3.reunion - 3
扉を開いた少年は絢爛な部屋を目の当たりにして、一つ息をついた。
気持ちが体中に流れる血に混ざり、巡るたびに希釈されて、心の音が耳から遠ざかったことで我に返る思いを自覚した。
閉じた扉の反対側は白光に照らされた大舞台。
今僕は、あの場で剣を振るってきたのだと理解したところで、全身に疲労感が伸しかかった。
戻ってきたここは、仮面舞踏会の主役に用意された控え室。
豪華な造りなのは主催からの持て成しか、それとも威光の具現化か。
人は誰もいない、少年一人だけ。
握っていた得物は既に指輪に戻っていて、衣装はそのまま。
額から頬に首筋にと伝った汗は、彼の疲れを示すには充分で、部屋を一瞥する瞳に関心の二文字は無い。
彼は一見すると入場したときと変わらない薄さはあるが、同色かと問われるときっと違う。
「……帰ろう」
ふと少年の視界に入った冷蔵庫。
中身は考えるまでもなくドリンクや軽食、嗜好品の類があるとは分かっていても、彼には足を向ける気力すらなかった。
いち早くここから立ち去りたい。
そう逸る心は、一面に広がる贅沢さに鬱陶しさすら覚えて、今すぐにと出口に向けて背中を押していく。
だから向かおうとしていた出口が開かれたとき、少年は不快感を露にした。
人の影を見るや否や目をそばめて、でも視界の端に触れた青の髪が、少年の意識を掴み、正面へと向き直らせる。
「待ちなさい、ノエル」
花のような紫色の瞳が、息を切らせる一人の少女を──私を捉えた。
付けているべき仮面はない。夜空のカクテルドレスが飾る肢体は、少年より小柄で細く、触れれば簡単に手折れてしまいそう。
そして涙を溜めて焦る表情は、置いていかれた幼い少女そのもので……
そんないつかの自分を見ている少年を前に、私は口を強く結び進みだした。
「えっと……」
「どこへ行くつもりなのかは知らないけど、もう離さない」
上階からここまで走ってきた。
控え室の管理者に無理を言って入ったから、その時の緊張がまだ残っている。
でも脈打つ心は更にペースを上げていた。
あの日、手を離してしまった少年がここにいる。
十年も欠けていた心の空白、それが手を伸ばせば届くところにある。
「聞きたいことも、言いたいことも。いっぱいある」
ならどうする?
手を伸ばす、手を掴む、腕を取る。
それだけでは足りないんだ。
それだけでは、私の赤い情動は収まらない。
もう、この胸の痛みは広がりすぎた。
「だからノエル──」
少年の襟を掴み、彼の顔を私の近くにまで引き寄せる。
私はつま先を立たせて顔を上げ、少年は引っ張られて顔を下げた。
額が、鼻先が、唇が。触れそうで、まだ開きがあって。
お互いに寄ったようで、まだ一歩踏み出せていないようで。
この溝は十年の隙間。
あの日に見た流星の空と同じ、近くて遠い黒の空。
「ごめんなさい。僕たち、どこかでお会いしましたか?」
「……っ!」
理解が及ばす、とぼけた顔をする彼に続く言葉は塞がれる。
溜まっていた目じりの涙がツゥーっと一筋、私の頬に流れ星を描いた。
声が出なかった。心も頭も真っ白になって、指先が震え彼の襟から手が離れて。
顔を伏せるしかなくて。
潰された無数の言葉たちが飲み込めない。
「あの、すみません。いま僕、疲れていて。うまく思い出せなくて」
愛想笑いを浮かべる少年に反応して、口に含んだままの言葉が毒気を増していく。
咀嚼もままならず、吐くことも許されない。
飲み込めない、吞み込みたくない。
だからこの味が分かってしまった。
目を背けていたのに、嫌でも意味を知ってしまう。
彼と手を繋いでいたのは、もう十年も前のことだって。
「だからその。後で落ち着いて話をしませんか」
「──いえ、その必要はありません」
折角の彼からの提案だけれども、私は顔を上げて微笑み、その案を断ち切った。
