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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

私がいなくなっても、あなたが幸せを見つけられますように

作者: 草原

 ファスティナは昔から他のみんなよりも体が弱かった。

 少し運動すれば咳はでるし、頭痛も目眩も起きて、酷いと熱も上がって寝込んでしまう。

 一度熱を出すと大抵何日も熱が下がらず、そのせいでまた体の体力が落ちて弱っていくのだ。

 そして、胸が異様に痛くなる時は最悪だった。


 貴族の女というものは、跡継ぎを産むことが何よりも大切な仕事で、そういうのが望めないだろうと両親にもお医者様にもよく悲しそうに言われたのを覚えている。


 丈夫な体に産んであげられなくてごめんね。


 このままではどれだけ生きれるか…。


 幸せな家庭や子供は望めないかもしれません。


 そんな言葉を投げかけられる度、ファスティナは申し訳ない気持ちになるし、同時に面倒な気持ちになった。


 心配される事、罪悪感を持たれる事は心労をかけているようで申し訳なく、何度も変えられない事実を忘れないように口にする無神経、後ろ向きな事しか言わない彼らを面倒だと思う。


 そりゃあファスティナは体が弱い。

 でもゆったりと安静に暮らしていれば大きな問題は無いし、私は幸せな結婚や子供をとっくの昔に諦めたのだ。



 □



 ある日、友人のお茶会に顔を出して寛いでいると、トパリがぱっと顔を赤くして声を上げた。


「そういえば、龍王国の使者様のお話聞いた?」

「あ、聞いたわ! 何でもとある目的で遥々来られたとか!」

「そうそう、それでその方がとっても…」


 きゃあ、と恥ずかしげに扇子で口元を隠して、可愛らしく微笑むトパリを見る。元気な彼女はそういった話題に明るく、そしてもう一人の友人であるアメリアは夢見がちな部分がある。

 ファスティナは全くその話を知らなかったが、二人はよく知っているらしかった。


 龍王国というのはこの大陸の端にある山に作られた国で、大きな体と翼を持つ龍と、龍と人の特徴を持つ龍人の住む国らしい。

 特に排他的では無いものの、その地形の悪さから人間が住むには不便で殆どその実態は知られていない。


「見たのね…! ど、どうでした?」


 そして彼女らが興奮する理由のひとつが、龍人はとても見目麗しいという事だった。


 ごくり、と唾を飲み込んで顔を近づけるアメリアに、トパリは秘密の話をするようにこそりと口を開いた。


「噂通りだったわ…。とんでもないご尊顔、絶対貴方の好みよ!」

「はわわ…! 私も見てみたいわ…どこかでお会いできる機会が無いかしら…」


 ちら、とアメリアはファスティナを見る。


 その視線を見つめて、ファスティナは紅茶をゆっくりと手に取った。

 ファスティナの家はつまるところ公爵家という格式高い名家で、ファスティナはその長女。兄がいるので跡継ぎでは無いが、それでも待遇はいい。

 その使者という人が来る式典等にも、多分ファスティナは招待されているのだろう。全く行く気は無かったので記憶には無かったが、彼女の頼みなら少しくらい腰を上げてもいい。


「いいわ。でもきっと一人だけよ?」


 格式高い場では同伴が許されない事もあるが、今回はそうでも無いだろう。おそらくファスティナであれば侍女、護衛に加えて一人なら同行できるだろうという算段だった。


 ばっと二人が目を合わせて、まだ使者を見たことの無いアメリアが頷いた。


「お願いしてもいいかしら?」

「ええ、でもそれじゃあ…あの本をお願いしてもいい?」

「もちろん! 後日家に送らせるわね」


 お礼の品を催促すれば心得たように笑って了承する。

 ファスティナも嬉しくなって、今日のお茶会は来てよかったと息を吐いた。



 さて、その龍王国の使者とやらの相見える日だ。

 体調は良くもなく悪くもなく、しかしまあ少し動く程度であれば問題は無い。

 アメリアも緊張はしているもののそれは使者様に会う緊張で、式典の緊張では無い。


 この場にはファスティナの父と兄が同席しており、ファスティナとしてはおまけのような感覚だった。


 ザワザワと貴族達が難しい話や適当な噂話をするのを聞きながら、こっそりとお料理を物色する。

 龍王国に合わせたのか、見慣れない料理が多くファスティナは今日の楽しみが出来たと喜んだ。


 カン、と空気の通る音が響く。


 貴族達の声がすっと消えていき、代わりに大仰な音楽が奏でられる。

 壇上を見上げれば我がコンリィ王国の国王様が歩いてきて、その後ろに見慣れない男がチラリと見えた。


 会場中の視線を独り占めした彼は少しも緊張した様子が無く、仏頂面で国王の後ろを歩いていた。


 ふと、後ろに控えていたアメリアを見る。


 顔を赤くして瞳を揺らすその顔は紛れもなく恋の表情だったが、まあアメリアは惚れっぽい。

 邪魔をするようで悪いが、そっと手を取り耳元で囁く。


「かっこいい?」

「ええ! あの光り輝くピンクゴールドの髪! 蕩けるようなハニーブロンドの瞳! そして何よりもあの真面目そうな表情! ああ…来てよかったわ…ファスティナ、ありがとう!」


 囁きながら叫ぶ彼女に関心しながら頷いて、再度男を見上げる。

 確かに顔は整っている。見たことも無いような髪色に、捕食者を思わせる鋭い目。体型もすらっと長く、おそらく兄よりも背が高い上にバランスは大変良い。


 ふうん、と頷いて使者様を観察していると、彼はピタリと足を止めてゆっくりとその綺麗な瞳を見開いていく。


 何事か口を動かして、それまでの憮然とした態度とは一変して使者様は会場中を慌ただしく見渡した。


 彼の異変に国王様も困惑を隠せないようで、オロオロとしているのが何とも可笑しい。

 他の貴族も訝しげに、あるいは嘲りつつその様子を見ていた。


 遂に使者様は苛立たしげに壇上を降りて、そこら中を練り歩く。広い会場は端から端まで移動するだけでも大変なはずなのに、彼は少しもペースを落とさず目線と足を動かしていた。


