イブのバーでの恋愛事情〜ホワイトクリスマスに咲くバーの花〜
――<雫視点>――
「紡のこと前からいいなって思っていたんだ……付き合って欲しい」
「辻先輩……う、嬉しい!」
辻先輩の告白に紡が両手を口に当てて驚いた表情を浮かべている。
嬉しそうにしながらも、はにかむ顔を僅かに上気させる姿はとても愛らしい――が、この女の本性はぶりっ子で猫被りのカマトト女郎よ!
あっ! 紡め、私に気づいてくすって笑いやがった。なにあのドヤ顔。男には媚び売るくせに! そんなんだから女子に嫌われるのよ!
辻先輩も辻先輩よ!
先週まで私にアプローチしてたじゃん。もう心変わりですか。そーですか。
女子社員の間でイケメン出世有望株と目されている辻先輩からの誘いに喜んでたけど、こんな男だったなんて!
仁美先輩の忠告通り、靡かなくて正解だったわ。ありがとう仁美先輩!
仁美先輩っていうのは立木仁美28歳。我が社が誇る超仕事ができる超美人さん。マジでどこの女優さん?って感じなのよ。
それにしてもクリスマスに独り身なんて寂しすぎる。
ホントどーしよ。
篝でも誘って飲み行こうかな?
え? 篝って誰だって?
同期の柏木篝。薄い茶色の髪にクリクリした目の女の子。アイドルグループのセンターに常駐してそうな超絶可愛い娘よ。
紡みたく偽物じゃない天然もの。ちょい腹黒なとこもあるけど。
だけど、女2人で飲むのもなぁ。
やっぱり男が欲しいよ〜。
私、柊 雫23歳の冬。
雪がチラつき寒くなった今日この頃。
心はシベリアブリザードにも勝る失恋地獄です――
――そして紛いもんの紡が露骨な男自慢で女子社員のヘイトを集め、一方の私は彼氏ができないまま寂しいクリスマス当日を迎えちゃいました。
篝にも雄也とデートだって断られちゃったし。
当たり前か。私でも誘われたら友より男を取るわ。ましてやクリスマスイブ。そんなの断固拒否一択よ!
「柊さん」
平静を装いながらも心の中で血の涙を流している私に男性からの呼び掛け――
「はい何でしょう?」
――仰ぎみれば水野先輩がいた。
「頼まれてた書類できたから確認お願い」
「え⁉ もうできたんですか! さすがお仕事が早いですね」
「いや、大したことじゃ……」
「凄いですよ。私、尊敬しちゃいます!」
寡黙な水野先輩はザ・サムライって感じの男性。背も高く、顔も悪くないし、仕事もできる。だけどモテそうな水野先輩の浮いた話を聞かないのよね。
「本当にありがとうございます」
私が笑顔で応対すると、水野先輩はぐっと口を閉じてしまった。
こういうところかな?
寡黙だけど何か暗い、仕事ができるけど真面目過ぎ、どこか女性を近づけないところがある。これがモテない原因?
「じゃあ……」
用が済むと水野先輩は踵を返した。
だけど去って行く彼の後ろ姿を見ていると、背中で語る古風な男性って感じで私的にはポイント高い。
あら? 水野先輩が仁美先輩に捕まった。
あっ! 小突かれた。
あの2人気安いわ。
もしかして付き合ってるの?
そっかぁ仁美先輩と水野先輩が……
高嶺どころか雲まで突き抜けて天上の花になっている仁美先輩に社内の男どもは揃いも揃って尻込みしていたから、仁美先輩は誰とも付き合ってないと思ったのに。
なんだか胸の辺りが少しモヤモヤしてきちゃった。
私どうしちゃったのかしら?
いいなぁみんな男がいるのかぁ。
「1人で飲むしかないか」
篝の教えてくれたバーにでも行ってみるかな?
篝が雰囲気が良く、女1人でも行けるバーを紹介してくれたの。あの子やたらと勧めてきたのよね。
『b a r s e c a l m e r』?
「えーと、バルス、カルマ? 金曜の夜に放送されると全国民が唱える滅びの呪文?」
カルマって『業』のこと?
