第6節
リディキュラスシティのとある路地を進んだ先に、知る人ぞ知る探偵事務所がある。
デリックたちが無事にノースストリートからその探偵事務所に戻った頃には、既に夜も深い時間に差し掛かっていた。
事後処理があると言って颯爽と立ち去ったランドルとスチュアートと、ランドルに引き摺られるようにして事務所を出たライラを見送り、この場所にはデリックとエリアル、スコットだけが残された。
静かになった探偵事務所の隅で、スコットが身体を地面に下ろす。そして、こちらが瞬く間に夢の世界へ旅立った。ぱたぱたと緩やかに揺れていた尾の動きが徐々に遅くなっていく。その様子を眺めながら、デリックはくたびれた安楽椅子に腰掛けた。両手の指を組み合わせて頭上に上げ、身体を伸ばす。ふぁ、と漏れた欠伸に呼応して視界が僅かに滲んだ。
「眠い?」
木製の扉が軋みながら開く音とともに、この家の持ち主であるエリアルがやって来た。彼の髪の先から雫が伝って地面の上で弾けた。頬が仄かに上気している。
傍若無人を無自覚で貫く名探偵は、家に戻るなり自分だけさっさとシャワーを浴びたらしい。デリックは呆れて溜息を吐いた。
「――そっちは身体も洗っていつでも眠れるな、羨ましいことだよ」
皮肉たっぷりに告げると、エリアルが苦笑を返してきた。
「デリックはもう帰ったのかと思ってたんだ」
「さっさと帰れって?」
「どうしてそんなに攻撃的な解釈をするのか不思議なんだけど。帰れなんて思ってないよ」
顔を少し傾けて、不思議そうに話すエリアルが妙に幼く見える。
「ジョークだよ、ジョーク。あと何時間かしたら夜明けだろ? ここに泊まってもいいか?」
「もちろん」
デリックの申し出に快く頷くエリアルを見て、ほっと胸を撫で下ろす。このような時間から懇意にしている女性の誰かに連絡を取るのは憚れた。
デリックは安楽椅子に座りながら体勢を崩す。ずるずると背中が落ちていく。今のデリックは酷い姿勢になっているだろう。今夜の宿が確定したことで安心した所為か、ノースストリートでの疲労を全身に感じた。
エリアルが頷いてくれて良かった。自覚はなかったが、デリックには宿探しをする気力すら残されていなかったらしい。
「ノースストリートは、これからどうなるんだろうな」
事務所の窓を隠すロール式カーテンの奥から零れてくる外の明かりを、デリックはぼんやりと眺めた。
「――いくら証拠があったからとはいえ、警察がノースストリートに入ることができたのは、外の人間を入れるべきだって判断した人があの街にいるからだと思う。だから、今日を皮切りにノースストリートは変わるよ」
エリアルが穏やかな口調で断言する。
「変わるよって、簡単に言いやがって」
チッと零れた舌打ちに、エリアルがきょとんと双眸を瞬かせた。
「デリックはノースストリートに変わってほしくないのか?」
「――さぁな」
安楽椅子の脚に視線を落として、デリックは呟いた。
「少なくとも俺は、ノースストリートは弱者に優しい街だと思ってる」
「優しい?」
「そうだ。だってきちんと働いて法を遵守していれば、理不尽な暴力や強盗に遭うこともない」
「でも、飢えで苦しんで盗みをはたらく者もいる」
エリアルの指摘にデリックは閉口した。
「世の中に絶対はないってことだな。安全も平和もすべての人間に平等に与えるのは不可能ってことか」
気分は晴れない考えだが、覆し難い事実でもある。
デリックは苦虫を噛み潰したような心地になった。安楽椅子の肘掛を握り締めるデリックの指先を見つめていたエリアルが、その視線をデリックの顔に移す。
この世の酸いも甘いも知らぬような、透き通った双眸がデリックを射抜くようにぶつかってきた。純粋無垢と表現するには、どこか底知れぬ光を宿すエリアルの双眸が苦手だ。蓋をした醜い部分まで暴かれてしまうような感覚になる。
「なんだよ?」
「デリックは、どうしてノースストリートを出たかったんだ?」
「直球だし、唐突だな」
デリカシーをどこに隠した。
エリアルを睨むと、彼は無言でこちらの返答を待っている。そもそもデリカシーを身につけていないらしい。
「――ノースストリートにいると、腐っちまうって思ったからだ」