 慌てた国王様が、笑って私達を窘めた。


「龍王国の使者殿は我が国の重鎮らを随分気に入ってくれたらしい。少しばかり彼の余興に付き合ってやってくれ」


 スケジュールとは全く違うだろうに、その後も適当に話をまとめて、私達は一足先に料理に手をつける事となった。


「美味しいわ、これ」

「ほんと! 初めて見るお料理ね?」

「龍王国のものらしいわ。お城の料理長は博識なのね」

「素敵ね! こんな時でないと楽しめないもの。ね、あれもそうかしら」


 アメリアと笑いあって、トパリに土産話をしてやろうとここぞとばかりに目新しい料理を試してみる。

 しかし私の小さい胃袋は直ぐに満腹を訴えてしまい、その気持ち悪さに後悔しつつ少しばかり外の空気を吸おうかとバルコニーを見た。


「外の風を吸ってくるわ。アメリアは?」

「私はもう少し…」


 恥ずかしげに料理を見る彼女の興味は既に使者様よりも珍しい料理にあるらしかった。

 笑ってアメリアと別れて、バルコニーへ立ち寄る。


 警備の人が一人の私を見て困ったように笑ったが、少し話せば仕方なさげに開放してくれた。


 しばらく深呼吸をして気持ちを整えていると、中が騒がしいことに気づいた。

 後ろを振り返って、警備の人を見ると、驚くべき人が警備の人と口論していた。


 口論、というよりは諭し合いのようだ。


「だから、少しここに入れてもらいたいだけで…」

「こちらは今ご令嬢がおひとりで寛いでおいでですので…。貴方様の要望でも未婚の男女をおいそれと二人きりにするには…」


 何とも真面目な警備の男だった。

 王城務めで無ければ私の護衛に欲しいくらい。


 現実逃避を自覚しつつも、まさかあの、今回の主役がここになんの用だろうかと首を捻る。

 それからガラス張りの向こうから二人の視線が私に向いて、警備の人は困ったように、使者様は驚いたようにファスティナを見つめる。


 動かない彼らに仕方なく、ファスティナが近くまで移動してバルコニーを出る。


「何か御用ですか」


 公爵の娘と言っても、使者様に勝手に話しかける訳には行かない。しかしまあ、今回は特別だろう。

 そう証言してくれるとファスティナは隣の警備の彼を信用していた。


「あ、ああ…。その、」


 言い淀む彼に首を傾げて、隣の彼を見る。

 彼もまた不思議そうに私と使者様を見つめていた。


 警備の彼から目線を外して、初めて私は会場中の視線が釘付けであることに気づく。

 そりゃあそうだ。今日の主役は彼なのだ。とても私に話しかける暇なんてない。


「御用がないのならもういいかしら? 私、友人を待たせていますので」


 話しかける気がないのならそっとしておこう、と彼の隣を通ろうとした時、がしりと腕を掴まれる。


「あ、なたの! 名前をお聞きしてもよろしいでしょうか…!」


 切羽詰まった様子で聞かれなくても、腕なんか掴まなくても彼が聞けばファスティナは教えるしかない。

 腕を掴まれたままではカーテシーなんて出来ないので、適当に簡略化して礼をした。


「ファスティナ・ラディシーアと申します」


 ファスティナ、と彼は小さく呟いて、スっと私の前に膝をつく。いつの間にか腕は離されていて、私はもう自由の身だった。


 突然片膝を着いて私を見上げる彼は真剣な表情で、ゆっくりと今度こそ丁寧に私の手を取る。

 敬愛と共に誓いを意味するキスを落として、彼はファスティナを見つめた。


「ファスティナ嬢、私と結婚してくれませんか」


 ……とんでもないことになった!




 □




 あの騒ぎは何だったのかというくらい、話はトントン拍子に進んで、ファスティナは晴れて使者様――ミクアスの婚約者となった。


 もちろんファスティナの体の話もしたし、お父様にも話は通されて、なんと国王様にまで許可をされてしまった。

 まあそりゃあ、かの国の使者様の求婚である。伝も出来るし印象も良くなるだろうし、皆大手を振ってファスティナとミクアスの婚約を祝福した。

 怒涛の展開に混乱したせいか、ファスティナは熱を出して少し寝込んだ。


「使者様は見る目があるわね! あなたがお嫁に行くのは寂しいけれど、それよりも幸せなまま家を出れそうで安心してるわ」

「す、凄くロマンチックだったわ…! 満天の星空を垂らすバルコニーを背にして、跪く美青年…」

「うん…」


 嬉しそうな二人とは裏腹に、ファスティナの気持ちは沈んだままだった。

 体のせいで将来が不安なこともあり、結婚なんて真剣に考えたこともない。好きな異性もいたこともあったが、淡い思い出だ。


 元気のないファスティナに気づいた二人が心配そうに顔を覗き込んだ。


「どうしたのよ、嬉しくないの?」

「どうして? あなたも気に入る美貌と物腰の方だったわ」

「あの人…龍王国の王子様なんですって。しかも第二王子。使者様なんて皆が言うから勘違いしてたわ」

「えっ!?」

「まあ…!」


 驚く二人に大きく頷く。

 ファスティナも最初は普通の外史だと思っていので、説明された時は本当に驚いたのだ。勿論第一王子ではないので国王にはならないそうだが、ファスティナも家は継がないので別の爵位をミクアスが貰ってそちらに嫁ぐ形になる。


「ま、まあでも王子様ならますます素敵じゃない? きっと公爵家よりも大きくて綺麗なお城で……今よりもずっといいお医者様に見てもらえるわ」

「そうだわ! 龍王国にならこっちにはない医療があるかも!」

「そう…そうね」


 確かにそれはファスティナが気づかなかった確かな利点だろう。勿論今だって父や母におざなりな医者をあてがわれている訳ではないが、世界中を探して必死に死に物狂いで探したわけでも無い。