確かに『ハハッ!見ろ人がゴミのようだ』と高笑いしていたあの男は業が深そうだったわ。いい歳したおっさんが幼いヒロインに粉かけてたし、完全なロリコンよね。
「アニメバーなのかしら?」
ふと窓の外を見ればシンシンと雪が降っていた。
女1人の寂しいホワイトクリスマスか……
――<塩爺視点>――
「お待たせしました。ソルティドッグ・オールドスタイルです」
僕の前のコースターにロックグラスがスッと置かれる。
中は白色の液体が満たされており、氷柱から丸く削り出された氷が浮かんでいる。薄暗い店内を照らす微かな光源が齎す光をキラッと反射する様はとても綺麗だ。
一口含み、舌の上でよく冷えたアルコールを転がす。僅かに感じるジンの甘味と独特なジュニパーベリーの風味が柑橘の果物の苦味と混ざりスッキリとした味わいを楽しめる。
うん、旨い!
コースターにグラスを戻すと、中の氷がカランッと音を立てて軽く回転した。
「さすがイケテン君。旨いよ」
「私は小池天磨です」
「知ってるよ。あだ名なんだからいいじゃないか」
僕の開き直りに、ため息を吐いた俳優もかくやの二枚目バーテンダー。本名を小池天磨という。その名前とイケメンバーテンダーぶりから常連はイケテンと呼んでいる。
え? 親父ギャグぽいって?
当たり前だよ。みんな親父なんだもん。
ここは『bar secalmer』って名前の老舗バー。雇われバーテンダーの彼が切り盛りしている。
「そのあだ名って嫌なんですよ」
「君だって僕のことを塩爺って呼んでるからお相子だろ」
僕には名前の塩谷治郎といつも飲むソルティドッグ・オールドスタイルをもじって塩爺ってあだ名がついている。
「それよりもっと大事な問題があるだろ?」
「問題?」
「クリスマスイブなのに何で店を開けてるの?」
「営業日だからですよ」
「ハァ〜」
「何ですか、その『やれやれコイツは』みたいなため息は!」
「やれやれだよ」
「このおっさん口に出しやがったよ!」
「今日みたいな日は暇だろ? 店閉めてリッキーちゃんをデートに誘えばいいのに」
「ぐっ!」
リッキーというのは立木仁美ちゃんっていう超美人な常連さん。ジンリッキーをよく頼むのでリッキーと呼んでる。
性格も良いのに何で彼氏ができないかなぁ?
美人すぎて男どもが気後れしてるからか。
妻子猫持ちの僕には関係ないけど。
イケテン君は接客も酒の知識も腕も確かな二枚目バーテンダーだ。なのに惚れた女の前だと途端に駄目んズになる憐れで残念な存在だ。
うかうかしてると鳶に油揚げ奪われちゃうよ。
「お客様はちゃんと来ますよ!」
「そ〜だねぇ」
7席あるカウンターの僕が座る1番左側以外誰も座っていない椅子に目をやる。
「噂してればリッキーちゃんが来るかもねぇ」
「そんなまさか……」
来るんじゃない?
あの子も彼氏いない常連だからイブ関係ないでしょ。
『チリィーン』
ドアベルが来店者の存在を知らせた。
「おっと! 噂をすればかな?」
「え⁉ ホントに? リッキーさん……じゃない」
店に入って来たのは若く綺麗な娘だったけどリッキーちゃんではないね。だからってイケテン君あからさまに落胆しない。
「え、あ……あの……」
ほら、女の子が戸惑ってる……ってイケテン君にではなく店をキョロキョロ見て戸惑ってるね。
これはあれだ、たまに来るアニメバーと勘違いしたやつ。前にも金曜の夜に2人組の若い男が突然「バルス!」「はっはっ人がゴミのようだ」と叫んで入って来た事があったんだよね。ビックリしたよ。
「失礼しました。いらっしゃいませ」
このイケテン一瞬で営業スタイルに戻りやがったよ。
「あ、あの……私、入っても大丈夫ですか?」
「もちろんでございます。こちらの席へどうぞ」
カウンターの7席ある中央に彼女を誘ったか。
「私、こういうお店って初めてで……」
「そうなんですね。どなたかのご紹介ですか?」
「え⁉ このお店って紹介がないとダメなんですか?」
「いえ、そんな事はありません。ただ、当店はご紹介で来られる方が殆どですので。あなたのような綺麗な方を紹介いただいたならお礼を申し上げないと」
サラッと殺し文句を言いやがったよ。女の子もイケテンの営業スマイルと殺し文句に当てられて真っ赤。
こいつは営業スマイルと営業トークで数々の女の子を殺しまくってる殺し屋だからなぁ。これがリッキーちゃんにも言えればいいのに。好きな相手にはとことんヘタれる残念過ぎるイケメンだよ。
「あの、篝っていう会社の同僚に教えてもらって」
「柏木様の?」
なんだ篝ちゃんの紹介か。
「はい、私はその篝と同じ会社の柊雫と申します」
篝ちゃんはリッキーちゃんの後輩で、たまに彼氏君とこの店にやって来る可愛い女の子だ。ちょっと腹黒いけどいい子だ。って事は、この雫ちゃんもリッキーちゃんの後輩か。
「バーは初めてなのですか」
「はい」
「それでは当店の説明を――」
イケテンが扱っているお酒、料金の相場、チャージやバーでの簡単な注意点を説明してるけど……普通そこまでするか?
