沖縄新婚旅行
結婚式を挙げた翌日、私たちは新幹線で博多まで出て、福岡空港から新婚旅行のため、那覇行きの飛行機に乗った。カウンターで搭乗手続きを済ませて、チェックインした後は、アナウンスがあるまでしばらく待機。出発ロビーから離着陸の様子を眺めていると、日本有数の発着回数の多い空港だけあって、ひっきりなしに国内線や国際線の航空機が発着している。やがてアナウンスで、私たちが搭乗する那覇行きの便のアナウンスがあり、搭乗口から飛行機に乗り込んで、機内の指定された席に着く。やがて乗客全員の搭乗が終わって、機内アナウンスが入り、しばらくすると飛行機は滑走路へと入って、しばらくするとエンジン音が高鳴り、一気に加速をつけて飛び立った。この日の天気は、福岡空港を離陸した時点では曇り空であったが、雲の上に出ると、そこは濃いブルーをした空が広がっていた。やがて九州南部を突っ切って、海上出ると、そこは美しい海がどこまでも広がっていた。機内では安定飛行に移行した段階で軽食が出されて、食事を楽しむ。さと子は初めて乗る飛行機にわいわいはしゃいでいたが、
「子供じゃないんだから静かに乗ってろ」
そう私が注意したにもかかわらず、大きな声ではしゃぎ続けていた。私はいつの間にか眠っていたようで、目が覚めて時間を確認すると、那覇空港到着30分前であった。沖縄県の海域を飛んでいるだけあって、エメラルドグリーンの色を湛えた美しい海が見える。この光景を見ると、はるばる沖縄までやってきたんだなぁという実感がわいてくる。やがて飛行機は着陸態勢に入って、定刻に那覇空港に到着。空港の到着ロビーで、預けていた荷物を受け取り、空港を後にして予約していたレンタカーを借りて、沖縄本島で2泊滞在する。その後は石垣島・波照間島・那覇空港にいったん戻った後久米島に向かう予定である。
空港を後にしてまず向かったのが、沖縄本島最北端に位置する辺戸岬。途中で万座毛に立ち寄って美しい風景を楽しみながら、国道58号線を北上。辺戸岬ではすぐ目の前が東シナ海で、美しいサンゴ礁が続いているのが見える。
「ここから眺める星空はどんなだろう」
という思いを抱きながら散策してみる。ところどころサンゴのかけらが、浜に打ち上げられていて、いくつか拾って沖縄の土産にしようと、持ってきたカバンのポケットの中にしまい込んだ。ここで2時間ほど過ごして、今日の宿泊地である万座ビーチに向かう。今度は国道58号線を南下するルートで、進行方向右側には美しい海が広がる。そしてこの美しい風景に、似つかわしくないものが時折轟音を響かせながら、上空を横切る。そう、アメリカ軍の戦闘機が頻繁に飛んでいるのである。改めて沖縄の重い基地負担の問題が頭をよぎる。沖縄県は重い基地負担を強いられている半面、基地があることによって、ある程度経済が回っているという現実もある。でも、この当時から、沖縄に駐留するアメリカ軍の軍人や、軍属が引き起こす事件や事故が問題となっていて、軍兵士によって、少女がレイプされるという事件も起こった。やはり沖縄の人にとっては、この重い基地負担や、軍人・軍属が引き起こす事件や事故を、どうにかしてほしいという思いは、当時からあったのではないかと思うが、この問題は一向に改善されていない。そんななか、車を走らせて宿泊地のリゾートホテルに到着。車を降りてチェックインを済ませた後は、万座ビーチへと向かった。まだ泳ぐには少し早いが、3月も最終日となると、山口では初夏のころのような陽気で、暖かいというよりは、暑いくらいであった。私達は浜辺で波と戯れたり、写真を撮ったりしながら、日が暮れるまで時間を過ごして、夕食の時間になったのでホテル内のレストランに向かった。レストラン内は南国のリゾート地ということで、トロピカルムードにあふれていて、沖縄名物の琉球料理や、トロピカルフルーツがたくさん出された。食事を済ませた後は、ホテル内の免税店で沖縄の土産などを買って、両親宛てに発送して、客室内の風呂に入った。夫婦になったのだから、お互いに裸を見せ合ってもいいだろうということで、二人で入浴。改めてさと子の身体を見てみると、もう少し痩せた方がいいんじゃね?というような体つきであった。やがて時間は21時を過ぎて、持参したゲームも飽きたころだし、移動などで昨日からバタバタしていたので早めに寝ようということで、そのままベッドに入って新婚初夜は更けていった。
二日目は沖縄本島南部を周遊するコース。この日の予定には、沖縄戦で最大の激戦地だったともいわれる、糸満市の摩文仁の丘に行って、ひめゆり学徒隊の方の話を聞くことになっていた。当初この計画を立てたときに、さと子は
