加奈子の実家
暑い夏の日差しの中、加奈子は一人で電車に乗っていた。
車窓から見える景色が変わっていく。
都心から乗り換えて郊外に向かうと本当に別の景色になっていく。
ビルが林の木々のように聳え立っている都心から、加奈子の実家に近づくにつれて戸建ての家が並ぶ景色に代わるのだ。
お盆に加奈子は一人で実家に帰った。
可愛がってくれた父方の祖父の新盆だったから、夫・章一の実家へ行く気は無かった。
それでも、一日くらい顔を出すつもりだったのだ。あの日までは……。
一人で車窓を流れる景色をぼんやりと眺めていると、涙が頬を伝わっていた。
周囲に気付かれないように、そっとハンカチで涙を拭う。
全てを親に話すつもりは全く無い。
だが、この前のように気が付くと「離婚」を口にしていたように、いつ何を言ってしまうか自分でも分からない……それが今の加奈子だった。
⦅そういえば……あの人は私を求めたことは無かったのかもしれないわ。
初めての口づけも、何もかも……友達とは違っていたわ。
皆、『遅いのでは?』と言っていたわ。
本当は嫌だったのね。
嫌だけれども、結婚しないといけないから我慢したの?
私は好きだったのよ。大好きだったのよ。
嫌いと同じよね。女性を抱けないんだから……。
私のこと…嫌だったのよね。無理したのよね。
もう終わりね。無理だわ。一緒には居られない。
唯は……唯は、私が育てるわ。
貴方は……いつか恋人が出来るわ。
男の恋人が……それを娘に見せたくないわ。 見せられないわ。
唯が、唯が悩むわ。今の私とは違う意味で……。
男の人しか愛せない父親なのに無理して子どもを持った。
そう唯に思わせたくないのよ。
嘘でも、愛し愛された夫婦から産まれたと…
唯には…そう思って欲しい。⦆
電車の揺れは乳児にとって程よい揺れだとかいう。
この揺れは乳児だった唯を夢の中へと誘ってくれた……そんな幸せだった頃を思い出しながら電車の揺れに身を委ねて加奈子は視線を車窓から手の指輪に移していた。
そっと指輪を外した。
そして、ハンカチで指輪を包んだ。
気持ちは決まったのである。
加奈子は前を意識して見た。
これからは前だけを見て生きるために……。
加奈子の実家がある駅名がアナウンスされて、加奈子は立ち上がりドアの前に立った。
実家で全てを話してしまっても、もう後悔しないでおこう!と決意したのだ。
章一への「離婚」を告げた後に訪れた後悔の波。
もうその波に翻弄されないと決めたのだった。
実家がある駅に着き、駅を出ると懐かしい思い出が蘇って来た。
章一が結婚の挨拶に来てくれた時のこと、大きなお腹で会った実家の祖父母と父母の顔。
産まれた唯を連れて章一と訪れた日のこと、唯が初めて「おおじぃじ。」と呼んだ日の嬉しそうだった祖父の顔。
次々と想い出が押し寄せて来た。
「あぁ……幸せだったんだなぁ……。
私……幸せだったんだわ。」
流れ落ちる涙を拭くこともせずに歩き続けて実家に着いた時、涙で濡れた頬を見た加奈子の両親は心配した。
「どうしたんだ?」
「何があったの?」
「加奈子!」
「加奈ちゃん、入って座って。」
「お…おばあちゃん……お父さん……お母さん。
ごめんなさい。ごめん……な……さい。」
両親に抱きかかえられるようにして、加奈子は居間の掘り炬燵の所で座った。
涙声だったが、加奈子は何があったのかを話した。
そして、離婚したいのだと話したのだ。
「男の人が…好き…だったの?」
「今も…好きなのよ。あの人……。」
「今もって……今も居るってことなの?」
「分からないわ。居るかどうかなんて、分からないの。」
「どうしようもなかったのか……。」
「お父さん?」
「聞いたことがある。女性を愛せない男性が、世間体の為に結婚するのだと…。
聞いたことはあるけれども、それが自分の娘。
それを想像したこともない。」
「ごめんなさい。お父さん。」
「お前は謝らなくていい。何も悪いことをしていないんだから!
