第一話 スタート
冬の透明な光が、静かに揺れるバスの窓を通り抜けて車内を包んでいた。
名古屋を抜け、山梨の山間部へと続く道。乾いた空気のなかに漂う、微かに冷たい風が、旅の始まりをそっと告げている。
東海地区のとある大学にある放送研究部の卒業旅行。
4年間、共に学び、笑い、時にはぶつかり合いながら過ごしてきた仲間たちとの、最後の思い出になる旅。
全国から集まった部員たちは、この旅を終えればそれぞれの道を歩むことになる。
地元に残る者、故郷に帰る者、都心へ向かう者、はたまた海外へと旅立つ者。
これが、同じ時を過ごした仲間たちとの、最後の時間かもしれない。
ほとんどの部員はすでに内定を手にしており、就職までの短い自由な時間を楽しむために、この旅行が計画された。
「次のサービスエリア、絶対寄るよな?」
「ソフトクリーム食べたい!」
「いやいや、俺はカツサンド一択だわ!」
前方の席では、男子学生たちが肩を叩き合いながら盛り上がっている。
他愛もない会話、くだらないやりとり、それでも彼らにとってはかけがえのない時間だ。
車内はその笑い声で満たされ、バス全体に明るい空気が漂っていた。
そのすぐ後ろでは、女子学生たちがスマートフォンを構え、SNS用の写真を撮り合っている。
ポーズを変え、角度を工夫し、撮れた写真を見せ合っては笑い合う。
「ギャルピースやろうよ!」
「そだね! ギャルピー!」
「ギャルでいられるのも今のうち!」
屈託のない笑顔、高い声、楽しげな仕草――本当に賑やかだ。
その場にいるだけで、誰もが自然と楽しくなれるような、そんな雰囲気があった。
「次のサービスエリアで全員で写真撮ろうよ!」
一人の女子が提案すると、すぐに賛成の声が上がった。
男女入り混じる声、弾けるような笑い。
――けれど、そんな喧騒をよそに、バスの一番前の席では陸馬ハルキが一人静かに座っていた。
窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めながら、手元ではスマートフォンの画面をなぞる。
けれど、それはただの動作に過ぎず、何かを真剣に見ているわけではなかった。
周囲の笑い声に背を向けるように、イヤフォンをさらに深く押し込む。
気の置けない仲間たちが楽しむ姿を見ても、どこか自分だけが違う場所にいるような気がしてしまう。
――四年間、ずっとそうだった。
「ハルキ、どうした? やけに静かじゃねえか」
後列の席から顔を出したのは、権野源喜。
声も態度も大きく、いつも場の中心にいる彼は、わざわざ前の席までやってきたようだった。
「いや、別に。ただスマホ見てただけ」
ハルキは軽く笑って返したが、その笑顔はどこかぎこちなかった。
「んー、内定通知か?」
「ううん、今日は何もきてない」
ハルキだけは、部員の中で唯一、内定をもらっていなかった。
「ま、今だけは楽しめよ。就活のことなんか忘れてさ! 勿体無いぞー、みんな同じお金払ってんだからさー」
後ろの席から他の男子たちも声をかけたが、ハルキは苦笑いするだけだった。
彼らは「つまんねえな」と笑いながら、また元の席へ戻っていった。
ハルキはふっとため息をつく。
その直後――。
ハルキの斜め後ろから、そっとチョコレートの箱が差し出された。
驚いて振り返ると、そこにいたのは厚目葉月だった。
葉月は写真を撮り合う女学生たちよりも、やや控えめな性格だ。
けれど、いつも周囲に気を配り、柔らかな空気を纏っている。
「ハルキくん、元気ないね。大丈夫?」
彼女の声は、他の誰とも違う優しさを含んでいた。
「別に、寝不足なだけ。……ありがとう」
ハルキは精一杯、笑みを作ってみせた。
だが、葉月はじっと彼を見つめたままだった。
