062《ナイスゲーム》
本編34
「おい、お前、ちょっと待て!」
相賀晴貴は潟平駅の改札前で数人の少女に呼びとめられた。
「お前か、姐さんを泣かせたのは!」
「姐さんって?」
「亜弥べぇ姐さんだ」
少し遅れて小木津亜弥の母が様子を見にやってきた。
「アッ、お袋さん、チワッス!」
『チワッス!』
「こんばんは。やっぱりあなた達だったのね」
「亜弥べぇ姐さんが泣いたって本当ですか?」
「ええ、久しぶりにワンワン泣いたんだって」
『マジっすかー』
少女たちは歓喜の雄叫びをあげる。
「で、みんなで何をしているの?」
「そりゃあ決まっているじゃないですか」
「亜弥べぇ姐さんを泣かした奴に、
ヤキを入れてやるんです……」
リーダー格が晴貴にガンを飛ばす。
「おい、手前ぇ!」
しかし次の怒りのセリフは横から掻っ攫われた。
「亜弥べぇ姐さんを泣かしてくれてありがとう」
『ありがとうございま~す!』
リーダー格が慌てて繕う。
「……今度亜弥べぇ姐さんを泣かした時は、
タダじゃ済まさねえからな」
『済まさねえからな~』
乱暴な言葉とは裏腹に、
少女たちは手を振りながら晴貴を見送った。
「ねぇねぇ、お袋さん。
今から亜弥べぇ姐さんの所へ行って良いですか」
少女たちは目をキラキラさせて、尋ねる。
「亜弥は泣き疲れて寝ちゃったわ」
「それって、チョー乙女じゃないっすか!」
「あたしね、姐さんが好きそうな動画集めていたの」
「私も! カワイイ動画集めたわ」
「ネコ動画! 見せて、見せて!」
少女たちはスマホで、
それぞれ一押しのネコ動画を見せあった。
かつて亜弥を中心に、
ネコ動画の可愛さに、
涙を流しながら大騒ぎした日々が……。
もうすぐそんな日々が帰ってくる。
あれからまだ5年。
あれからもう5年。
少しずつ止まった刻が動き出した。
11月14日、月曜日。
2年5組の教室。
亜弥と晴貴の机が中央に強制移動されていた。
「隅に置けない」ということらしい。
J2伊立ゾンネンプリンツの老将、
アイゼン・シュルツェン監督は、
今年70歳の誕生日を迎えた。
1990年代の名監督としてのキャリアは輝かしいが、
最近は10年ほどのブランクがある。
その間は、FIFA公認の代理人として、
若手の発掘のため各地を飛び回っていた。
久々の日本からの監督オファーに、
現役最後のチャレンジを決めた。
真面目でお行儀がよく、
規律正しい日本人には興味をそそられる。
自らのサッカー理念と、
日本人の気質は相性が良いと思われた。
とは言うものの、高齢であることは否定できない。
2016シーズンの途中に息子をチームに招き寄せた。
ドイツでコーチライセンスは取得しているので、
いずれ監督の座を譲るつもりだ。
今シーズンも中位に甘んじたが、
徐々に規律重視のシュルツェン流は機能し始めた。
チーム全体の意識統一を図るため、
ユースチームは言うに及ばず、
可能な限り、ジュニアユース、
キッズ年代の試合にも足を運ぶ。
チームを預かった以上、手抜きはしない。
ジュニアユースの試合。
神島ヒルシェゲバイ対氷戸ローゼンシュトック。
バラキ県内のライバルチーム同士の熱い戦い。
晴貴は第4の審判員として参加していた。
次の試合に伊立ゾンネンプリンツが出場するので、
アイゼン・シュルツェン監督も観戦。
息子であり実質的にチームの指揮を執るヘッドコーチ、
ユンガー・シュルツェンを従えている。
前半残り10分、アクシデントが発生した。
「パチン!」
主審は後ろから蹴られたような気がした、
振り向くが誰もいない。
「しまった……」
典型的な経験者の体験談を思い出す。
ボールは中盤で神島がキープしている。
インプレー中だが主審は即座に試合を止めた。
アキレス腱断裂。
これ以上は審判続行不能。
試合前の打ち合わせでは、
冗談交じりに晴貴が交替要員に指名されていた。
第4の審判員を協会役員に任せて晴貴は急遽ピッチへ。
