お盆の前
窓の外で一瞬光った。
次の瞬間、稲光と共に雷鳴が轟いた。
夏の夕方に多い夕立。
夕立の雨が降り注ぐ外を会社の窓から章一は眺めていた。
雷鳴が鳴り響き、滝のような雨が降り注いでいる。
「雨が上がったら帰ろうか……。
蒸し暑かったけど、この夕立のお陰で少し涼しくなるなぁ…。」
「そうだな。」
同僚と話しながら、章一は帰るのが嫌だった。
帰ってからの加奈子との時間が苦痛だった。
⦅加奈子と何を話すのか? 話すことなど…もう何もない。話したんだから……。もう何を求められても無理だ。だから、俺は帰りたくないんだ。⦆と章一は思った。
滝のような雨が小雨になり、雷鳴も轟かなくなった。
同僚が「やっと止みそうだな。」と言って笑顔を向けた。
同僚と会社を出て、駅舎で「じゃあな。」と言って同僚と別れた。
重い足取りで家に帰り続ける。
⦅思えば結婚当初から辛かった。
愛する人は別れるしかなかった彼なのに、「好きな振り」をして加奈子と結婚し
たのだから……。
それでも、加奈子との日々は嘘でなかった。
一緒に暮らしているうちに家族になれた。
唯が産まれて来てくれてからは、もう無理をしなくていいと思った。
だから、加奈子には触れなくても……役目を果たしたのだから責められないと思
っていた。⦆
章一は今もまだ加奈子の心の傷を理解していなかった。
理解できなかったのだ。
章一は⦅世間体や親の為に無理して結婚したのだから、被害者は俺なのだ!⦆とずっと思っていたのだ。
その気持ちで暮らした結婚生活だった。
それでも、唯の誕生は心から嬉しかった。
こんなに嬉しいことだとは思わなかったのだ。
子どもの存在がどんなに章一を癒してくれたことか……。
家に帰る足取りは軽くなっていた。
唯の笑顔が、足取りを軽くしていた。
章一は⦅唯に会うために帰っているようなものなのかもしれないな。前からずっと……。⦆と唯の笑顔を「パパ、お帰りなさい。」という声を思い浮かべた。
それだけで笑みがこぼれてしまう。
⦅帰宅したら、嫌でも加奈子と向き合って話さないといけない。お盆の帰省について……話し合わねばならない。⦆と章一は思った。
それが苦しかったのだ。
いつもよりも早く家の前に立った章一は、鍵を開けようとした。
鍵を開けることは章一にとって結婚当初より勇気が必要だったのだ。
「何年経っても勇気が要るなんてな。」と呟いてから大きく息を吐いて章一は鍵を開けた。
早い帰宅に驚き喜んだのは唯だった。
「ただいま。」
「パパぁ~~! パパ、お帰りぃ~。」
「唯、お帰りなさい、でしょう。」
「お帰りなさい。パパ!」
抱きついた唯を抱き上げて頬擦りした。
唯はキャッキャッと喜びながら……「パパ、お髭、痛いよぉ~。」と笑っている。
章一は娘の愛らしさに、その瞬間全てを忘れていた。
その父と娘の姿を複雑な想いで妻・加奈子が見ているとは気付かずに……。
「唯、パパは今から晩御飯だからね。」
「パパ、リビングまで抱っこしててね。」
「唯、もう小学生でしょう?」
「お姫様の仰せの通りに! ……ママ、いいだろう。」
「どうぞ……お好きに……。」⦅聞こえてないわよね。唯に……。⦆
「うわぁ~~い。パパ、お姫様って……ママ、私お姫様!」
「そうね。唯はお姫様よ。パパとママにとって……
たった一人のお姫様……。」
章一が夕食を摂っている間に、唯は加奈子と入浴している。
急いでいたのか、唯は凄く早く浴室から出て来た。
髪を拭いただけで……髪は濡れていた。
パジャマも着ながらリビングダイニングにやって来たようだった。
唯はダイニングテーブルで食事をゆっくり摂っている章一の膝に座りたがった。
「唯、パパは食べているでしょう。
ゆっくり食べないと体に悪いの。
だから、パパが食べ終わるまで待っていなさい。」
「ええ~~っ。」
「唯、パパが病気になったら嫌でしょう。」
「病気になったらパパ、家に居るね。」
「唯?」
「パパと一緒に夏休みだね。」
「唯! パパが元気で働いて……
パパが元気で会社に行ってお仕事、頑張ってくれているから
唯はご飯を食べられるのよ。」
「でも、パパ、お仕事忙しくて遊んでくれないもん。」
「唯、パパがお熱で苦しいよぉ~って言ってても病気になって欲しいの?」
「お熱……。」
「パパがお腹が痛いよぉ~って言っても病気になって欲しい?」
「嫌っ!」
「じゃあ、我儘を言わないで、ソファーで待ちましょうね。」
「唯、食べ終わったら何をして遊ぶか考えておいて。」
「うん! パパ、お約束よ。」
「うん。」
唯の可愛い子指が差し出されて、章一と指切りげんまんを歌った。
章一は思った。
⦅唯が俺に居場所を与えてくれた。
唯が俺のたったひとつの宝物だ。
壊したくない。壊したらいけない俺の宝物。⦆
加奈子は父と娘の姿を苦しい想いで見つめていた。
⦅離婚したら、唯を苦しめるの?
私が唯を苦しめるの?
唯から父親を奪うの?
どうしたらいいの?
私はもう無理なのに………。⦆
唯は久し振りに遊んで貰えた嬉しさだけではなく、父から離れたくない気持ちで父の傍から離れなかった。
唯を寝かしつけたのは章一だった。
寝かしつけた後、入浴してリビングのソファーに腰を下ろした章一の目の前に加奈子がビールを差し出す。
いつもの夫婦だった。
章一は加奈子が注いでくれたビールを一口飲み、勇気を振り絞ってお盆のことを話した。
「お盆……。」
「うん、母さんがね。いつ来るのか?って……。」
「……ごめんなさい。今年は行けないわ。」
「どうして?」
「今年は祖父の新盆だから……。」
「あっ……そうか……おじいさんの……仕方ないよな。
じゃあ、今年はお前の実家に……。」
「私一人で行くわ。」
「それは……非常識だと思うから、俺も唯も、家族で行こう。」
「いいえ、貴方は唯と貴方のご実家に行って下さい。
私の実家には私一人で行きますから……。」
「それは……お義父さん、お義母さんがどう思われるか……。」
「もう、そのように話しています。お気遣いなく……。」
「……加奈子、どうして敬語なの?」
「……もう分かりましたので……。」
「何が?」
「貴方には永遠に愛されない紙の上だけの妻だと……。」
「……加奈子……。」
「だから、私に経済力が付くまで、お世話になります。」
「……どういうこと?」
「私に経済力が付いたら………離婚……それがお互いの為だと…思います。」
「………今、なんて言った?」
「離婚を………。」
「離婚!」
離婚と言う言葉を出した加奈子自身が驚いていた。
今はまだ「離婚」は無理だと思っていたからだ。
それでも、夫に「離婚」を告げたのは、「離婚してスッキリしたい」思いからだったのかもしれない。