 王族ともなれば、きっと今よりもいい医療を受けられるだろう。


「じゃあ何が嫌なの? 家族と離れる事は別にいいのよね?」


 本当に不思議そうに顔を見合わせるトパリとアメリアに、ファスティナは苦笑して言った。


「あなた達と会えないわ」


 ぱっと二人が勢いよくファスティナを向く。

 頬を赤くしてぽかん、と口を開ける顔は大変な事だが、ファスティナにはそれさえ愛おしく思えた。


 まあまあ、と扇で顔を隠してトパリがファスティナの手を握る。それをみて、アメリアもファスティナの反対の手を取った。


「手紙を書くわ。子供が落ち着いたらアメリアと旅行に行ってみてもいいのよ! 夫と子供と一緒に行ってもいいわね。龍王国だって行けないことはないのだし」

「そ、そうよね! 会えない期間にぎゅっと会いたい気持ちを溜めて、いつかそれを届けに行くわ! 龍王国の珍しい物や名物を送って? 私もあなたの大好きな本を送るわ!」


 二人の優しい言葉に、ファスティナは目頭が熱くなるのを感じた。

 取られていた手をファスティナからもぎゅっと握って三人で顔を見つめ合う。


 どんなに文句を言っても、不満でも、どうにもならないことはあるのだ。

 それをファスティナも、トパリもアメリアも知っていて、それでも二人はその範囲の中でファスティナの心を気遣ってくれる。

 ファスティナは二人を見つめて小さく大好き、と呟いた。


 トパリがぎゅっとファスティナとアメリアを一緒くたに抱きしめて、私も! と笑いあったのだ。



 □



 ミクアスの第一印象は仏頂面、堅物なイメージだったが、ファスティナと向かい合う今日の彼は随分様子が違った。ふわりと笑みを浮かべる彼は式典とはまたがらりと変わった印象を受けさせる。