主審の判定基準はしっかり把握しているつもりだ、
観客席からの心ないヤジは気にしない。
試合再開前に、両チームのキャプテンに声を掛ける、
それぞれと握手を交わすと、ドロップボール。
両選手ともすぐには動かない、
氷戸の選手がボールをタッチラインに蹴り出した。
晴貴はすかさず両選手と軽くハイタッチ。
神島のスローインから改めて再開。
急遽登場した主審は、安易に競ることはさせない。
印象づけるシーンだった。
直前に充分なウォーミングアップはできなかったが、
晴貴は割り切って、前半の残り時間をそれに充てた。
最初からトップギアで駆けまわった。
常に先読みをしてボールの近くに侍る。
氷戸GKのキックから中盤の競り合い。
神島ディフェンダーの手が、相手選手の背中に触れる。
距離を計っている程度で、押している訳ではないが、
晴貴は強く笛を吹いて、プッシングの反則を取った。
ボールが空中にある間に、落下点付近へ移動している。
至近距離で真横から見ているので、
反論のしようがない。
時間を置かずに同じ事が再び起きる。
晴貴は再び笛、反則を取った。
「競り合いで手を掛けるな!」
神島の監督がチームに注意喚起。
晴貴の現役時代のプレーは覚えている。
たしか高校チームに移籍したはずだが、
こんな形で再会するとは思ってもいなかった。
この若い主審には見えているぞ、気をつけろ。
氷戸が中盤左から、大きくサイドチェンジ。
ジャンプして身体全体で阻もうとする神島選手の袖を、
音を立ててボールが掠めた。
「ノーーーーーッ」
ボールを追いながら主審が叫ぶ。
ハンドをアピールする隙を与えない。
故意に手でボールを扱ったわけではないし、
試合の流れを大きく変えたわけでもない。
反則でないのなら、プレーオンとは言わない。
試合は続行。
前半残り僅か。
氷戸のフルバックがフリーで、浮いたボールを扱うが、
剥がれた芝の跡でボールがイレギュラーして、
バランスを取って広げた手に触れたように見えた。
「ノーーーーーッ」
故意に手でボールを扱ったわけではない。
ゴール前で相手にフリーキックを与えるのは、
果たして公正といえるのか。
否。
一度走り寄りながら、次の展開を読んで方向転換。
『試合を続けなさい』
それが主審のメッセージだ。
試合は何事もなく前半終了。
ハーフタイム。
神島の監督は選手に告げる。
「笛が鳴るまでプレーを止めないように。
つまらない反則はしないこと」
氷戸の監督が選手に告げる。
「自分で判定する必要はない。
ゲームに集中しなさい」
審判インストラクターは主審に告げる。
「急な登場にもかかわらず良く動けている。
自分で示した判定の基準はブレないように」
後半戦、主審の存在が消えた。
両チームの選手はプレーに集中している。
晴貴は必要なときにのみ現われて試合を邪魔しない。
1点ずつ取り合って引き分け。延長戦・PKはない。
試合終了後、
晴貴は両チームの数人の選手から、再会の挨拶を受ける。
神島の監督が主審にスッと近付いてきた。
「ナイスゲーム」
それだけ晴貴に伝えると、自チームの選手を迎える。
こちらも顔見知り、氷戸の監督からは握手を求められた。
「相賀君、氷戸に来る気はないのかな……」
「ありがとうございます」
晴貴は苦笑して一礼。
観客席の最前列には、
アイゼン・シュルツェン監督が降りてきていた。
「ギープミーアフュンフ」
身を乗り出して右手を出した。
晴貴はハイタッチで応える。
「アイングーテスシュピール」
良い試合だったと告げて身を翻す。
付き従う息子のユンガー・シュルツェンに命じた。
「ハルキの動静にアンテナを張っておけ、奴は化けるぞ」
長い間、新人の発掘に携わっていた。
その嗅覚には自信がある。
「父さん、チームから手放すのが早過ぎたのでは?」
「それは違うな。
あのまま在籍していてもチームの毒にしかならない。
本人のためにもならない。
ハルキは自分で運命を変えつつあるようだ……」