「新婚旅行なのに、何でそんな暗い事があったとこに行かんといけんのか?」
と言っていたが、私は
「沖縄で過去にどんなことがあったのか、きちんと歴史を直視しなければいけない。そして次の世代に、俺らが語り継いでいかなければいけない」
と言って聞かせて、さと子の反対を押し切って、予定に取り入れたのである。私が摩文仁の丘を訪れるのは、高校の時の修学旅行以来2回目で、あの時もかなり衝撃的な話であったが、今回は大人になってどの様な感想を抱くのかと思っていた。
宿泊したホテルを出発して国道58号線を南下し、摩文仁の丘に着いたのが10時頃であっただろうか。駐車場に車を停めて、まずは摩文仁の丘周辺を散策。高校の時に訪れた時と、さほど景色は変わっていなかった。やがて、ひめゆり学徒隊の方の話が伺えるというアナウンスがあって、ひめゆり記念館へと入っていった。記念館の中は、ガマと呼ばれた洞窟内の様子が再現されていて、激しく銃弾が飛び交う中、どの様に逃げて、次々と仲間の方たちが命を落としていったのを、詳しく聞くことができた。館内には、亡くなられた方々の写真も展示されていて、銃弾を顔面に受けて即死した方や、体中に何発もの銃弾を浴びて、息絶えた方など、悲惨というよりも、とても言葉では表しきれないような、むごい最期を迎えなくてはならなかった人たち、数多くいたことに、改めて平和の尊さをかみしめた私である。ひめゆり学徒隊の方たちは、日本兵と行動を共にして、負傷した兵士の看護などを行っていたが、戦局の悪化とともに、医薬品が圧倒的に不足し、不衛生な厳しい状況下の中で、必死に看護にあたっていたという。そうして昭和20年6月に、沖縄戦は数多くの犠牲者を出して終わったのである。改めて生き残った方の話を直接聞くと、リアリティーがあって、どの様な状況に置かれていたのかが、よくわかった。
記念館を出る際に、感想を自由記述で書く台が設けられていて、私は
「あの戦争が一体誰のための、そして何のための戦争だったのか」
を、常に頭の中に考えておかないと、いつかまた同じ悲劇が繰り返される。私は決して同じ過ちを繰り返さない。そう書いた記憶がある。
ひめゆり記念館を出て、次は那覇市内に向かったのであるが、さと子はひめゆり記念館に連れて行ったことについて
「本当にあんたって根暗なんじゃね。あんなところに行きたがるなんて」
と言っていたので、私は
「お前はあの生き残った人の話を聞いて、何とも思わんかったんか。所詮お前はその程度の人間なんじゃな」
そう言って、れから那覇市内に入って、今は焼失してしまった首里城に着くまで、一言も口をきかなかった私である。
首里城に着くと、煌びやかな琉球衣装をまとった方々が、観光案内をされていて、私たちも記念写真にと、琉球衣装をまとって写真を写してもらった。そして朱塗りの首里城に入って、城内を見学。この時はまだ再建工事中で、完全な形にはなっていなかったのであるが、更盛を極めた琉球王朝の、華やかな時代をほうふつとさせる光景が広がっていた。城内には沖縄のお土産を売る店も数多くあって、沖縄と言えばチンスコウということで、会社や家族や親戚へのお土産にいくつか購入して、実家に発送してもらった。
首里城は広く、ゆっくり見て回ったので夕方になったので、那覇市内のホテルにチェックインして、ホテルで食事を済ませて、その後は入浴して、一日の疲れを落とした私達である。
翌日は那覇空港に行って、石垣島へ向かう飛行機に乗る。石垣島は八重山地方では宮古島とともに、大きな町を形成する島で、川平湾や平久保崎灯台、宮良川のヒルギ林などの見どころがある。
石垣空港に降り立って、空港を後にして、レンタカーで石垣島を一周するのであるが、まず向かったのは平久保崎。ここは石垣島の北端に位置する岬で、灯台が設置されていて、はるか遠くまで広がる水平線と、眼下にはサンゴ礁の青い海が続いている。目の覚めるようなエメラルドグリーンの海が広がっていて、あまりの美しさに息をのむほどであった。ここで一時間ほど過ごしたであろうか。次に向かったのが川平湾。湾内のサンゴ礁はグラスボートに乗って直接海中を見られるようになっており、濃いブルーの海に、綺麗な熱帯魚があちこちで泳ぐ姿が見える。そして時折大きな二枚貝が見えたが、あこや貝だったのであろうか。グラスボートによる湾内の観光は、結構長い時間用意されていたので、美しい海の風景を十分に堪能することができた。ここでは船底のガラスに直接カメラを当てて、何枚か写真を写して、帰ってから現像に出した。