 ミクアスの後ろにはファムという従者がいて、彼もまたすました顔で私を見つめていた。


「まずは、突然の婚約を受け入れてくれてありがとう。一生をかけて、君を大切にすると誓うよ」

「ええ…」

「…突然で戸惑うのも分かる。今日はそんな不安を解消するための場だ。なんでも聞いてほしい」


 にこりと柔らかな、悲しそうな顔で笑うミクアスを見上げて、ふと笑みが零れた。

 彼は私が戸惑っているというけれど、それ以上に彼のその表情には後悔と緊張が浮かんでいた。


 相変わらず綺麗な顔で、その綺麗な桃色の髪は艶やかな花のように見ている者の心を安らがせる。


 何でも聞いてほしい、と前置きをされたので、ファスティナはあの日一番気になっていたことを恐る恐る口にした。


「あの、どうして私を婚約者に? 私達、初対面だったはずよね?」

「ああ…なんといっていいのか。番、と言う言葉は知ってる?」


 聞き覚えのある言葉に、頭の中をひっくり返してなんとか思いだす。

 確か、動物図鑑を読んだ時に動物の夫婦の事を言うのだと書いてあった気がする。


「そう、あってるよ」

「ふうん、私のとあなたは婚約したのだし、まあ間違いでは無いけれど…」

「ファスティナ嬢が僕を見つけた時、初めて僕は番という存在を認知して、どうしようもなく求めた。これを僕らは運命という」


 そんなおとぎ話みたいな、と一笑してしまうのは簡単で、しかしその真剣な表情に、一抹の不安を感じて閉口する。


「じゃあ運命って、なあに?」

「難しいな…。出会った瞬間に、互いを全てに思えるらしい。そんな話を聞くよ。あくまでも一般論だけどね」


 その小難しい話に、分かったような分からないような。

 首を傾げながらも、ファスティナはミクアスの言葉に嘘があるとは思わなかった。


「あんまりよく分からないけれど、わかったわ。つまるところ私は貴方の運命の番で、貴方の全てなのね」

「間違いない」


 とろり、とミクアスのハニーブロンドの瞳が溶ける。

 見つめられ眼差しに熱っぽさを感じて、慌てて居住まいを正した。


「いいわ。私達、婚約したのだし、もっと楽しい話をしましょう。……好きな食べ物は?」

「……食事を好き嫌いで分けたことがないんだ」

「なんでも好きってこと?」

「いや、なんでも普通ってことかな」

「へえ? じゃあ食事はずっと私の好みでいいのね」

「ああ…! 勿論、食事だけでなく全てが」


 ミクアスとはそんな不思議な会話を楽しんで、一ヶ月後ファスティナは龍王国へ嫁いだ。



 □



 龍王国とコンリィ王国の交易はそこまで盛んではない。

 元々距離がある上に、龍王国は排他的な印象からどの国とも交流が薄いのだ。


 一歩も国から出たことが無かった私でなくとも、きっと龍王国に来た人間は大変珍しいだろう。

 龍の番が人間であることは珍しいのだと言う。大抵は龍同士で、あとは他の種族であったらしい。


 ミクアスに連れられて入室した部屋には、ミクアスとそっくりで、しかし髪色が全く違う男がにこやかに座っていた。


「ああ、おかえり。そしていらっしゃい。君がファスティナ嬢か」


 チラリとミクアスを見て、ファスティナをじっと見つめた彼はぱっと笑ってファスティナに手を伸ばした。

 撫でられる、と思ったがその腕は別の手に阻まれて宙で制止する。


「…触らないでくれ」

「ああ、ミクアス! やっと運命を見つけたんだなぁ!」


 打って変わってにこやかに笑った彼は素直に手を戻してバシバシとミクアスの背中を叩いた。

 この関係に、もしかして、と私にも大体の予想がついた。


「リーナスだ、よろしくな」

「あ、はい。ファスティナ・ラディシーアと申します」

「固くなるなって、俺の妹になるんだし」


 やっぱり、とファスティナは再度ミクアスとそっくりの顔を見つめた。髪色は桃色と藍色という反対色だが、瞳の色は同じハニーブロンドらしく、キラキラと視線を離さない。

 むっとしたミクアスがそっと視線を奪って、ファスティナの身体を軽々と抱き上げた。

 ファスティナは笑って首元に手を伸ばす。


「それより、もう顔は見せたんだからいいだろ? ファスティナは体が弱いんだ。早く家で休ませてやりたい」


 龍王国へ来る道中、ファスティナは二回も寝込んでしまって、そのどちらもで随分な熱を出してしまったのでミクアスは気にしているのだ。

 心配そうに、ベッドの横でファスティナの顔をのぞき込むミクアスの顔は、きっとファスティナだけの特権だった。


 細めたまぶたの先で、当の私よりも辛そうに私を見守る彼は、大層美しく儚かった。

 熱を出した時、こんなにも心配をして、手を握って、必死に看病してくれる人が居ただろうか。


 いつまでも治る気配のないファスティナの体に、先に愛想をつかしたのは、家族だった。次に、ファスティナ自身。

 責めることはない。私も同じ穴のムジナで、それでも手放されはせずに、惰性で生きている。


 ミクアスは城に着いたら国一番の医者を手配すると言っていたのだ。あまり期待はせずとも、その気持ちは嬉しかった。


 龍王国の第一王子に対してそんなでいいのかとも思ったが、リーナスもミクアスも気にしていない様なので無駄な心配だろう。

 国王はと言えば、しばらく前に妻と旅行に行ったきりで、殆どの仕事はリーナスがやっているのだという。


 ミクアスの城に着けば、従者やメイドが恭しくミクアスを迎えた。公爵家で見なれた様相ではあったものの、龍王国でも同じなのだと思うと少し面白い。


 ファスティナには新しく侍女が五人用意された。

 ミクアスは頻りにに変えたければ何時でも変えていい、なんなら自分がすると言っていたが当然笑って流した。

 悩んだが、公爵家からは一人も人を持ってこなかったのだ。


 国を離れるというのは随分な大事だし、ファスティナはともかく侍女らにはその理由がないのだ。

 ただ、子供の頃から私と一緒だった護衛と、侍女が居なくなったのは素直に寂しいのだけど。


 部屋は別れているものの、ベッドルームは同じらしく、なんとも気恥しい。


 部屋に落ち着けばすぐさま医者が現れて、準備がいい事だと笑う。

 ベッドに横になればそれまでの疲れからか、安心からか瞼が落ちる。多分この分だと熱が、出ているだろう。


「ファスティナ…」

「大丈夫よ、いつものことだし。酷い時は一ヶ月ベッドから起き上がれなかったの。それよりは随分マシでしょ?」

「……そう、だね」


 ミクアスは部屋の隅で医者にこそりと秘密の話をされて、ハッとファスティナを振り返った。

 なあに?と首を傾げるとミクアスは泣きそうな顔で、震える唇で笑った。


「なんでも」

「そう?」


 わかりやすい、嘘だらけの応酬だった。




「ファスティナ嬢…愛称を呼んでもいい?」

「いいわ。皆はあんまり呼ばないのだけど…。んー、何がいいかしら」

「僕が決めてもいい?」

「ん? ふふ、聞いてあげる」

「ずっと考えてたんだ……ティナ」


 驚きはしたものの、可愛らしい響きのそれをファスティナはすぐに気に入った。

 アメリアやトパリにも手紙で教えてやろうと考えて、ミクアスに笑う。


「素敵ね。ティナ…、可愛い」

「うん…君が可愛い」

「じゃあミクアスはどうする? 私、あんまりセンスが無いから…」

「なんでも。本当になんでもいいよ」


 ミクアスは本当に幸せそうに笑って、ファスティナの頬にキスを落とした。


「あ…」

「あ、ご、ごめん! 嫌だった…?」


 口付けられた頬を撫でて、ミクアスを見上げる。

 思わず愛しさが溢れた、といった様子でされたキスはファスティナの心を温かくさせた。


「いいの。好きよ、ミク。もっとして?」

「かっ……!」

「ミク」

「、ずるいな。…はぁ、ティナ、愛してる。僕の唯一」


 ファスティナの頬も真っ赤になって、でもそれ以上に、ミクアスの頬は赤く熱を持っていた。

 ちゅ、と可愛らしい音を響かせて、もう片方の頬にふわりと熱が落ちる。


 ファスティナはこの時、ああ、幸せかもしれないと、確かに思ったのだ。



 □




 龍王国に来て数年が経った。

 山の上にあるこの国は夏は暑く冬は寒い。

 寒暖差の激しい龍王国の気候は、ファスティナとミクアスに随分気を揉ませた。


 暖炉にはいつもいっぱいに薪を入れられるけれど、煤や煙はファスティナの体に悪い。

 夏は何時でも湖で水浴びがてきるけれど、急に冷えた体温はやっぱり体に悪かった。


 ミクアスはそれはもうお金や伝を大盤振る舞いして大陸中から名医を集めてはファスティナを見せたが、その甲斐は虚しい結果となった。

 お医者様はとても優秀らしいが、ファスティナの体は笑ってしまう位にその恩恵を取りこぼす。

 最近はもっぱら、ベッドの上でうとうとと寝ていた。


「ティナ…眠い?」

「ん…ミク、お話をして? 本を読んで欲しいの」


 眠たげに目を瞬いて、ファスティナはベッドの上でミクアスにオネダリをした。

 ミクアスは勿論快く了承して、ファスティナの本棚から一冊の本を取り出した。


 ファスティナの本好きを知って、ミクアスの城には新しくファスティナ用の本棚と、図書室が作られた。

 ファスティナは本当に喜んで、ミクアスとのデートではいつもその本棚を埋めるための本を探していたのだ。


 ミクアスは本をぱら、と開いて、目を迷わせてすぐに閉じた。


「ミク?」

「少しだけ、僕とお話をして?」

「…いいわ。なあに?」


 ファスティナはぼんやりとミクアスを見上げて、その表情が暗い事に気づく。

 落ちる視線は柔らかで暖かいのに、その拳は固く握られていた。


 ファスティナは困ったように笑って、ごそごそとシーツから手を伸ばしてその硬い拳に重ねた。

 ビクリと震えた拳はゆっくりと解れて、ファスティナの手のひらを包む。


「龍王国に連れてきた事を、ずっと後悔してた。ここは、僕にとっては住みやすいけれど、君にとってはそうじゃなかった。医者だって、こっちでなら僕の権利を行使して君を守れると思ったのに、全然駄目だ。僕は…往復することにはなるけれど、ティナのコンリィ王国でも問題なく過ごせただろう。何度も引っ越そうか悩んで……でも、いつも、できなかった」

「そう…どうして?」

「…僕の、醜い嫉妬と弱い心のせいだよ。ティナが、い、いなくなってしまうことに比べれば、僕のそんな気持ち無いも同然なのに、その時になっていつも不安になった。君が僕以外の男に目を向けたら? 君が友人と、僕の目の届かない場所に行ってしまったら? 君が……僕の知らないところで……」


