040《腐った果実》
本編23
伊師林檎は体育館でバスケットボールの試合をしていた。
体育の授業は5組と6組合同で行われる。
小柄ながらちょこまかと活発な動きで、試合をリードする。
ディフェンダーが林檎へのパスを阻もうと手を出す、
微妙にパスコースが変わり、林檎の顔面へ、
咄嗟に顔をそむけ、ダメージを回避したが尻餅をついた。
「!」
体育館が凍りついた。
口元を覆った林檎の手の隙間から、鼻血がポタポタ……。
周囲の選手が一斉に退いた。
「大丈夫?」
応援していた多賀冬海がいち早く駆け寄る。
他は誰も近寄ろうとしない。
空気が重い。
冬海は持っていたハンカチで漏れ出た鼻血を拭うと、
林檎にハンカチを握らせる。
床に落ちた雫はさり気なくジャージで拭った。
「保健室に行ってきます」
体育教官に断って冬海が林檎を連れ出す。
小木津亜弥がモップで周辺を掃く。
五人娘がバケツと雑巾を探してきた。
ほんの数分で、何事もなかったように試合が再開された。
放課後、トイレに寄った冬海には、ヒソヒソ話が聞こえてきた。
「5組の伊師さんってさ……」
「本当なの?」
「体育の授業中にね……」
「それって、ヤバくないの?」
「そんなこと言っちゃダメだよ」
「そうだよね……」
「たぶん……」
冬海は素知らぬ顔で手を洗い、廊下に出る。
「……今の子ってさ」
今度は自分の事が話題に上ったようだ。
思わず駈け出した。
とにかくその場から逃れたかった。
6月、一高に賀多高と西高が集まって練習試合を行った。
西高の監督・勝間は、バラキ県サッカー協会審判部2種委員会の委員長。
賀多高の監督・藤井は、2級審判員の資格を持つ。
賀多高と西高のレギュラー同士の試合に、晴貴が主審として出てきた。
通常、練習試合の主審は監督かコーチの役目だったが、
一高の庄山監督はあえて晴貴を起用した。
晴貴は荒れがちな試合を、平然と仕切っていた。
「やるじゃないか……」
元1級審判員、西高の勝間は思った。
J2ゾンネンプリンツユースのFW相賀晴貴が、
今春から一高に移籍したのは知っていた。
「面白い事になっているな」
「まだまだ、だな……」
現役の2級審判員、賀多高の藤井は思った。
技術的には物足りない。
ただし走力、そして決断する勇気は申し分ない。
J2ゾンネンプリンツユースの試合は何度も担当している。
「でも、これはとても興味深い」
勝間は試合後の晴貴を呼び止め、
主審としての働きを褒めた。
続けて藤井が幾つかのアドバイスをする。
「走力は申し分ないが、まだまだ無駄走りが多い。
プレーの先読みを意識しなさい。
自信を持って判断しているのだろうが、
それをしっかりアピールしなさい、
肘が曲がっていては頼りなく見える……」
審判をしている事に関して、
二人があれこれ詮索する事はなかった。
ただし一高の庄山監督に対しては口を揃えて、
「相賀は粗削りだがセンスがある」と称賛した。
庄山と勝間は体育大学の同期だった。
晴貴が審判を続けて行くなら、
何か力になれることがあればいつでも協力する。
4級審判員の資格を持っているなら、
すぐにでも3級の試験を受けさせるようにと言った。
晴貴は4級審判員の資格は持っていなかったが、
数人の上級審判員にジャッジを見てもらうと、
全員一致で3級審判員へ挑戦させようということになった。
4月までさかのぼって4級審判員に認定し、
活動記録も部の日誌から作成させて審判手帳に記載した。
庄山監督を通じて晴貴に受験の意志を確認させたが、
本人に否はなかった。
8月初旬の3級審判認定試験に向けて、
監督達の計らいで、ユース世代だけではなく、
大学生や社会人の練習試合を経験させ、
上級の審判員とも組ませた。
晴貴の審判技術の上達は目覚ましかった。
しかし、サッカー部内での立場はいよいよ孤立した。
たった一人のCチームで、審判要員扱い。
晴貴の内心は忸怩たるものがあったが、
今は耐える時期だと自分に言い聞かせていた。
林檎と一緒に過ごす時間だけ、そんな心が安らいだ。
晴貴と林檎はお互いに、なくてはならない存在になっていた。
7月、梅雨の真っただ中。
葡萄は昇降口で林檎と別れると3年生の教室に向かった。
学年が上がるほど昇降口からは近くなる。
教室に入ると、数人の生徒が黒板を前にしてザワついている。
「伊師君、おはよう……」
生徒会書記を務める女子生徒が困惑気味に告げる。
「誰かが、こんなことを……」
葡萄は黒板を目の当たりに見て愕然とした。
『ウツクシマのブドウとリンゴは汚れている!』
悪質な嫌がらせだった。
胸糞が悪くなったが、同時に胸騒ぎを覚える。
鞄を放り出して、脱兎のごとく駈け出した。
2年5組の教室へ!