リッキーちゃんの後輩と分かって間接的点数稼ぎを狙ってるな。逆効果にならなければいいけど。
ほら、雫ちゃんイケテンに見惚れてポーッとしちゃってるじゃん。泥沼の三角関係なんてやめてよね。
『チリィーン』
「いらっしゃい……ませ」
あ、入ってきた美女を見てイケテンが凍りついた。
「今晩は天磨君」
ま、その美女がリッキーちゃんで、尚且つカッコいい男を連れてるからねぇ。ホントに鳶が現れちゃったよ。やめてよね血みどろの四角関係なんて。
――<雫視点>――
「あら、雫じゃない」
「先輩⁉」
私がイケメン店員さんにレクチャーを受けていたら、仁美先輩がやって来た――水野先輩と。
仲良さそうな2人を見てると胸が少しズキッと痛む。
この痛み……
胸がモヤモヤする……
もしかして……私……
恋しちゃったの?
仁美先輩に。
仁美先輩は仕事のできる超美人。しかも性格もサバサバで後輩思いで超カッコいい!
これは惚れるしかッ!
仁美先輩のことを考えただけで心臓がドキドキする……ような気も……しないでもない……かもしれない。
ごめん、分かってる。
もうボケません。
そうよ!
今やっと分かった。私は水野先輩に恋しちゃってる。
辻先輩にも目の前のイケメン店員さんにも、今みたいな胸の痛みやモヤモヤは無かったもの。
だけど水野先輩は仁美先輩と付き合ってるのよね。
恋を自覚した瞬間に失恋とかサイアクー。
「天磨君、席はどこでも大丈夫?」
「……はっ…はい、し、失礼しました立木さん。どうぞお好きな席に」
どうしたのかな?
さっきまではきはきしていたイケメン店員が急にどもっちゃった。
「ありがとう。じゃあ水野君はそこに座って」
「え⁉︎」
なんと仁美先輩は水野先輩を私の右隣の席に座らせたの。
その更に右隣に仁美先輩は腰掛け、水野先輩を私と先輩で挟む形になったので、少し身を乗り出すようにして先輩を覗き込む。
「せ、先輩どうして!」
「どうしてって……私この店の常連だから」
「店に来た理由じゃなくてッ!」
「ああ、水野君? 相談があるって言われて連れてきたの」
相談って⁉︎
それって男女の仲の重要案件では?
イブなんだし絶対そうよね。
私ってお邪魔虫なんじゃないの?
「柊さんがお邪魔でしたら俺は……」
「いえ、水野先輩を邪険にしているわけではないんです……ホントですよ?」
「そうですか」
き、気まずい。
「お飲み物は何にいたしましょう?」
イケメン店員さんの助け船グッジョブ!
「私はいつものジンリッキー」
仁美先輩は即断だけど、私はどうしよう?
「俺は詳しくなくて」
「あ、私もです」
「それでは私がお好みに合わせてお作りしましょうか?」
へぇ、バーってお酒を指定しなくてもいいんだ。注文ってどうしたらいいか分からなかったから助かったわ。って気が緩んだとこで仁美先輩がぶっ込んできた。
「ところで雫、あなた辻君とはどうなったの?」
ちょッ先輩! 今その話題を出しますか⁉
チラッと水野先輩を見れば相変わらず寡黙で表情が読めない。私の彼氏事情なんて興味ないですよね……そうですよねー。
「辻先輩は紡と付き合っていますよ」
「そう……やっぱり私の言った通りの男だったでしょ?」
「えぇまあ、先輩には感謝してます。だけど紡のイケメン出世頭の辻先輩を捕まえたって自慢が鬱陶しくって」
「辻君が出世? ないない絶対にありえないわ。彼まったく仕事できないもの」
ウソッ!