 それきりミクアスは黙ってしまって、俯いた視線はファスティナを映さない。


「ミク」

「――」

「ミク、大丈夫よ。まだ、大丈夫。また来年も龍王国を案内して? まだ行けてない素敵な場所があるでしょう? 私、楽しみよ。ちゃんと、来てよかったって思ってる」

「……うん、ありがとう。っ愛してる…ティナ。ずっと、一緒だ…。ずっと」


 私なんかよりもずっと綺麗に涙を流しながら、ミクアスは私の唇にキスをした。

 触れるだけのキス。私の息を止めない、優しいキス。




 □




「ミク!」

「ティナ! やめて、走らないで!怪我でもしたらどうするの!」

「大丈夫!今日は気持ちがいいの!」


 きゃらきゃらと笑うファスティナは、昔よりも随分やんちゃになった。体が元気になった訳でも、体力が増えた訳でもない。むしろ年月が経つにつれてガタが来ている体だったが、ファスティナは前よりも明るく世界を楽しめた。

 おそらく、貴族のしがらみの少ない龍王国に来て、愛してくれる人を得て、ファスティナの心の檻が破られたのだ。

 ミクアスはそんなファスティナの姿を見る度に、心配で心が張り裂けそうになりつつ、心の底から安堵できた。


 間違っていないのだと。


「ね、この花ってなんて言うの?」

「ええっと、アメリだったかな…」

「アメリ! 素敵な名前! ああ、私の大好きな人を思い出すわ!」


 一輪摘み取って、髪に差し込めばふわりとファスティナの周りが華やいだような心地がした。

 ミクアスは若干の嫉妬を覚えながらも、それが誰なのかしっかり知っていたのでファスティナに詰め寄ったりはしない。


 過去に、既に詰め寄った事があるのだ。


「ティナ、少し落ちついて」

「ミク、可愛い?」

「ぐ…、可愛いよ…! 世界一可愛い! もう!」

「ふふ」


 木製の椅子に近づけば、ミクアスはファスティナを抱き上げて膝に座らせた。

 初めは恥ずかしかったそれも、今や当たり前の光景だ。


 未だに照れながらも、ファスティナは幸せそうにミクアスに抱きつく。


 ファスティナは、今の幸せを大切にしたかった。あと、何度見られるか分からない景色だ。例えそれが泡沫のものだとしても、幸せな記憶は無くなったりしない。


「ティナ、食べられる? 運動したし、お腹が減ったでしょう」

「…うん。ジュースでいいわ」

「ティナ…ダメだよ。ほら、これは? 花を砂糖でコーティングしたお菓子だって」


 指先で摘んだお菓子はキラキラと輝いて、あの高級な砂糖をふんだんに使った贅沢にティナは仕方なさげに笑って口を開けた。

 ミクアスが嬉しそうに口に落とせば、口の中で砂糖がじゅ、と溶けて甘みが口いっぱいに広がる。

 噛めば華やかな香りとともに、ファスティナを楽しませた。


 幸せそうなファスティナの様子に、ミクアスはほっと息を吐く。食の細いファスティナはただでさえ華奢で、儚い。

 体に合わないと吐いたり腹痛になったりするので、ファスティナの食事事情は些かデリケートだった。


「ねえ、ミク」

「ん?」

「私、この花のアクセサリーが欲しいわ。ピアスか、指輪がいいと思うの」

「勿論。今度探しに行こう。無ければティナがデザインすればいい」

「ああ…素敵ね」




 □




「ティナッ、ティナ…! 待ってて、すぐに医者を…!」

「や…! ま、……っいか、な…で…」

「っ、ティナ…いる。いるよ、大丈夫。ほら、握ってる。ミクアスはここにいる」

「…はっ、…ん」


 久しぶりの胸の痛みに熱い息を漏らして、小さく頷くファスティナに、ミクアスは無理やり笑みを浮かべた。

 すぐにファムに医者を呼びに行かせ、ミクアスはファスティナの手をぎゅっと握る。

 当初はよく失敗していた力加減も、ミクアスはすっかり上手くなった。


「大丈夫、大丈夫だ。…大丈夫だよ。すぐにお医者様が来てくれる。そしたらまた、また…」


 ああ、とミクアスはくしゃりと顔を歪ませた。

 だめだな、と頭を振って自嘲する。


 ミクアスは、自分がダメになりそうで、必死にファスティナに大丈夫だと言い聞かせているのだ。

 ファスティナがダメなのではない。ミクアスがダメなのだ。


 ミクアスは、ファスティナがいないと、全部がダメになる。


「ティナ…。ね、まだ見てない本もあるし、行ってない場所も、食べてないものもある。ほら、この前可愛いって言ってたアクセサリー、まだ届いてないよ」

「は、は…」

「ティナ…死なないで………、俺を置いて…、行かないで…」

「だ…じょうぶ。ふ…まだ、ね。だいじょうぶ、よ」

「ほんとう?」

「ええ…だいじょうぶ」


 縋るような視線を受けて、ファスティナは額に汗を滲ませながら微笑んだ。

 それが強がりな事くらいミクアスも分かっていたけれど、心臓が潰されるかのような心地はファスティナの言葉で軽くなる。それはいつもの、彼女だけが使える、おまじないだった。


