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君の隣で15分  作者: 氷雨
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 予備校終わりの帰り道、私はいつものように最寄り駅でバスを待つ。

 私が通う予備校には科目毎に講義を教える講師の他、生徒一人ひとりに専任の担当アドバイザーが就く。大学生バイトの予備校もあるみたいだけど、私のところはちゃんとした社員が受け持っている。たぶん。詳しく聞いたことはないけれど。


 どちらにしても、単なる話し相手に過ぎないと思う。

 あの人たちにできるのは元々それだけだ。アドバイスはしてくれるけど、決めることはできない。決めるのはあくまで本人と親だからだ。

 あの人たちにできるのは、ほんの少し生徒の背中を推すだけ。


 なぜなら、生徒一人ひとりの進路という人生の重大な岐路に対して、彼らは責任を持てないからだ。結果、当たり障りのないことしか口にできない。

 彼らの立場を私は理解しているつもりだ。だから、余計な期待も失望も抱かない。その代わり、私は私の行きたい大学を自分で決めねばならない。


 私は漠然と、大学には行きたいと思っている。

 夢のキャンパスライフを描くほど、私は自分を子供だとは思ってない。あくまで現実的に、大学選びは社会的に自立して生きていくための前段階だ。


 女だから結婚して玉の輿に乗ればいい、なんて時代は終わったのよ。このご時世、ちゃんと大学くらい出ておかないと、碌な就職先を見つけられないよ――。

 母の口癖だ。うんざりするくらい聞いたセリフ。暗唱だってできる。

 自分の固定観念を娘にまで押し付けないでほしい、と反論したくなることもあるけれど、実際その通りなんだろうな、とも感じた。


 ちなみに今年50の大台に乗るはずの父は、私に何も言わない。

 関心がないのか、母が口喧しく言うからバランスを取っているのか、心の内は知る由もないけれど、年頃の娘に余計なことを言って嫌われたくないのだろう。


 ふう、と短いため息を吐くと、白い息はすぐに消える。

 今夜は冷えるようだ。バスはまだだろうか、と首を巡らせると、ちょうど自宅前の駅に停車するバスが到着するところだった。


 オキニの定期券を運転手に見せて、最後列の後部座席に座る。

 最後列に座ることに、深い意味はない。どこでもいいけど、ふとした拍子に一番後ろから人々を俯瞰する瞬間が、ちょっとだけ好きだったりする。


 ランドセルを背負った私より幼い小学生の子。

 買い物帰りであろう、スーパーの袋を両腕に掛けたおばさん。

 スラッと長い黒髪と手足を靡かせるキャリアウーマンのような女の人。

 お年寄りが集まる囲碁か将棋クラブにでも入っていそうな、深い黒のステッキを片手にゆっくりと歩く白髪のおじいさん。


 色んな人たちがこのバスに乗り合わせる。

 この人たち一人ひとりにそれぞれの人生を生きていて、たった15分の間だけ、私と名前の知らない見ず知らずの人たちの人生が交わる――。


「間もなく発車します」

 運転手がそう言った後、乗ってきた乗客は一人だけだった。

 その会社帰りのサラリーマンは、ほんの少しくたびれた黒いスーツに、朝見た時と同じ青いストライプのネクタイを締めていた。


 あの人だ――。

 毎朝同じバスで通勤してる人。

 数日前の朝、私の定期券を拾ってくれた人。


 夜の帰宅時に同じバスになったことは、私の覚えている限りでは一度もない。今日は私の帰りが遅くなったから、たまたま一緒になったのだ。

 彼は疲れ果てた表情のまま、私には視線を投げかけることなく、少し距離を空けて私の隣に座った。乗客は疎らなので、詰めて座る必要がない。


 それでも、彼が最後尾に座ることは何となく予想がついた。

 定期入れを拾ってくれた後も、彼が声を掛けてくることは全くなかった。たぶん、彼の方から声を掛けてくることはこれからもないだろう。


 バスが発車してしばらく、私はスマホの画面に目を向けていたけれど、その実何も見てはいなかった。バレないように、そっと隣を盗み見る。

 彼は目を閉じたまま、こっくりこっくりと船を漕いでいた。


 彼が私に気付いた様子はない。そもそも、認識されてすらいない可能性もある。彼にとって、私はただの年端もいかない小娘だ。

 指輪はしてないけど、彼女くらいいたって不思議じゃない。


 なぜ、そんなことを考えるのだろう?

 どうでもいいことなのに。私には全く関係のないことだ。

 ただ、何となく気になる。


 何の欲もなさそうに見える彼の横顔から、私は目を逸らして考えた。

 きっと意味なんてない。サブリミナル効果とかいうやつだ。

 毎朝同じバスに乗っているから、印象に残っているだけだ。


 一人、またひとりと乗客は降りていき、いつしか残っているのは私と彼だけになった。次のバス停が終点だ。私と彼が降りるいつものバス停。

 私は手を伸ばし、降車ボタンを押し込む。


 彼は起きることなく、バスの揺れに同調するかのように揺れていた。マリオネットみたいに、誰かに操られているようでもあったけれど、もし誰かに操られているのだとしたら、それはたぶん睡魔に、だろう。抗えないよね、睡魔。


 ……起こした方が、いいだろうか。

 少し迷ったが、私は右手を伸ばして彼の肩を静かに揺すった。


「あの、終点ですけど……」


 眠りこけていた彼も、それでさすがに我に返ったのか、はっと気が付いた様子で慌てて鞄を背負い直し、急ぎ足で降車口へと向かう。

 私も後に続いた。バスを降りると、徐に彼と目が合う。


「君は……ありがとう、起こしてくれて。助かった」

 はにかむ彼の表情は、夜の帳の中でもよく分かった。


「いえ、あの……私の方こそ、この間はありがとうございました」

 ペコリと頭を下げると、彼は困ったように頭を掻く。


「いいよいいよ、そんなの。それより、気をつけて帰りな」

 そう言って去っていく彼が暗がりの中に消えるのを、私は静かに見送った。

 その日、彼と私の「15分」が、初めてちゃんと交わった日になった。

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