「私の思い違いでした。貴方様が私の旧友に似ていたもので、ついここまで押し入ってしまいました。私事に巻き込んでしまい、申し訳ありません。ですのでご提案はありがたく存じますが、ご不要です。……重ねて、申し訳ございません」
「そう、ですか。勘違いというやつですね」
「はい。私の知る者とは似ても似つかない。そう気づくのに遅れてしまい、恥じるばかりです」
指を揃えて頭を下げ、涙を拭い笑みの仮面を取り付ける。
あの苦手な大人たちの真似っ子で、その場しのぎの取り繕い。
これで良いんだって言い聞かせて、震える心に平手を打つ。
「ではお急ぎのご様子でしたので、私はここで失礼いたします。私事に貴重なお時間を割かせてしまい、誠に申し訳ありません。お詫びは後ほど何かの形で」
「そんな。そこまでの事じゃないです」
少年にだって疑問はあるはず。
なのに去ろうとしている私の背中を見送り、多くを聞こうとしない彼が、今はどんな顔をしているのかもう見れない。
「それでは。今後のご活躍をお祈りしております、ノエル様」
振り向かないままツラツラと音を並べて、ドアノブに手をかける。
それは鉄塊のように重かった。ううん、私の手が羽根みたいに軽いのかな。
足元は泥だらけで滑りやすく、ドアから吹く触れない空気は向かい風。
でも進まないといけないんだ。
進まないと、もうすぐ仮面が濡れて剥がれてしまうから。
「──……もしかして、ユノ?」
なのにどうして。
一歩を踏み出す力を込めた途端に、聞き馴染んだ声が私の空いた手を握り締めてきた。
「ユノなんだよね。たぶん」
二回目。両の手で再び疼き始めた胸の傷を押さえる。
声は逃がさないとそっと肩を掴み、私の頬は血の気を取り戻していく。
「聞こえてる? ユノ」
三回目。声は頬をするりと撫でた。
優しく仮面は外されて、口角を上げる悪戯までしてくる。
「ユノ──」
「……もう、何度も呼ばないでよ。このバカノエル!」
四回目。
少年の声が顔を振り向かせようとする力に逆らわず、それどころか勢いに乗せて踵を返し、涙でぬかるんでいた筈の足場を力強く踏んでいく。
一歩に二歩、三歩と四歩。
拭っても消えない涙が伝う。熱が冷めない笑みが口に張り付く。霞んでいるのにハッキリと彼が見える。離れていたのに、もうすぐそこ。
「何もかも遅いのよ、このバカ。気づくのも、私のところに来るのも」
やっと見ることができた。
淡々とした英雄でも、愛想だけの他人でもない。
私の知っているヒーローを。
十年前。私と同じくできた額の傷を押さえながら、自信なさ気に笑っているノエルの顔を。
抱き締めて、見上げて。間近になってようやく実感できた。
「ごめん。だって昔と違って、とても綺麗になってたからさ。気づけなかった」
「何それ。私は変わってても分かったんだから、アンタも分かりなさいよ」
「そんなに変わった?」
背も伸びてカッコよくなった。
そう言いかけるも喉に詰まって、思わず顔が赤くなってしまうも、ポンと髪に手が置かれると、不思議と口元が緩んでしまう。
いつまでもこうしていたい。
そんなフワフワとした気持ちが溢れてくるが、一度目を伏せ、浮ついた心に抗いつつ言葉を変えた。
「背、だけね。他は何も変わってない」
「そうかな。なら良かったかも」
「……バカ。そこは変わってて良いのに」
ノエルの察しの悪さは昔から。
きっと彼は私のことを同い年の姉と思ったままで、緊張感のない笑いは異性と見られていない証拠にも見えてしまう。
だから少しだけ苛立って腕の力を強めるも、外見からは分からない、意外もある筋肉が受け止めてくれた。
「えっと、ユノ。怒ってる? そうだよね。怒ってるよね」
「怒ってない。全然、怒ってない」
それなら遠慮をせず、思いっきり抱き締めよう。
それこそ十年分。今までの隔たりを縮めるために。
「嬉しいことぐらい、分かりなさい」
大きくなって帰ってきたヒーローに、私は十も下の少女のように。
彼の腕の中で、怒って笑って泣きついて。
涙が止まるまで抱き着いていた。