川平湾を後にして、宮良川に立ち寄って、空港近くのリゾートホテルにチェックインして、石垣島での一日を終え、翌日は人が住むところとしては、日本最南端にある波照間島に行く。
四日目は車で空港に行った後、飛行機に乗って波照間島に向かうのであるが、待機していた飛行機は小型のプロペラ機。20人も搭乗すると、定員いっぱいになるような飛行機であった。しかも、波照間島に行くのは1日1便しかなく、私たち以外にも結構乗客がいた。このプロペラ機から窓の外を眺めていると、雨が降っていたのであろうか、円形の虹を見ることができた。私がこの島に行くと決めた理由は、一般人がいける日本最南端の星空を眺めてみたいというものであった。この島には星空観測タワーというのがあって、運よく天体観測を行っているという情報をキャッチして、絶対に行くと決めて、行程に組み込んだのである。
波照間空港に降り立った後、折り返し石垣空港行きの便が離陸していって、これで何があっても、明日の朝まではこの島に滞在することになった。この島は自転車でほとんどの所を見て回れるくらいの小さな島で、当然大きな川などはなく、飲料水や生活用水は地表に降った雨をためてできた池の水を使うか、定期船で輸送されてくる水を使うしかないという島でもある。まずは民宿に荷物を預け、自転車を借りて島内をめぐることにした。自転車をこいでしばらく走ると、島の”繁華街”に出た。ここには小さな商店とお土産屋さんと、沖縄名物の泡盛を製造する工場があって、お土産に波照間島・日本最南端とプリントされたTシャツと、沖縄本島よりも度数の強い泡盛「泡波」
を買って、民宿にいったん戻って、着替えて改めて島をめぐることにした。そして島を一周し終えると、夜までは民宿の中で過ごす。この民宿の食事の量は半端じゃないくらいの量が出てくると聞いていたのであるが、いざ食事の時間になって、食堂に行ってみると、琉球料理が、これでもかっていうくらい盛られていて、本当に冗談抜きで、半端じゃない量が出されていた。食料はともかく、水資源が乏しいこの島で、いったいどうやって、あれだけの食事を作るだけの水を確保したのであろうか。
食事の時間が終わって陽が沈むころ、星空観測タワーに行ってみた。幸いなことに雲一つない天気で、水平線の彼方まで見渡せる状態であったため、南の空に見える南十字星も、この目でくっきりと見ることができた。私が一度でいいから、自分の目で見てみたいと願っていた南十字星との対面であった。あの感動は長い時間が過ぎた今でもはっきりと覚えている。そして北の方に目をやると、私たちが普段見慣れた北極星が随分と低い位置にあることが分かる。私たちが住んでいる山口県と比べて緯度にして10度以上南下したというのが実感としてわかる。
やがて夜も遅くなってきたので、民宿に戻って就寝。翌日の朝食も、朝食というにはかなりヘビーな量が出されて、それでも完食して空港に向かった私たち。昨日と同じプロペラ機がやってきて、20人ばかりの乗客を乗せて離陸。石垣空港で、那覇空港行きに乗り換えて、さらに那覇空港で久米島空港行きに乗り換えて、久米島に降り立ったのは午後3時頃であったか。
久米島で見に行ったのが畳石。柱状節理の岩が並ぶ壮観な風景が見られる。ここでしばらくの間滞在し、久米島を一周するドライブ。途中でパイナップル農園があったので、
「そういえばまだ沖縄に来て、パイナップルを買ってなかったな」
と思い、観光農園へ寄り道。試食させてもらったが、完熟で甘みがとても強くて、一口食べると、果肉の柔らかさと、甘酸っぱさが口の中いっぱいに広がる。ここでは全国への配送も可能だということで、お土産に買って、これまた実家に送っておいた。そして、ホテルにチェックインして、沖縄最後の夜を迎えた。海岸近くに立つ私達が泊まったホテルは、窓を開けると打ち寄せるさざ波の音が心地よいBGMとなって眠りにいざなう。いつしか深い眠りに落ちていった。
翌日、ホテルで朝食を済ませた後、久米島空港に向かい、定刻に那覇空港行きが離陸。那覇空港で福岡空港行きに乗り換えて、福岡空港に降り立ち、手荷物を受け取って、福岡市営地下鉄に乗って博多に出た後、博多から新幹線に乗り換えてアパートに帰ったのが、確か午後3時ごろだったのでなかったかと思う。荷物をアパートにおいて、まずは実家に行って、家に届いているお土産を、両親や姉夫婦などに手渡して、久米島で買ったパイナップルを食べてみようということになり、食べてみたが、ヤッパリ完熟でおいしかった。そして、無事に帰って沖縄への新婚旅行は終わった。