061《どぶ汁》
本編33
タクシーの運転手が声を掛ける。
「亜弥べぇちゃん。
鮟鱇は魚洗に回しているから、
手に入らないかも知れないよ」
「明日の魚洗アンコウまつり?」
「そう、年々予約が殺到していて、
あちこちに協力を求めているらしい」
「でも、全く無いなんてことは……」
「う~ん、今は直接、魚洗に水揚げしているからね……」
「嘘でしょう」
「お前『亜弥べぇちゃん』って呼ばれているのか」
「うっさいわね!」
小木津亜弥の家でタクシーを降りた。
「お母さん、ただいまー、お腹空いた!
見て、見て、目真っ赤でしょう。
瞼も腫れちゃった。
そりゃあワンワン泣いたんだから、
ビービー泣いたんだから、
ポロポロ泣いたんだから。
もう、ス~ッキリ!」
亜弥の母が棒立ちの相賀晴貴に気付く。
「あら、いらっしゃい」
余計なことを言われる前に亜弥がまくしたてる。
「ねぇねぇ、どぶ汁作ってよ。
鮟鱇あるでしょう?」
「ああ、それがね、
お父さんが捜しに行っているわ……」
「エ~ッ、やっぱりないの」
「切り身ならいくらでもスーパーで売っているけどね……」
「そんなの偽物。どぶ汁じゃない!」
小木津家の主人が帰宅した。
小柄だが色黒で漁師然とした風貌をしている。
「ただいま、鮟鱇はなかった、代わりに鯛を貰ってきた」
発泡スチロールの箱を妻に渡すと、
娘の頭をぽんぽん叩く。
「ちょっと止めてよ、お魚臭くなるでしょう」
そして晴貴をじろりと睨む。
「お前か、亜弥を泣かせたのは。
……で、漁師になる気はあるのか」
「バカ言わないでよ。
相賀君は、お話を聞いてくれただけなんだから……」
「それで連れてきたのか。
……鯛を喰わせて追い返せ」
「お父さんは、ビールでも飲んでなさい」
亜弥は父親を居間に押し込み、ビールの用意をする。
ついでに喉が渇いたのか、
コップ一杯の水を飲み干すとキャハハと笑い出した。
「お母さん見て、涙、噴水みたい」
目頭の涙腺から涙が噴き出している。
面白がってもう一杯水を飲み干す。
「お父さん見て、見て、水芸、水芸!」
「器用なものだな」
玄関に立ちっぱなしの晴貴にも見せつける。
「涙腺が崩壊しているぞ」
「涙腺だから決壊よ」
「涙だぞ!」
「うん」
「おい涙だぞ!」
「そうよ?」
「だって涙だぞ!」
「あなた何を言っているの?」
ガハハと父親が笑い出す。
小木津家の電話のベルが鳴った。
母親が出る。
相手は近くのホテルの支配人らしい。
恐縮しながら何度も頭を下げ電話を切った。
「どうした、誰からだ」
「七浦ホテルの支配人さん。
鮟鱇を届けて下さるって」
「そりゃ済まないな。
あとで礼を言わなければ」
「凄いでしょう。これだから田舎は便利よね」
亜弥が自慢げに胸を張る。
「それとね……」
「それと、なんだ」
「お赤飯炊くって言っているのだけれど、
さすがにそこまではねえ」
「やめてよ、何それ、信じられない」
「街中の噂になっているらしいわよ。
亜弥が彼氏を連れて六辺堂で大泣きしていたって」
亜弥が真っ赤になる。
「嘘でしょう。これだから田舎は嫌なのよ」
程なく鮟鱇が届いた。
先ほどのタクシーの運転手が、
自家用車に乗り換えていた。
既に七つ道具に解体済みだ。
「よし、俺がやる」
父親が土鍋でアン肝を煎りだした。
どぶ汁が完成し、晴貴もご相伴にあずかった。
「どうだ美味いだろう」
父親は鯛の刺身で日本酒をちびちび呑んでいる。
「美味いっす。
今まで食べた中で一番美味い」
「そうだろう。
これが観光用じゃない本物のどぶ汁だ」
「はい。アンコウ鍋は魚洗いで有名になりましたけど、
どぶ汁はやっぱり潟平ですね」
「お世辞はいい!」
父親は難しい顔をした。
「……正直、魚洗が羨ましいと思ったことはある。
平日の田舎の商店街に観光客が歩いているなんて、
今の日本じゃどこを探してもあり得ない光景だ……」
「それは魚洗の人たちが工夫して仕掛けているからよ。
明日のアンコウまつりなんか凄いんだから!」
亜弥が話に口を挟むが父親は構わず続ける。
「……でも海は一つだ。
漁場ではライバルだが、困った時はお互いさま。
魚洗でアンコウ鍋が沢山出るのなら、
協力するのは当たり前だ。
それに……」
杯をクッと呷った。
「あいつらも震災で大きな被害を受けた。
俺たちと一緒で、必死になってもがいている。
何も戦車や漫画だけでこうなったとは、
だれも思っちゃいない」
「でもアニメの力も大きかったんだよ」
亜弥が必死でアピールする。
「またその話か。
そんなことより、
こいつを婿にするなら、
明日から漁に連れて行くぞ。
いいか坊主!」
「何よ、もう酔っぱらっちゃったの」
亜弥がプリプリしながら父親を引き立たせる。
寝所に連れていくためだが、
意外にも素直に連れられてゆく。
「おい、トイレに寄ってくれ、
パンツをおろしてくれ」
「バカじゃないの、
嫁入り前の娘に何をさせるのよ」
「仲が良いんですね」
「ウフフ、お恥ずかしい。
でもお父さんが漁業に専念してから、
あんなに嬉しそうだったのは初めてよ」
「そうなんですか」
「みんな反対したのよ、
この大変な時期に勤めを辞めちゃって」
「何をしていたんですか?」
「郵便屋さん。
休みの日だけおじいちゃんの手伝いをしていたの。
……それよりどうやってあの娘から涙を引き出したのかしら?
亜弥が人前で泣くなんて本当にあれ以来なのよ」
「それが、ただ話を聞いていただけなのですが……」
「きっとあなたは女の子の扱いが上手なのよ。
モテるでしょう?」
「そんなことはありません。
というよりも母親世代に囲まれて、
ずっとイジられ続けてきましたから。
近所に妹分も数人、
対応方法は身についているかも」
「女の子から、私みたいな元女の子の年増まで?」
「年増なんてとんでもない。
お若くてお綺麗ですよ」
「何話しているの。
私のお母さんを口説かないでよね」
亜弥が戻ってきた。手には蒸しタオル。
「……お母さん、私疲れちゃった」
そう言いながら両目に蒸しタオルを当ててソファーに横になった。
やがて静かに寝息を立て始める。
母親が有名ネコキャラのブランケットを掛ける。
「そろそろ帰ります」
「伊立のお家まで送って行くわよ」
「大丈夫です」
「それならせめて駅まで、
いまなら丁度いい時間だわ。
それにちょっと気になる事がね……」
結局、潟平駅まで車で送ってもらうことになった。