デリックがうっかり本音を零したのは、静かな夜の寂寥感にどこかセンチメンタルな気分になっていたからだろう。エリアルの視線に気圧されたからではない。断じてない――と思う。
「腐る……」
「オレの家の隣に、元罪人の女性がいたんだ」
「うん」
「オレはガキの頃から活発的で断然アウトドア派だったから、毎日のように出かけてた。家を出る度、彼女に出くわしてさ。いっつも挨拶してくれるんだよ。とびっきりの笑顔で。おはよう、いってらっしゃい、おかえりって」
梳かしていないぼさぼさの髪の毛。メイクはおろか洗顔さえ碌にできていないであろう不健康そうな顔で。それでも美しいと思える満面の笑みを彼女はデリックに贈ってくれた。
隣の家の庭仕事を任されていた彼女は、毎日のように庭で膝をついて土いじりをし、雑草を抜いて、植物に水を遣っていた。爪と皮膚の間にこびりついた土と、あかぎれした手を今でも思い出せる。
「ガキの頃から容姿端麗だったオレは、よく近所のガキどもに目をつけられて」
「へぇ」
「――まぁ、いいけど。ツッコめよ名探偵。とにかく、年端もいかないガキにとってノースストリートの絶対遵守の法なんかあってないようなもんだろ。見えないとこで喧嘩したりいじめてきたりなんて毎日のようにあったから、オレもたまには負けて怪我して帰ってくることもあるわけだよ」
「へぇ」
「一回、ひどい怪我をした時があって。殴られて転んだ場所がゴミ置き場で、不作法なヤツがガラス片を捨ててたらしくて、掌をざっくり切ったんだ。止血しないと、なんてその頃は全然知らなくてさ。だらだら血を流して帰ったら、彼女が駆け寄ってきた」
それまで一度たりと、隣地の庭から出たことがなかった彼女が、脇目もふらずデリックに駆け寄った。不思議な光景だった。
デリックの腕に触れる彼女の体温で、デリックはようやく今まで敷地の境界にある柵越しにしか、彼女と会話をしたことがないと気づいた。
掌の傷を見て、彼女の顔が痛そうに歪む。まるで、自分が怪我をしているみたいに。それまで笑顔しか見せなかった彼女が見せた新しい表情に、酷く驚いたのをデリックは覚えている。
「傷の手当をしようとしてくれた。でも、オレの保護者がたまたま家から出てきた所為で、彼女は――」
そこまで淡々と話していたデリックは、しかし、口を閉ざした。続きを紡ぐことを躊躇うように唇が震える。幼いデリックが見た残酷な現実を、わざわざエリアルに話そうとしている自分に、戸惑いを隠せない。
ノースストリートの事件で、理不尽な目に遭った子供たちを見た所為だろうか。感傷的な気分は増すばかりだった。
夜風が窓を叩く。僅かに零れ入ってきていた外の明かりは、いつの間にか消えてしまっていた。皆が眠りにつき、探偵事務所の周辺の喧騒も失せている。まるで、滅びた世界に二人だけが置いていかれたような孤独を感じる。
静寂を破ったのは、デリックではなくエリアルの呟きだった。
「保護者」
「何か引っかかるって顔してんな」
「うん。両親、じゃなく?」
「両親じゃないんだよ。オレは孤児だ。さっき家って言ったけど、ようは孤児院だな」
デリックがあえて孤児院と説明しなかった理由は、余計な同情心を抱かれる必要を感じなかったからだ。気遣いも必要ない。物心ついた頃から既に独りのデリックにとって、両親がいないことを「可哀想」な境遇だと認識されても違和感しかなかった。
いないことが当たり前。それがデリックの人生で、日常だ。
「保護者は、子供たちに対して責任がある。そんで、オレは怪我をしてだらだら流血してるんだ。血相を変えて近寄ってきたよ。オレに触れていた彼女を怪我をさせた犯人だと思い込んで、な」
「それは、彼女がかつて罪を犯したから?」
「ああ」
彼女は怪我を手当てしようとしてくれただけだ。しかし、万が一、子供の保護を怠ったとノースストリートの自警団に報告でもされれば、孤児院の大人たちは罪に問われるだろう。
碌な確認もせず、元囚人というだけで、大人たちは彼女を叱責した。殴られて怒鳴られても、彼女は反論しなかった。反論すれば、それ以上に酷い仕打ちを受けると知っているからだ。
しかし、幼いデリックは反論した。大人たちに噛み付いて怒鳴った。彼女は悪くない。どうして殴るのか、と言って叫んだ。大人たちは煩わしそうに舌打ちして彼女を指差した。