「でも他部署との合同プロジェクトを成功させた実績が……」
「あの成功はチームの実績だし彼は寧ろ邪魔で不評だったわ」
「それじゃ課長に褒められているのは?」
「あれは課長に煽てられているだけ。課長はあれでいてよく人を見てるのよ。辻君なんて全く評価してないわ。あなた達若い子は課長のこと昼行灯って馬鹿にしてるけど課長って怖いのよ」
そうなんだ課長って、そんな人だったんだ。
けっけっけっ辻、紡ざまぁ!
ところでヒルアンドンって何? 私達そんなこと言ってないけど。影が薄いとか役立たずとかは言ってたけど。
そんな話をしていたら店員さんが仁美先輩の前に泡立つ透明な液体の入った細長いグラスをスッと置いた。
「お待たせいたしましたジンリッキーです」
続いて水野先輩の前に綺麗な球体の氷と紅い液体の注がれたグラスが差し出された。
「アメリカーノです。甘いのもお好きとお伺いしましたので」
「ああ、どうも」
ふぅん意外。水野先輩甘いの好きなんだ。
「ホットバタードラムです。甘いホットカクテルです」
「わぁありがとうございます」
そして最後は私の前に置かれたのは湯気が立ち昇る茶色の液体が入ったカップ。刺さっているのはシナモンスティック?
仁美先輩は自然な動作でグラスに口をつけて、こくりと飲んでグラスをカウンターに戻すと店員さんに軽く笑った。女の私が見てもゾクってくるくらい色っぽいんですけど。
「いつも通り美味しいわ」
「ありがとうございます」
やっぱり先輩はここの常連さんなんだ。
さて、私のはどうかな?
コップに口を近づけると鼻腔が甘さで支配される――これはケーキみたいな香り?
「んー! 甘くてあったかくておいしー!」
ひとくち含めば今度は口いっぱいに甘さが芳醇なバターの風味と共に広がる。それから独特なスパイスがアクセントになって、まるで焼き立てのシナモンケーキだ。
「こっちは甘いけど独特な苦味もあるな」
「アメリカーノにはカンパリが入っておりますので、香草の苦味が甘さと混じり合うんです。お口に合いませんでしたか?」
「俺にはちょっと甘過ぎると思ったんだけど、この苦味が入ってちょうどいい感じです。とてもウマいです」
その言葉にイケメン店員さんがにこりと笑った。
「それは良かった……ところでお二人はカクテル言葉をご存知ですか?」
――<イケテン視点>――
「「カクテル言葉?」」
俺の質問に2人は首を傾げた。
「花言葉と同じでカクテルにもそれぞれ素敵な言葉があるんですよ」
俺の説明に2人が感心した素振りを見せ、自分達の前のカクテルをしげしげと見つめている。
さて、リッキーさんからの依頼を果たさないとな。
俺が2人にカクテルの好みを確認している最中に用意したのだろう、つい先ほどリッキーさんからDⅯが送られてきたのだ――――
リッキーさんが男を連れて店に入って来た時には、さすがの俺も思考がフリーズしてしまった。
この時、俺の頭の中を支配したのは――
絶望した!
リッキーさんに彼氏ができたことに絶望した!
――メガネをかけて叫ぶ書生姿の先生だったよ。
この男を殺して俺も死ぬとアイスピックを握り締めたところで、塩爺が何やら「うわぁ本当に血みどろ……」と呟いて青くなっていた。なんのことだ?
だいたい青くなりたいのは俺の方だ。
俺はいつもの営業スマイルで手に持つアイスピックで氷柱を割り、丸氷を作製しながら心の中で号泣した。
この男の酒に毒でも入れてやろうか?