 お医者様が来て、ファスティナの様子を見る。震える体を叱責して、どうにか目に移すのはミクアスの愛しい人の姿だった。

 まだ、大丈夫。

 まだ、ミクアスは、大丈夫だ。



 □




 寝たきりになったファスティナを抱き上げて歩くのは、勿論ミクアスの特権だった。

 肩口に頭を預けて、賑やかな往来も広大な自然もファスティナは何処へだって行ける。


 ミクアスはふと、ファスティナの指に指輪が無いのを見つけた。


「ティナ、指輪どうしたの?」

「ん? んん、だいじにとってあるの」

「よかった。無くしたわけじゃないんだね」

「ん」


 ふわりと、自然の風がファスティナとミクアスを吹き付ける。すん、と鼻を鳴らせばミクアスは大好きな香りを胸いっぱいに吸い込めた。幸せの香りだ。

 風はファスティナの髪を遊ばせて、ミクアスに笑顔を届けた。


「すてきね」

「んー、なにが?」

「わたしね、しあわせなみらいなんて、こないとおもってた」

「…うん」

「わたし、こんなでしょう? きっとみんな、おにもつだっておもうわ」

「ティナ…」

「ふふ、なあに?」

「愛してる。僕はティナと結婚できて、幸せだよ。いつも幸せを貰ってる。僕は、少しでも君に返せてるかな」

「あら、もちろん! すきよ、ミク。あいしてるわ」


 ファスティナは、いつかに諦めたはずの夢を見てる。


 愛されて、愛して。初めは家族から貰っていたはずのそれをいつの間にか失っていて、ファスティナもいつの間にかそれを抱えきれなくなっていた。

 トパリやアメリアとの友愛を得て何とか、すっかり成人して嫁ぎ遅れた上に金のかかる娘という居心地の悪い家を惰性で生きていたのだ。


 そんな自分を救ってくれたミクアスを、ファスティナは確かに愛していた。

 ミクアス程の熱があるかは分からない。ファスティナから見てもミクアスのそれは酷く深く、残酷で、温かいから。でも、だからこそ、そこに不安を感じるのも確かだった。


「ねえ、でもね」


 ぽつりと、ファスティナの顔に影が落ちる。

 目ざとく見つけたミクアスはファスティナの頬にキスをして、唇を奪った。優しく、縋るように。


「あなたをひとりのこしていくのが、しんぱいだわ」

「ティナ…! やめて、やめてくれ…」


 子供は望めなかった。昔から分かっていたことだ。それまではそれでいいと思っていた、女としての在り方のひとつを、ファスティナは最近になって羨ましく思っていた。

 育てたいわけでは無い。子供が欲しいわけでも、後継が欲しいわけでもなかった。


 ただ、ミクアスのために、何か大事なものを残せたらと思ったのだ。

 しかしそれも、無意味な願いだ。


「ばかね。どうしようもないことって、このせかいにはあるのよ。…リーナスにきいたわ」


 ビクリと、ミクアスの肩が震えた。

 気まずげな様子で、子供が親に叱られる時のようにバツが悪そうに笑っている。


「あっ…、あ、アイツ…」

「すきよ、ミク。だからおねがい」

「、だめだ…。むりだよ…むりなんだ……ティナ」


 つう、とミクアスの頬に透明の線が走る。

 ファスティナはそれをそっと唇で救い上げて、笑った。


「たんじょうびおめでとう、ミクアス。わたしのことがだいすきなあなたにひとつ、ひみつをあげる」

「ひ、みつ…?」

「わたしがたびだったら、リーナスにきいてごらんなさい。わたしのひみつをおしえてって」


 ぎゅ、とミクアスがファスティナを抱きしめる。

 苦しくはない。そのはずなのに、ファスティナは胸がいっぱいで、心が痛くて、涙が頬を伝った。



 □



 ぼう、とミクアスは火を見つめていた。

 はらはらと流れる涙を止めるすべは見つからず、立ち上がる気力すらない。

 ミクアスの全てが、枯渇していた。


 炎の中に、ファスティナの影を見つける。

 思わず手を伸ばして、リーナスに止められた。


 ファスティナが逝ってしまった。


 あんなにも好きだったのに。

 僕の全てだったのに。

 君が生きてくれるなら、僕のなんだって差し出せたのに。


 僕の幸い。僕の心。僕の愛。僕の苦楽。僕の恐怖。僕の唯一。


 君は、僕の人生そのものだったのに。



 何か、やり残したことは無かっただろうか。

 もっと甘やかしてやればよかった。

 食べたいもの、行きたい場所、着たい服、読みたい本。


 ファスティナのことを考えると幸せで、それなのに隣には肝心のファスティナがいない。

 ミク、と優しく呼ぶ声も。

 すきよ、とイタズラのように可愛く囁く声も。

 頬や唇に落ちるふわりと柔らかい熱も。

 幸せそうに細めるキラキラと綺麗な瞳も。

 抱きしめると柔らかい、温もりを与えてくれる体も。


 全部なくなってしまった。


 ミクアスは知っていたのに。

 人間と龍人の寿命は大きく違って、それでなくてもファスティナは体が弱かった。人間との番で障壁となったのは、寿命と、体のつくりの違い。

 ミクアスは平気だった温暖差も、ファスティナには牙をむいた。いつかファスティナに言ったように、いつまでも後悔を抱え込むのならコンリィ王国に住んでみればよかった。


 ミクアスは仕事や立場の関係上どうしても龍王国に必要で、長く国を離れるわけにはいかない。

 それでもきっと、ファスティナの為に出来ることがあったのなら、してやればよかったと思うのだ。


 幸せな生活の傍らにはいつも闇が存在していた。

 ファスティナの言葉を借りれば、それはきっとどうしようもないことだったのだけれど、ミクアスはそれを簡単に飲み込む訳にはいかない。


 パチ、と火が爆ぜて目の前を一等明るく照らす。

 それがなんだか、ファスティナに怒られている気がしてふと、意識が戻った。怠慢な頭で、リーナスにお願いしていたことを実行しようと、立ち上がる。


 いつの間にか葬儀は終えたらしく、周囲に人はいない。

 月明りのみが道を照らす夜の闇を、ミクアスはファスティナの入った小さな箱を持ってゆっくりと歩く。


 そういえば、ファスティナと初めて出会った時も、星が綺麗だった。



 リーナスと顔を見合わせれば、彼は眉を下げて、ため息を吐く。


「俺には何も言えないけどよお、ひっでぇ顔」

「…」

「ミクアス。お前がどんなに変わっても、俺はお前を愛してるし、生きて欲しいと願っているよ」

「リーナス、約束を」


 リーナスが目を眇めて、ミクアスを睨みつける。


「お前、ファスティナには聞いてないのか」

「ティナから…?」

「…ひみつ、知りたくないのか」

「あ、」


