薄明の月、君の名を呼ぶ
夜が来た。
真紅の月が昇ると同時に、少女は再び山を登った。彼の住まう古城――かつて吸血貴族が繁栄を誇った黒の塔。今では忘れられた廃墟に近いそこを、彼はなお「住処」と呼んだ。
「また来たのか」
乾いた風のような声。それが、彼――ディエルの第一声だった。
「……ええ。来ました」
少女、リセリアは裾を摘まみ、わずかに頭を下げた。宮廷の残り香を漂わせる仕草だった。
ディエルは椅子から立ち上がらず、氷のような横顔で彼女を見つめた。銀の髪、冷たい瞳。その視線は、すでに過去を映す鏡のようだった。
「血をやるつもりなら、いらない。契約も解いた。それでも来るのは――何のためだ」
「……あの夜、私が倒れたとき。あなたが手を貸してくれたでしょう? 傷を癒して、血を吸わずに」
「ただの気まぐれだった」
「でも私は、あなたと契約していた。あれがなければ、命は助かっていなかった」
「契約はもう必要ない。あれは一時のものだ」
「それでも、あなたが生きていると知ってしまったからです」
ディエルは何も答えない。リセリアは籠を抱えたまま、小さな食卓に向かって歩いた。きのうと同じ、ロルベリーのタルトを用意して。
「食事を持ってきました。きのう言っていた、タルトも」
「私は喰わぬと言ったはずだ」
「知っています。でも、これは“私のため”です」
ディエルはその様子を黙って見ていた。彼女は塔に、かつて失われた日常をひととき取り戻そうとするように、丁寧に皿を並べた。
「なぜ、こうまでして通う。死を恐れぬのか」
「恐れていないと言ったら、嘘になります。でも……あなたが寂しそうだったから」
その言葉に、彼の眉がわずかに動いた。
「……愚かだ」
「はい。でも、好きです」
その微笑みに、彼は目を伏せた。吸血鬼が見せるには、あまりに人間くさい仕草だった。
*
ある夜、彼は過去を語った。
「百年前、この地には王の城があった。騎士がいた。民が栄え、狩人たちは吸血種を狩った。そして我らは滅びた」
「……あなたが最後のひとりだった?」
「そうだ。封印の眠りから目覚めさせたのは――お前たちの村だった」
リセリアの息が止まる。彼女の父は、塔の研究に関わっていた。
「父が……」
「墓所を暴き、封印を解いた。それが私を呼び戻した」
彼の目が遠くを見ている。
「私は、元は人間だった。戦乱の中で仲間を喪い、死の間際に“あちら側”の手を取った。それが呪いだったのか、救いだったのか……いまでも分からぬ」
彼の記憶には、血煙と剣戟の夜が焼きついていた。燃える城。嘶く馬。信じていた仲間が炎の中で崩れ落ちる姿。
「……私は、あなたを殺すために来たのかもしれません」
だが彼女の瞳は、まっすぐ彼を見ていた。
「それでも、あなたが独りでいたから。せめて最期を、見届けたかった」
「愚かだな。……だが、人間とは、そういうものか」
その夜、彼は初めて彼女の名を呼ばなかった。
だが、瞳の奥に宿る何かが、確かに揺れていた。
*
ある晩、ふたりは塔の屋上に出た。星が降るような夜だった。
「楽器は、奏でないのですか?」
リセリアが問うと、ディエルは物陰から古い弦楽器を取り出した。
「昔は、よく弾いた」
爪弾かれる音は低く、美しく、夜に溶けた。
「この音が好き。あなたの過去が、少しだけ近くに感じられる気がします」
「……そうか」
その夜、ふたりは並んで星を見た。言葉はなかった。ただ静かに、時だけが流れていった。
*
火が放たれた。黒の塔を、村が焼こうとしていた。忌み地を滅ぼすために。
「彼は、人を襲ってなどいない! お願い、やめて!」
リセリアの叫びは、誰にも届かなかった。
彼女は塔へと走った。燃え上がる森を、傷を負いながら。
塔の広間。彼は玉座に座っていた。
「来たのか」
「来ないと、思いましたか?」
「人の手で滅ぼされるくらいなら、自ら眠りにつこうと思った。だが……やはり愚かだ。私は」
「逃げましょう。どこか、誰も知らない場所で――」
「私はこの地に縛られた影だ。お前の時は、まだ動いている。だが私は、もう止まりかけているのだ」
彼は、彼女の頬に触れた。その指は冷たい。
「私の名を、忘れるな」
「忘れません。忘れるものですか」
彼は、微笑んだ。そして、
「……リセリア」
その名を、初めて、彼が呼んだ。
塔が崩れる。彼は少女の背を押した。「生きろ」
リセリアは、振り返らなかった。けれど、彼の微笑みが胸に焼きついて離れなかった。
*
――それから幾年が過ぎた。
老いたリセリアは、村の小さな診療所をひとりで守っていた。遠い昔のことを話すことはなかったが、子どもたちは彼女の語る「塔の吸血鬼」の昔話を不思議そうに聞いた。
「夜がくるたび、塔に光がともったんだって」
「月が出ると、彼女はいつも空を見てたんだよ」
それは、物語になった。名も姿も知られぬ伝説として。
けれどリセリアだけは、知っていた。
――あの夜、確かに彼が名を呼んでくれたことを。
月が昇るたび、彼女は空を見上げる。そして、そっと呟くのだ。
「……わたしの吸血鬼」
その名も、姿も、誰も知らぬ伝説となっても。あの夜の温もりだけは、まだ心に灯っていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
この物語は、「永く生きる者」と「限られた命を抱える者」の間に芽生えた、ささやかな繋がりを描きたいと思い生まれました。
滅びを知る吸血鬼と、春のようにまっすぐな少女。交わることのない存在が、たった一つの名を通じて心を重ねる――そんなひと時が描けていれば幸いです。
タイトルに込めた「君の名を呼ぶ」という言葉は、存在の証明であり、祈りでもあります。
どれほど時が過ぎても、名前を覚えている者がひとりでもいれば、その人は決して“完全な消失”ではない。
だからリセリアは、最後までその名を心に灯し続けたのだと思います。
「吸血鬼と人間」という題材は多くの作品で描かれてきましたが、この短編が、どこかで誰かの胸にほんの少しでも残るものとなれば嬉しく思います。
また別の夜、別の物語で、お会いできますように。
――4MB!T