「コイツは犯罪者だ! 私たちは制裁を加えているだけだ」
大人たちの言葉は、デリックの混乱を呼ぶ。デリックにとって、彼女は毎日のように笑顔で挨拶をしてくれる優しい人だ。丁寧に庭を手入れしている美しい女性。その彼女を、大人たちは犯罪者と呼んで蔑む。
「周りの評価と、自分にとっての彼女への印象がまるで噛み合わなくて、気持ち悪かったな」
「そうか……」
「ガキの頃から、周りにいた大人はよく言ってたよ。この街に生まれて幸せだって。ここは平和の街だ。ルールを守れば嫌な思いをしなくて済む。幸せな毎日を送れるって」
デリックは安楽椅子から腰を上げて、窓まで歩いた。窓の横に上半身を預けて、外の様子をロール式カーテンの隙間から眺めた。
空が少しずつ白み始めている。もうすぐ夜明けだ。すっかり話し込んでしまった。これでデリックは二日続けての徹夜だ。
「なぁ、エリアル。幸せってなんだと思う? 平凡に、周囲の目を気にしながら生きるのが平和で幸せか? ――その幸せの為に、誰かを踏みつけても? 周りが悪いって言ったら、それに従わないといけないのか? 自分はその相手を好きだったとしても。それが、正しいってことなのか?」
「デリック」
エリアルの声が背後からかかる。デリックは徐に振り返った。
「オレは、笑顔が綺麗な彼女が好きだった。汚れた手で、毎日庭を手入れしている彼女が好きだった。でも、大人たちは彼女を悪い人間だって言うんだよ。お前はどう思う?」
「――自分の気持ちって、相手がどう言おうと簡単には変えられないと思う」
「ずるい答えだな」
「そう?」
「オレはガキだったし、街の法なんか知るかって気持ちだったから彼女の味方をした。けど、彼女が言ったんだよ。庇うなって。自分は悪い人間だから仕方ないって」
「どうして?」
目蓋を閉じると、今でも彼女の顔が思い出せる。涙で濡れた目をゆらゆら揺らして、彼女がデリックから手を離す。震える指先が、地面に触れて土に爪を立てた。
「『人を殺したから』」
エリアルが息を呑む気配を感じる。デリックは、閉じていた目蓋をゆっくりと押し上げた。
「オレは彼女が好きだった。でも、彼女が犯した罪は、重い。悪い人間だって評価は間違ってなかったんだ」
デリックは、罪を告白した彼女から身を引いて、その場から逃げ出した。裏切られた気分だった。
美しい笑顔があっという間に散り散りになっていくような感覚に、叫びだしたいような衝動を覚えて訳も分からず涙が溢れた。
それから暫く、デリックは部屋に閉じこもり、彼女と会うことを拒否し続けた。――数日後、恐々と外に出たデリックは空っぽの庭を見てその場に佇むことになる。
伸び始めた雑草。水を与えられず、元気がないように見える植物たちに息が詰まる。デリックは柵を越えて隣の敷地に入った。どこを探しても、彼女はいない。
そして、そのまま二度と彼女と再会することはなかった。
「自警団に逮捕されたって、後から聞いた。彼女は何も悪くなかったのに。オレが怪我をしたのは結局オレ自身の責任で、彼女は無関係だ。でも、オレが閉じこもっている間に事実は捻じ曲げられて、彼女が子どもに怪我させたってことになってた」
深い後悔と罪悪感。そして、デリックの中に生まれた僅かばかりの安堵。彼女と顔を合わせずに済んだ。彼女に怯えた自分と向き合わなくて済んだことに安堵してしまった。
「ノースストリートの外に、箱の中じゃない世界に憧れてたのは本当だ。でも、たぶんオレは――」
「背を向けたんだな。自分の罪から」
エリアルの言葉が胸に刺さる。デリックは奥歯を噛み締めた。
ノースストリートは、デリックにとって後悔で溢れる過去を思い出させる。酷く不愉快で、恐ろしい場所だ。
エリアルの指摘は正しい。デリックは逃げ出したのだ。
ノースストリートから。己の罪から。
「彼女が逮捕されたのは、デリックの所為じゃない。でも、そんなことはデリックが一番よく分かってるよな」
こくりと、エリアルに頷く。
「彼女を逮捕させたのは周りの大人たち――君の保護責任を問われることを恐れた孤児院の保護者たちで、逮捕されることを受け入れたのは彼女自身の決断だ。事実と異なると、声を上げることをしなかったんだから」