愛する妹、林檎の元へ!
「林檎!」
誰かが悲鳴を上げるのと同時だった。
葡萄が林檎の教室に飛び込むと、
床に倒れ込んだ林檎の姿。
晴貴が支えている。
「葡萄先輩、林檎が!」
晴貴の顔も真っ青だ。
「誰がこんなことを!」
葡萄は妹の頬を両手で優しく包み込む。
林檎は目を閉じ、浅く息をしていた。
「教室に着いたら、黒板に落書きが、
すぐに消そうとしたのですが、
林檎に見られてしまいました……」
晴貴が弁解するように言った。
葡萄は見たくなかったが、唇を噛んで黒板を見上げた。
『ウツクシマのリンゴとブドウは汚れている!』
一瞬、葡萄はめまいを覚えた。
敢えて利き腕ではない方で書いたような、稚拙な文字だった。
書いたのは恐らく同じ人物。
「まさか先輩の教室にも……」
晴貴が呟く。
「イタズラのつもりか知らんが、ふざけた事を……」
葡萄は妹を抱きあげ、保健室に向かう。
林檎は信じられないくらい軽かった。
兄は憤りが増した。
騒ぎを聞きつけた遥香がつき従う、
登校してきたばかりで、事情を知らない多賀冬海も連れて行く。
晴貴は落書きを消した。
証拠を残そうなどとは考えもしなかった。
関校長、小平教頭始め教師陣や、生徒会役員までがやってきた。
校長も生徒会長も事態を重く受け止めた。
見過ごすことはできないと行動を起こした。
そんな動きを知ってか知らずか、
あざ笑うかのように、落書きの画像がメールで出回った。
林檎は学校を休みがちになる。
悲しいトラウマが蘇った。
そんなとき晴貴は、学校帰りに必ず林檎のマンションに寄った。
母・蜜柑は快く招き入れた。
林檎は面会を断ることはなかった、会えるのは嬉しかった。
朝、どうしても登校できない時でも夕方になれば落ち着いた。
玄関先で少し、言葉を交わすだけで充分だった。
晴貴の部活がオフの時は、シビックセンターの天球劇場に誘った。
林檎は素直にプラネタリウムを楽しんだ。
五人娘と偶然、鉢合わせになる事も多かった。
時々「お邪魔かしら」と言いながら、母親もついてきた。
晴貴は蜜柑から知らされた。
毎朝必ず五人娘の誰かが、林檎を迎えに来ている事を。
生徒会は人権擁護のキャンペーンを展開した。
海東村の原子力科学館から講師を招いて、
放射線の基礎知識を学ぶ講演会も全校参加で開かれた。
表面上は何事もなく、真摯に受け止める一高生だったが、
正体を現さない犯人は狡猾で陰湿だった。
ターゲットは弱みを見せた林檎に絞られた。
林檎が登校すると、下駄箱の中に腐った果物を仕込まれた。
教室の机やロッカーにまで被害が及んだ。
とても一人の仕業とは思えなかった。
気丈に振る舞う林檎だったが、
さすがにプツンと神経が切れる事が重なった。
遂には晴貴の隣でさめざめと泣いた。
晴貴が部活で置かれている辛い立場を慮って、
心配をかけまいと我慢していたが、それも限界だった。
===================================
イシリンゴ、ハナヂブー、
コワイ、コワイ、
カンセンシナイカナ?
コワイ、コワイ、
イチコウパンデミックス、アンデット、
コワイ、コワイ、
===================================