「ちょっとちょっとイケテン君!それやっちゃダメなやつだから」
真っ赤な瓶を握りしめる俺に塩爺がうるさい。黙れ!俺のガラスのハートは既に粉々なのだ。
ちょうどその時、俺のスマホが音を鳴らした。これがもう少し遅ければ、俺は本当に毒を盛っていただろう。
それはリッキーさんから俺を頼ってきたDMだった。
そう……リッキーさんにとって俺はとても頼り甲斐のあるナイスガ〜イ!
「君ってリッキーちゃんが絡むとホント駄目になるよね」
ふっふっふっ何とでも言え!
このお願い、頼れるあなたの天磨が叶えてみせます!
――――そうして今に至るのだ。
「雫様がお飲みになっているホットバタードラムのカクテル言葉は『良き思い出』」
「それって嫌味ですか?」
雫が少し不満そうに口を尖らせた。
「そうではありません……そのカクテルは甘くほろ苦いでしょう?」
「ええ、甘いのに…温かいのに…ちょっとだけ奥に苦味があって、それがカクテルの美味しさを引き立ててる」
「甘いだけよりも、温かなだけより、少しの苦味があった方が味は洗練されます。失恋の記憶も同じだと思います」
じっと俺の話しに耳を傾ける雫の顔にはもう険はなかった。
「その経験は『良き思い出』になります。それはとっても素敵な事だって思いませんか?」
俺が僅かに微笑むと、雫の顔が若干上気した。隣の水野は無表情に見えるが、眉根が微妙に寄ったのを俺は見逃さなかった。
観察していると分かる。この2人はお互い好き合っている。リッキーさんの見立て通りだ。
リッキーさんはこの2人を引っ付けたいらしい。2人がここで会ったのもリッキーさんと篝のお膳立て。
「水野様のアメリカーノには『届かぬ想い』という意味があります」
「お前ッ!」
落ち着いた雰囲気の水野が声を僅かに荒げた。
「秘めた想いも素敵ですが……」
「何が言いたい?」
「言葉にしない想いは決して相手に届きませよ」
「あ……」
さて、ここからが俺の腕の見せ所。ホワイトクリスマスに相応しい最高のカクテルを作っちゃる!
――<水野視点>――
バーテンダーは説明を終えると、もう俺には用が無いとばかりに何やら作業を始めた。
この男が言う『言葉にしない想いは決して相手に届かない』……確かにその通りだ。分かっているんだ。だけど……
俺はチラリと左隣の女性を盗み見る。
柊雫。
去年、入社してきたばかりの娘だけど、真面目でしっかり者……そして、とても綺麗だ。
そんな彼女に俺は惚れている。正直、一目惚れだった。
だけど、俺と違って彼女は結構モテる。そんな彼女に辻が粉をかけ始めた。辻は俺と違って女子に人気だし、これはもう無理かと諦めていたら、立木先輩に簡単に諦めるなと小突かれた。
発破をかけられ、何とか彼女を誘おうと思ったが、俺はどうも口下手で彼女を前にすると何も喋れなくなる。
今も彼女に想いの丈を叫びたい!
だけど何て言えばいいんだ!
俺と彼女の間に破ることのできない沈黙とどこか気不味く重い時間が支配する。
店内に流れる緩やかな音楽とバーテンダーのシェイカーを振る音だけがBGM。
俺の手は不安と焦燥で汗が滲み、視線は忙しなく店内を彷徨う。アルコールのせいなのか喉は異様にヒリヒリと渇き、言葉を発しようとする口はただ細かく震えるだけ。
こんな情けない俺を彼女が好きになるとはとても思えない。
どれくらいの間そうしていたのだろう?
突然、目の前に赤い液体の入ったカクテルグラスが差し出された。見れば同様に柊さんの前にも白い液体の入ったカクテルグラスが置かれている。
「これは?」
俺が尋ねるとバーテンダーは薄く笑った。
「言葉に出すのが難しいのでしたら声に出さない言葉を贈られてはいかがでしょう?」
声に出さない言葉?
「赤いカクテルは赤い薔薇、白いカクテルは白い薔薇になります。それぞれ1本ずつの薔薇……意味はもうお分かりですね」
俺は目の前の赤い薔薇を見詰める。
確か、赤い薔薇を一本贈るのは『あなただけを愛している』だったか?