 ぱっと、目の前に光が見えた。

 相変わらず体は重く、苦しいし、心臓に重しを付けられたように息がしづらい。


 でも、ミクアスはファスティナの残してくれたものを、勝手に捨てたりは出来なかった。受け取らないなんて、出来なかった。


「ティナの、ひみつ」

「ああ、聞いてるんだな」

「な、なに?」

「これ」


 リーナスがぺらりと渡したのは、一枚の手紙だった。



 □




 愛するミクアスへ


 突然手紙なんて渡されて驚いたかしら。

 未来のミクの為に、手紙を書くことにしたの。

 きっとこの手紙を呼んでいるときには側に私はいなくて、きっと誰かから受け取ったのだろうから。その為の手紙とはいえ、あなたの反応が見られないのが残念だわ。


 まずは結婚してくれて、ありがとう。

 あの日あなたが私を見つけてくれて、私があなたを見つけられて、本当によかったと思う。

 今の私は前よりも随分幸せ。きっと未来の私もね。


 親友もいないし、見知った街並みも思い出もないけれど、ここに来てよかったってそう思うわ。

 不思議かしら。でも、あなたの前ではいつも私は幸せそうだったろうから、そうでもないかも。


 あなたの眼差しが好き。鋭い視線の中が私を見た途端にとろけるように愛を伝えるから。

 あなたの指が好き。そっと髪をすくって、頬を優しく撫でるのが心地良いから。

 あなたの笑顔が好き。私が幸せだとあなたが微笑んで、幸せが倍に増えたような心地がするから。

 あなたの唇が好き。熱くてふわりとした愛と、優しさを一瞬でたくさん感じられるから。



 ミクは優しいし、私を愛してくれてるとあなたの全部で私に伝えてくれる。

 それが本当に嬉しくて、私もあなたに少しでも返したいって思うのよ。


 ミクが結婚してくれて、愛してくれて、愛し方を教えてくれたのね。

 すきよ、ミク。きっとあなたも、私のことが大好きでしょうけれど。


 此処に来て何よりも嬉しかったのは運動が出来ること!

 家ではずっと部屋にこもりっきりで、こんなことできなかったからとても新鮮だったわ。

 ミクが私を外に連れ出してくれて、私に新しい世界を教えてくれた。

 ありがとう。


 手紙って、どう書くものだったかしら。難しいわ。

 決めたのは私だけど、定型文ばかりの手紙じゃあ味気ないでしょ? 初めてだから大目に見てね。


 ね、ミク。

 手紙をくれた人に聞いた?


 私からあなたへの手紙はまだまだ沢山ある。

 今だけでももう十通も書き終わっていて、これからも合間に書くつもりよ。貴方が仕事をしている間にせっせとね。


 この手紙が、あなたの希望になりますように。


 でも、受け取らなくても読まなくても構わない。唯の私の思い出の回想だと思うから。

 私の事を忘れたら、探さなくてもいいのよ。


 いつまでも貴方が幸せでいることを願っているわ。


 ファスティナ・ライトルージュ



 追記

 二通目はリーナスに貰ってね!

 でも、渡してくれるのは貴方の次の誕生日。リーナスを脅しちゃダメよ?




 □


「……あ、あぁ…っ!ティナ、ティナっ…」


 ポロポロと涙がこぼれる。

 リーナスの前だったが、そんなことを考える暇もなくミクアスは心を揺さぶられた。

 ミクアスの知らないファスティナが、そこにはいた。


 ああ、彼女のひみつとはこれの事なのだ、と。


「賢い子だ。そして優しい子だね。いつもお前のことを心配してたよ」

「…っああ」

「次の誕生日、楽しみだな」

「…リーナス」

「おい、ファスティナとの約束だ」


 恨めし気にリーナスを睨んで、はあ、と大きくため息を吐く。


 ファスティナの思惑は手に取るようにわかった。

 あの日、ファスティナはミクアスのした話をリーナスから聞いたと言っていた。


 今日ミクアスがリーナスを訪ねた理由はそれで、ファスティナの死と共に仕事を辞めて、命を絶つつもりだったのだ。

 相談、と言うかリーナスには辞める以上最低限の話をしており、そこからリーナスはミクアスの未来を察したのだろう。


 そしてそれを、ファスティナに教えた。


 ひどい人だ、とミクアスは笑う。

 何よりもファスティナが大事なミクアスは、彼女との約束をちゃんと守りたいし、願いを聞いてあげたい。しかしそれでも彼女のいない世界は生きづらくて、きっと今でなくても終わりは遅かれ早かれ訪れただろう。


 それが、ファスティナの手紙がある限り先延ばしになる。


 読み込んだ手紙を大事そうに抱え、ミクアスは踵を返した。


「おい、辞職はするのか」

「…ああ。それは、そのまま進めておいて。きっともう、僕はこの国の為に働けない。ティナのために、お金を稼ぐ意味も無くなった」

「わかった…。それでも、お前は俺の弟だ。いつでも来いよ」


 やりたいことなんてない。

 ミクアスの人生はファスティナと出会った時から全て彼女のものだった。

 だからこれからも、ミクアスはファスティナの為に生きるしかできない。


 いつの日かに泣いて、彼女のそれをなあなあにしたことを思い出した。

 あの日、言外に死なないで、とファスティナは言っていたのだ。ああ、と心が痛くなって、眦に涙が浮かぶ。


 あの日にファスティナに伝えたいことが沢山あった。

 あんな、涙で声が出なくなって思考がままならなかった自分が恨めしい。きっと、ミクアスにはファスティナにかけるべき言葉があったはずなのだ。

 それをミクアスは聞かないままに終わらせてしまって、彼女のひみつと言う言葉に縋った。


 考えれば考える程自分がファスティナに甘えていた気がして、恥ずかしく申し訳なくなる。


 ああでも。

 ミクアスの心は壊れたままだ。


 どんなにファスティナの言葉を貰っても、どんなに世界がミクアスに優しくても。

 これから永遠に、隣にファスティナはいなくて、ミクアスの言葉は届かない。

 触ることも声を聞くことも、愛をささやく事も、心をあげることも出きない。


 城に戻ってファスティナの部屋に入れば、彼女の香りがミクアスを包んだ。

 今はもう、幸せな気持ちよりも泣きたくなる。


 ベッドに座って、シーツを撫でる。

 ここに彼女がつい先日まで寝ていたのだと思うと、ファスティナが死んでしまったことが嘘のように思えた。


 ぐったりとベッドに体を倒して、目を閉じる。


「ティナ。僕の、僕だけのティナ…。ど、どうして、僕を置いて行ってしまったの…。大好きなのに、君だけが全てだったのに…。ひどい…大好きだよ…、愛してる……。ずっと、君だけを、愛してる…」