章一君だよ。原因は……。
ただ、彼も犠牲者かもしれない……でも…親としては許せない!」
「……よっこらせ。」
「おばあちゃん? どうしたんですか?」
「布団、敷いて…と…。」
「布団でしたら、私が敷きます。」
「いいや、お母さんに敷いて貰うのは……
ほら、加奈ちゃんの傍に居てあげて、ね。
それに私も布団くらい敷けますよ。」
「お義母さん。」
「おばあちゃん……。」
「加奈ちゃん、ここは加奈ちゃんの実家。
我儘言って甘えてね。」
「おばあちゃん、ありがとう。」
「加奈子、離婚した後のことは考えてるか?」
「生活を維持できるような仕事に就くまでは離婚しないでおこうと思うの。
仕事が見つかったら、離婚したいの。
仕事もないのに唯を育てられないから……。」
「加奈子、こっちに帰ってきたら?」
「でも……。それは……。」
「こっちに帰って来てもいいのよね。お父さん。」
「勿論だ。寧ろ、帰って来なさい!
こっちで仕事を探しなさい。
こっちで探すなら、もういつでも離婚していいんだ。
待つ必要はない。」
「唯が……唯が…大好きなの。パパのこと……。」
「離婚してもパパはパパだ。ママはママだ。
ただ、一緒に暮らしていないだけなんだ。
それを伝え続けるしかないと思うよ。」
「仮面みたいな夫婦なのに、やっていかれるの?
いつか感じるかもしれないわ。唯ちゃん……。
第一、加奈子、貴女、笑えてる?
心から笑えてるの?」
「戻って来なさい。出来るだけ早く。
そして、唯ちゃんをこっちの小学校に転校させて、
お前は仕事を探しなさい。」
「加奈子、お母さんから話してみようか?
あちらのご両親に……。」
「いや、それは僕からがいいだろう。
こういう時は父親の出番だよ。」
「お父さん、お母さん、私、自分で進めます。
でないと、母親じゃないもの。
子どもだもの。」
「子どもだよ。いつまでも親にとってはね。」
「そうよ。私たち夫婦の子どもよ。加奈子は…。」
「加奈ちゃん、もう疲れたでしょう。
今日は早く横になって。」
「おばあちゃん。」
「もうお布団は敷いてるからね。」
「お母さん! 敷いてくれたんですか? 加奈子の布団。」
「それくらいは出来ますよ。年寄りでも……。」
「おばあちゃん、ありがとう。」
「眠れなかったでしょう。きっと……。
今日はゆっくり眠れなくても身体を横にするだけでもいいからね。
身体を休めてね。そして、前を向くことが出来たらいいわね。」
「おばあちゃん。ありがとう。」
「さぁ、もう寝なさい。」
「はい。おやすみなさい。
あ!……忘れるとこだったわ。」
「何が?」
「おじいちゃん! お仏壇にまだ手を合わせてなかった。」
「僕も忘れてたよ。あはは……。」
「優しいいい子に育ててくれてありがとうね。幸子さん。」
「お義母さん……。」
祖父に手を合わせて報告した。
⦅おじいちゃん、あんなに喜んでくれたのに……ごめんね。
加奈子は離婚します。
理由は、聞いてたよね。おじいちゃん……。
これから先、加奈子と唯を見守って下さい。
頑張りますから……。⦆
祖母が敷いてくれた布団に身体を預けたら、実家の匂いが……仏間からのお線香の匂いが身体も心もゆっくり眠らせてくれそうだった。
寝付くのに時間は掛かったが、久し振りに加奈子はゆっくり眠れたのだった。