そんなの口にするのは俺には無理だ。だけどこれなら……
「冬野さん……いえ、雫さん……俺みたいな男からは迷惑かもしれない。だけど、この花を受け取ってもらえませんか?」
俺は今ある勇気を全て総動員して彼女に赤い薔薇を差し出した。俺の行動に彼女はびっくりしたのか目を大きく見開いている。
やっぱり嫌だったか?
「でも水野先輩は仁美先輩とお付き合いを……」
「立木先輩には……その、あなたの事を相談していて……情け無い男と笑ってください」
「そんなこと……」
彼女はいったん黙り込んでしまったが、すぐに赤い薔薇を受け取って、一口それを含んだ。
え? それってもしかして……
「とても美味しい」
彼女はにっこり笑うと今度は白い薔薇を俺に差し出した。
「水野先輩の“言葉”への返答です」
一本の白い薔薇の意味は『あなただけしか見えない』。
「あ、その……本当に?」
「はい……はい!」
彼女はカウンターに置いた俺の左手に、自らの手を重ねて頷いた……
――<塩爺視点>――
「2人が上手くいって良かったねぇ」
晴れて結ばれた2人が手を繋いで雪の帳に消え、その後ろ姿を見送った僕がポツリと言葉を漏らす。
「えぇ、あの2人ってもどかしかったのよ」
リッキーちゃんが相槌を打ったけど、僕は君とイケテン君の方がもどかしいよ。
「天磨君……ありがとう」
「いえ、お役に立てたのなら嬉しいです」
2人の間に流れる空気は少し甘い。ちょっといい雰囲気だ。
さあイケテン君! 次は君の番だよ――って何カクテル作ってんの⁉
そんな事している場合じゃないでしょ。馬鹿なの君!
「ごちそうさま。それじゃあ私も行くわね」
「え⁉」
リッキーちゃんの店を出ていく後ろ姿を呆然と見つめるイケテン君。
ほら見た事か。こういう事は機を見るに敏でなきゃ。
「なんでカクテルなんて作るかなぁ」
「このカクテルで告白しようと思ったんですよ!」
イケテン君はカウンターにカクテルグラスを置いた。
「またカクテル言葉? 『言葉にしない想いは決して相手に届きませよ』って自分で言ったじゃん」
「ぐっ!」
この2人が結ばれることは本当にあるのかね?
僕は呆れた目で彼の前のカクテルグラスを見た。
中に注がれているのは淡い赤色のカクテル――撫子。
赤い撫子……その花言葉は――
――純粋で燃えるような愛
※ソルティドッグ・オールドスタイル
ソルティドッグは言わずと知れたウォッカの超有名カクテル。スノースタイル(果汁をつけたグラスのふちに塩、砂糖、ペッパーなどをまぶし付ける技法)にしたグラスにウォッカとグレープフルーツを入れてステアするだけの単純なカクテル。
オールドスタイルはソルティドッグの原型となるカクテル。こちらはジンカクテルでシェーカーにジン、グレープフルーツジュース、塩を入れてシェイクする。筆者の昔のフェバリット。
※ジンリッキー
ジンとライムと炭酸をステアするだけの簡単なスタンダードカクテル。単純で、味付けができないため誤魔化がきかない。ライムの味でその時のカクテルの味も左右されるため、市販のライムジュースを使用する人もいる。昨今はフレッシュがもてはやされているが、味を一定にするために市販ジュースを使用するのはありだと筆者は考えている。ちなみに筆者も最初のバーではこれを選択することが多い。
※アメリカーノ
スイートベルモット(甘めのタイプの白ワインを主体としにがよもぎなどの香草やスパイスを配合して作られるフレーバードワイン)、カンパリ(苦味のあるリキュールで製法不明)、炭酸水を入れてステアしてレモンをピールしたロングドリンクカクテル。
ホットバタードラム
ダーク・ラム、バター、砂糖を入れて熱湯を入れてステアするラムベースのホットカクテル。ステアにシナモンスティックを使用するケースがあり、今回はそのタイプ。
ザ・ローズ
ドライベルモット(ドライタイプのベルモット)、キルシュワッサー(チェリーリキュール)、グレナデンシロップ(ザクロ果汁で作ったシロップ)を混合してステア。
ホワイトローズ
ドライ・ジン、マラスキーノ(さくらんぼリキュール)、オレンジジュース、レモンジュース、卵白を氷と一緒にシェーカーに入れてシェイクする。