旅館・泡沫
和都歴1124年 12月1日 午後4時
山頂に近い、蓮次の学び舎たる小屋があったこのロープウェイの駅で、私は風を感じていた。
冬に入るその風は冷たく、私の身体の体温を奪っていく。蓮次らもこの風に煽られながら、抱きしめ合い、身体を温めていたのだろうか。
山照の像を眺めながら、私は彼のその後を考える。
彼は、私の親友と恋に落ちたのだろう。いや、そもそも好きだったのは彼女の方かもしれない。
私の心に残る彼の良心は、次第に薄くなっていく。
私は理解し始めていた。彼への執着が、私の人生を曇らせているということが。
ロープウェイの券売所へ戻る途中に、駅の掲示板に目が留まる。
❝温泉・泡沫❞
どうやら簡易的に入れる温泉らしい。
この山にも西側には温泉が湧いていて、名所の1つになっているらしい。
ロープウェイで下まで降りて、再び車に乗ると、私は泡沫なる温泉へと車を走らせた。
森の小道を入っていくと、丘の様な場所を上り詰め、その温泉はあった。
その昔は旅館が立ち並び、置田村でも有数の繁華街だったこの場所も、今はこの温泉施設以外は鬱蒼とした森が支配していた。
しかし、温泉だけは太古より湧き出ていて、その位置も温度も変化しない。その存在を確たるものと誇示するかのようだった。
折角の温泉に、私は手作りであろう募金箱にお金を入れて、脱衣所へ入る。
脱衣所のテレビは一際五月蠅く、温泉に響き渡っている。
一応男女の仕切りはあるものの、温泉は露天風呂で、外からは丸見えだったが、私は温泉へ身体を浸し、目を閉じて、その疲れと寒さを取った。
一呼吸後、目を開けると、温泉の縁に石碑があった。
急いで近寄り、私はその文字を読み始めた。
>ここから祖柄樫山を変えるのだ。
私は祖柄樫山の番人。都より文明開化という体裁で、この山を開拓し、金で都と流通をすることが、如何にこの山への冒涜か。
しかし、それを拒絶していても都の風習と、俗な文明とやらが、いつかはこの山を支配し、子孫たちもその多くは信仰心も道徳も忘れてしまうだろう。
文明。それは確かに利便に優れ、社会を繫栄させるだろう。
しかし、それに呑み込まれる人間が多数いることも確か。その人間はケダモノとなり、初心を忘れてしまうだろう。
そんな低俗な輩へと変貌する村人たちよ。ならば私が槌を落とそう。
私は祖柄樫山の番人。
太古よりその宿命を受け、この山を守ってきた。
狼とともに、この自然を守ってきたのだ。
文明とやらが支配するならば、狼もまた、姿を変えてバランスを保とう。
それが番人としての務めなのだから。
ー山には蓮次らのような、都の風習と文化を望まない土着の民が居たという事だろうか。
何事も古き風習と、それを壊し、改革する派閥に分かれるものだが。
私も彼との付き合いは親に反対されていた。
当時、子供の幸せな付き合いを、なぜ素直に認めないのかと理解できなかった。
親もこの番人と同じ思いだったのかもしれない。
いや、今ならそうであっても納得できる。そう、私はこの祖柄樫山の数多の人間にこの想いを打ち明けた。そして答えを出してくれたのだ。
愛憎に呑み込まれ、低俗な人間へと変貌してはいけない。私はその愛欲にケジメをつけて、心に調和とバランスを取り戻す。
私もまた、数多の魂の1つになるために。
次回2025/3/14(金) 18:00~「寺院」を配信予定です。