 □




 カラン、と安っぽい鐘の音が鳴る。

 ガヤガヤとうるさい喧噪は、そんな聞きなれた音には振り返りもせずに酒を飲んでは取り留めもない会話を広げている。

 男が二人、カウンターに腰を下ろした。


「…とりあえず強いのを、頼む」

「あ、私には軽めのものを」


 見知らぬ顔の男に反応はしたものの、店主はおとなしく要望通りの酒を机に置いた。

 一人の男はぐっとグラスを傾けて、その強い酒を一気に煽る。


 男―――ミクアスは薄く自嘲の笑みを零して追加の酒を頼んだ。どう見ても楽しむ為の酒ではないそれは、確かにミクアスにとっての逃避だった。


「あんまり飲みすぎると、明日に響きますよ」

「…しってる」


 柔らかく窘めながらも、ファムはそれを止める気はない。彼が散々思い悩んで、泣いて、もがいて、苦しんで。それでも確かに生きてくれていることに感謝をしているからだ。


 彼女の死から、数ヶ月。ミクアスは確かに生きてはいるものの、ファスティナの部屋を動けなくなり、眠ることが難しくなった。

 ファスティナの寝室を汚すことを嫌いつつも、しかしそのかすかな面影を求めてベッドの脇の床で蹲る。さぞ滑稽だろうと自嘲しながらも、誰もいないその部屋を動くことができないでいた。


 辞職をしたことをきっかけに城を出ることも考えたが、ファスティナとの思い出の詰まった場所を手放せる訳もなく、名義はいまだにミクアスのものだ。使用人も最低限のみを残して、殆どに暇を出した。

 それでもファムは、ただ一人の従者としてミクアスに付き添っていた。


 眠れずに隈を作るミクアスを、外に連れ出したのも彼だった。



 水のように酒を飲むミクアスに、若干の後悔をしながらもほっと息を吐くファム。自分は軽めの果実酒でごまかしながら、今日は酒のせいでも眠れればいいと願った。


「それで? なんの心変わり。お前が僕に酒を進めるなんて…お前がやめろって言ったくせに」

「…いい加減に眠ったほうがいいですよ。いくら龍人は丈夫だからって、限度がある」


 ファムの言葉に、ミクアスは目をそらして酒を煽った。

 そんなことはミクアス自身も理解していたし、眠りたくなくて眠っていないわけではない。


 ただ、これまでは隣にあのぬくもりがあったから。


 ベッドに入ればその冷たさをありありと実感して、現実を理解して、いやに目が冴えてしまうのだ。

 ファスティナがいないなんて、嫌というほど知っているのに。その度にミクアスは打ちのめされる気がする。


 はあ、と大きくため息を吐いてミクアスは目を閉じた。


 ファムが適当につまみを頼みつつ、ミクアスに目を向ける。


「これから、どうするんですか」


 そんなことは、ミクアスが一番聞きたかった。これから自分は、どうすればいいのだろうか。

 ファスティナに出会っていない頃は、何もかもが自由だった。

 兄であるリーナスは健康かつ優秀で、自分に王というお鉢が回ってくることはない。兄には同じ龍人の番がいて、次代にも憂いはない。だからこそミクアスは自由に、兄の右腕として振舞えた。

 楽しかったとは言わない。ただ、自由だっただけだ。

 あの頃の自由が、今ではあまりにも色あせて思える。そしてそれ以上に、今は全てが灰色だ。


 漸く止まったはずの涙が、頬を伝う。漏れ出そうになった嗚咽を、酒とともに飲みこんだ。

 ファムはそれに気づかないふりをして、食事を続ける。


 今のミクアスの生きる意味は、ファスティナの残した手紙だけだ。

 それをファスティナが望んだように希望、とはミクアスには思えなかった。あえて言うなら、ミクアスをこの地に縛り付ける鎖のようだ、と。ただ、その鎖が狂おしい程に愛しいだけで。


「いい加減、息をするだけは終わりましょう。もう、ファスティナ様の死から一年経ってしまいます」

「息をするだけ、褒めてほしいね。お前は、番がまだいないから、そんなことが言えるんだ。一度得た番を、失ってみろ。きっと今の僕に何も言えない、むしろ尊敬さえするさ」

「…ミクアス様」

「………ごめん」


 ぐしゃりと自身の髪をかき混ぜて、ミクアスは自分の八つ当たりを実感した。人の不幸を願うような言葉を吐く自分が、酷く最低な人間に思えた。

 ファムは笑って、ミクアスの謝罪を受け入れる。

 実際ファムにはまだ番がいない。だからミクアスの気持ちもわからないし、正直なところ彼のあまりの変わりように一番戸惑ったのはファムだった。ファスティナと出会う前のミクアスと、一番長い時間を過ごしたのはきっとファムだったから。


 ファスティナが居た頃にはいつも笑顔で、ファスティナと声を上げて笑うことも、寝込むファスティナが心配で仕事が手につかない様子も、ファスティナの居ない今では自然に涙を流して夜に眠れないことも。

 ファムの知らないミクアスという人の在り方だった。


 もう何杯目かもわからない酒を空けて、ようやっと顔が赤らんできたミクアスは直ぐにでもファスティナの下に堕ちてしまいたい衝動に駆られた。残る理性で隣のファムを見て、胸元に忍ばせているファスティナの手紙を服の上から触る。

 酒はダメだな、と独り言ちる。ファムの気遣いであると理解はしていたが、悪い方向に傾く気しかしなかった。眠気の訪れる気配もなく、ミクアスはファムを一瞥して席を立つ。


「城に戻る」

「えっ、み、ミクアス様?」

「ファムは適当に飲んでいていいよ。帰っても、することなんてないから」

「唐突になんですかっ、ちょっと! すみません店主、お釣りは要りません!」


 慌ててミクアスの背中を追って、ファムは店を出る。

 ミクアスは一刻も早く、あのファスティナの残り香が残る部屋に戻りたかった。





 これはミクアス・ライトルージュの、始まりの物語。

 全てを手に入れて、そのどれもに執着をしなかった一人の男の、たったひとつの生きる希望。



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