第十六話 疑心暗鬼
黒い布をかけられた信成子の亡骸。部屋の空気は重く、無言の沈黙が漂っていた。時雄はその場にうずくまり、息を荒くしながら頭を抱えて震えている。
深い苦しみが彼を支配していた。その横で源喜は怒りをあらわにし、時雄に向かって叫んだ。
「時雄……お前、アホか! あの写真や動画、美鶴の言うことを簡単に信じるなんて……!」
源喜の声は震えていたが、時雄はその言葉に返事をしない。
顔を歪め、ただただ苦しみに耐えているだけだった。その様子を見たハルキが口を開いた。
「……ピースしてる顔、ひきつってたよ。信成子ちゃん。あれ、酷いことされた人が……無理やり同意したって意味で、両手でピースしてるようなやり口だ……」
その言葉を聞いた葉月は、顔を歪め、言葉を飲み込んだ。部屋は一層静寂に包まれた。
時雄はハルキの言葉を耳にすると、目の前が真っ白になったように顔を上げた。彼の心は裂けるような痛みで満たされ、絶叫が口をついて出た。
「信成子ぉおおおおおお!!!」
そう叫ぶと、震える手で床に落ちたカッターを拾い、自分の首に当てた。
刃先が肌に触れ、赤い筋がじわりと浮き上がる。その瞬間、源喜が駆け寄り、必死に声を張り上げた。
「やめろ、時雄!」
だが時雄はその声を無視し、さらなる苦しみを感じながら、刃をさらに強く肌に押し当てようとする。
「信成子ぉおおお……俺は……俺は……何もかも信じられない……」
その刃が皮膚に触れ、血がじわりと滲み出す。源喜はさらに時雄の手を抑えようと必死に努力する。
「待て! お前は死ぬ必要なんてない!!」
源喜はそのまま時雄の手を握り込んだ。カッターの刃が血を流すが、源喜は力いっぱい押さえ込み続けた。
「やめろ……! こんなことで、お前が死んだら信成子がもっと浮かばれないだろ!」
しかし時雄は取り乱し、源喜の頬にカッターを振り下ろした。刃が浅く切れ、源喜の頬から血が流れた。源喜は痛みに歯を食いしばりながらも、必死に時雄を抑え込む。
「くそっ……落ち着け、時雄!」
その様子を、美鶴は冷笑を浮かべながら見ていた。
彼はスマホを操作し、新たな動画を再生する。その音が教室中に響き渡り、信成子の泣き叫ぶ声が部屋にこだました。
「くそおおおおお!!」
時雄はその声を耳にし、さらに発狂する。源喜は出血しながらも、時雄を必死で抑え込んでいた。
「もっとやれよ。二人でやりあえ! 血まみれになってしまえよ!」
美鶴の目は血走り、薄気味悪い笑みを浮かべていた。その顔には、狂気とも言える興奮が満ちている。
「いいんだよ。俺らを馬鹿にしてきた奴らが苦しむのを見るのが最高だろうが。俺はな、就活のストレスの発散にちょうど良かったんだよ、信成子さんは……」
その言葉に、ハルキの手が震えた。彼の拳が、強く握りしめられる。
だが、彼はそのまま黙って立ちすくんだ。自分もかつて源喜たちにいじめられていたことを思い出していたからだ。
美鶴の言葉は彼を深く刺激し、その記憶が再び胸を締めつけた。だが、怒りを込めて拳を握りしめることしかできなかった。
一方、華子は無言で木刀を握り直す。その目は、美鶴を鋭く射抜いていた。
怒りと憎しみがその目に宿り、何かを抑えきれないような雰囲気を醸し出している。しかし、彼女の手が震えることなく、木刀をしっかりと握りしめていた。
「やめろ、華子さん!」
ハルキが叫ぶが、華子はまるで聞こえないかのように、ただ美鶴を見つめ続けていた。無言のまま、何かを決心したような瞳で、戦う準備を整えているようにも見えた。
その間、教室の隅で静かに立っているのはスダだった。彼は他の者たちの言葉にも動じることなく、ただ静かにその場の出来事を眺めていた。無表情で、目線も動かさず、他の誰もが感情を表に出す中、彼だけはひときわ冷徹に見えた。
「スダ……お前、黙って見てるだけかよ!」
源喜が振り返り、怒鳴った。彼は自分の気持ちを抑えきれず、スダに向けてその憤りをぶつけた。しかし、スダは一言も発しなかった。
彼の視線は、無表情なまま、美鶴のスマホ画面をじっと見つめている。目の前で繰り広げられる騒動には一切反応せず、ただその視線だけが、他の者たちの怒りや焦りを無視して続いていた。
美鶴の顔が一瞬だけ引きつった。それに気づいたのは、スダが視線を変えた瞬間だ。しかし、美鶴はすぐにその表情を消し、再び下卑た笑みを浮かべた。
「お前も見て楽しんでるんだろ? ほら、俺の勝ちだろうが!」
美鶴はさらに挑発的に言った。彼の言葉には、スダもまたこの混乱を楽しんでいるという決めつけが込められていた。皆が動画を見て絶望し、怒りをぶつけ合う――それこそが美鶴の狙いだった。
しかし、スダは一切返答しなかった。
その無表情な視線が、まるで美鶴をじわじわと圧迫しているかのようだった。美鶴はその視線に気づき、少しだけ動揺を見せたが、すぐに自分を取り戻す。だが、その動揺を見逃さない者もいた。
スダは依然として無表情のまま、美鶴のスマホ画面を見続けていた。その画面には、信成子の泣き叫ぶ映像が映し出されている。
ここは電波が通じないはずだった。なのに、美鶴のスマホは動画を再生している。そして、そのスマホは没収されることなく彼の手に残っていた。
スダがそれを止めなかったのは、ただの偶然ではないだろう。彼は最初から、この動画を誰かに見せるつもりだったのではないか――。
美鶴はそんなことに気づくこともなく、なおも自らの勝利を確信していた。だが、その場の空気は、すでに彼の知らないところで変わり始めていた。スダの冷徹な視線が、まるで美鶴に重圧をかけるように、じわじわと場を支配しつつあった。