「無理しなくてもいいんだよ。何かあったら言ってね」
優しい言葉、穏やかな眼差し。
それは、いつも閉じこもりがちなハルキの心に、ほんの少しだけ光を灯した。
なぜならハルキは――
葉月のことが好きだったからだ。
「まだ着かないのかなぁ……寝ちゃおうかなぁ」
「おい、騒いでた女子たち寝てるぞ」
そんな呟きが聞こえるころには、車内の空気も少しずつ落ち着き始めていた。つい先ほどまであれほど賑やかだった声が、いつの間にかまばらになり、話しながらもあくびをする者が増えていく。
バスは順調に進んでいた。速度は速すぎることもなく、道が空いているおかげで揺れも少ない。けれど、外の景色はいつの間にか変わっていた。
さっきまで青空が広がっていたはずなのに、いつの間にか灰色の雲が空を覆い始めている。
長旅の疲れからか、学生たちは一人、また一人と眠りについていった。
車体が揺れるたびに、寝落ちそうな学生たちが微かに身体を傾ける。誰かの肩にもたれかかったり、窓に頭を預けたりしながら、そのまま静かに夢の世界へと落ちていく。
あれほど賑やかだったバスの中は、あっという間に静寂に包まれた。今は、エンジンの低い振動音と空調の微かな唸りだけが、車内に響いている。
それでも、陸馬ハルキはまだ目を閉じることができずにいた。
うとうとと意識が遠のきそうになりながらも、眠りの深い場所まで落ちていくことができない。
前日、就活のスケジュールを確認しながら、この旅の準備をしていたせいだろうか。あるいは、それだけではないのかもしれない。
――何かが引っかかる。
そう思った瞬間、車内が突然暗くなった。
「……トンネル……か……」
ハルキはぼんやりとつぶやく。
バスは長いトンネルに入ったようだ。窓の外には、闇と点滅するライトの光だけが交互に流れていく。白い光の筋が一定の間隔で通り過ぎるのを見ながら、ハルキは何とはなしに前方へと視線を向けた。
そこで――奇妙なものを見た。
運転席の男。
運転手の姿が、黒い帽子と分厚いマスクに覆われていた。
さっきまで、こんな格好をしていただろうか?
そのマスクは普通のものではなかった。何かの装置につながっているのか、一定の間隔で「シュコー……シュコー……」と機械的な呼吸音を立てている。
その様子に、ハルキはぞくりとした寒気を覚えた。
――おかしい。
直感的にそう思った。
しかし、それ以上考える間もなく、ハルキの意識は突然、闇へと沈んでいった。
目を開けた。
重たい瞼をどうにか持ち上げると、そこは――バスの中ではなかった。
古びた教室。
机と椅子が乱雑に積まれ、床にはプリントやノートの切れ端が散乱している。
壁には黒い染みが広がり、天井の蛍光灯が明滅している。
――兵士のような人影。だが、顔がない。
迷彩服を着た無数の「マネキン」が、壁際に並んでいた。
顔の部分は、真っ黒に塗りつぶされている。表情のない、異形の人形たち。
「……なんだ、ここ……」
「バスにいたよな、俺たち……」
「これ、夢か?」
周囲を見渡すと、放送研究部の仲間たちが全員揃っていた。
誰もが青ざめ、困惑し、恐怖に染まった顔で周囲を見回している。
――そのとき。
「こんにちは」
声が響いた。
黒板の前に、ひとりの男が立っていた。
黒いスーツ。無表情の顔。
年齢も、目的も、何も分からない。
「まず、ひとつお知らせがあります」
男は口元だけに、かすかな笑みを浮かべて言った。
「――みなさんは、これから死にます」
誰もが凍りついた。
その言葉は、ただの冗談には聞こえなかった。
冷たく、決定的な現実のように、胸に突き刺さった。
ハルキは直感した。
――これは、夢じゃない。
――ここは、命を奪われる場所だ。
果たして彼らは、なぜ“ここ”に連れてこられたのか。
謎の男の正体は?