美鶴に怒りを抱えていた。拳を握りしめ、涙を噛み殺しながら、叫び出したいほどの衝動に駆られていた。しかし、それでも、ハルキの言葉は彼らの理性をわずかに繋ぎ止めた。
一方、そのやり取りを黙って聞いていた富弥は、壁際に座り込んで震えていた。
その姿に、源喜が鋭い目線を向ける。
「お前は……」
富弥は顔を上げ、震える声で答えた。
「……俺も、お前達を恨んでた……」
その言葉が、教室内の空気を変えた。
「正直、時雄が死んで、その彼女が酷い目にあったのはざまぁ!って思ったよ!」
その告白に、誰もが息を呑んだ。
「何人かは、お前達にへこへこしてればいじられない、そう思って一緒にヘラヘラしていた……それは事実だ」
富弥の声には、自己嫌悪が滲んでいた。
源喜は拳を握りしめた。何も言い返せない。
彼らは確かに、日頃から部の中で弱い男子たちを「いじり」笑っていた。それが、時には取り返しのつかない結果を生むことも考えずに。
そして今、その過去が富弥の口から語られることで、彼らの行いがはっきりと突きつけられたのだった。
胸が苦しかった。
なかには、富弥の言う通り、へこへこして何も言わずに黙っていた者もいた。それを今更知り、どうしていいか分からなかった。
後悔しても、もう遅いのに。
そんな沈黙の中、スダが静かに告げた。
「残り、六名ですね」
その一言が、場の空気をさらに冷え込ませた。