「やけに饒舌だな、名探偵さんよ」
茶化すように言うと、エリアルの真っ直ぐな視線とぶつかった。やはり、この男の目は苦手だ。
「逃げ出したデリックが、キャサリンさんに出会って、スコットと出会って、今はここにいる。不思議な話だ」
「運命でも感じちゃったか?」
はは、と弱弱しく笑って見せたデリックに、エリアルが真面目な顔で頷いた。本気か。
「運命を信じたって良いだろう? 探偵だって」
「別に良いけどな。でも探偵って非科学的なモンは嫌ってるもんだとばっかり」
「それは、デリックの思い込み。探偵だっていろんな人がいる。考え方や信じるものだって、その数だけある」
「――つまり、何が言いたいんだよ」
含みのある言葉にデリックは顔を歪ませる。
「うん、だからさ。デリックが彼女を好きだって思ったことは、間違いなんかじゃないってことだよ」
窓の近くに置いてあったスタンドランプを掴んで、エリアルに投げつけた。彼が慌ててランプを避ける。当てるつもりで投げたのに避けるなよ――などと文句を告げる余裕はなかった。
デリックは顔を伏せて、片手で表情を隠すように目元を覆う。
「いちいちうるせぇんだよ、名探偵は」
「ごめん?」
「理由が分かってないのに謝るなって」
「ごめん」
少しずつ、窓の外から生活音が響いてくる。早朝から動き出した街の人々が、彼らの日常を始めた音だ。
窓に近づいてきたエリアルが、ロール式カーテンを引き上げた。
目隠しがなくなった窓から、柔らかな日差しが注ぎ込む。
「ノースストリートからデリックが逃げ出してくれたから、ランドルが助手と間違えて現場に連れて行って、スコットが指輪を見つけて……ノースストリートにデリックがついて来てくれたから、皆がノースストリートに入れて、誘拐された子供たちが救われたんだ」
「偶然だろ」
「偶然かもしれない。でも、デリックがノースストリートから出ずに、ずっとあの街で暮らしていたら誘拐された子供たちは救えなかったかもしれない。デリックが外の世界に出てくれたから、救われた人もいるんだ」
「詭弁だな」
ご都合主義だ。デリックは目元を隠したまま、口だけで笑った。
「デリックが、彼女を救えなかったって過去は変えられない。同じように、デリックが子供たちを救ったって過去も変えられないよ。詭弁とか偶然とか、どんな言い訳をしても」
自分の手で視界を奪っているデリックには見えないが、どうせ今もエリアルは隠した本音を暴くような真っ直ぐな目をしているに違いない。眩しくて、目を逸らしたくなるような、デリックの苦手とするあの目だ。
エリアルの双眸は、深い暗闇の中に囚われていた臆病だった過去のデリックさえも見つけてしまう。名探偵とは、言い得て妙だ。
「どうしてデリックはノースストリートの住民表に名前を残したままなんだ? ノースストリートもリディキュラスシティも出て、どこか遠くへ行くことだって出来たはずだろう?」
静かな声が、デリックに問う。言葉だけは疑問系だが、エリアルは既にその答えに気づいているような気がする。
「捨てられないんだよ。どんなに嫌な思い出があっても、生まれ育った場所だ」
デリックは苦々しく返す。
これから先もこの街を捨てられないままなら、リディキュラスシティでの楽しい思い出も、ノースストリートでの苦しい思い出も、全て抱えて前に進むしかない。
「デリック、ランドルの勘違い……現実にしてみる気はある?」
デリックは細く長い息を吐いた。漸く目元を覆っていた手を下ろし、隣に来ていたエリアルを見返す。
できれば関わりたくなかった連中だったはずが、すっかり捕まってしまった。情けなく足掻くのはここで終わりにするしかない。
デリックは腹を括った。
「助手じゃなく、この探偵事務所を乗っ取ってやるよ。覚悟しとけ」
口端を吊り上げて笑って見せた。エリアルが穏やかな笑みを返してくる。
二人の間に注ぐ日差しが空気でも反射しているかのように、きらきらと光って見えた。
「今日からデリックも、正式に俺たちの仲間だな」
短く返すエリアルの声はどこか嬉しそうだ。
エリアルに片目を瞑って、デリックは意中の女性を口説くように口を開く。
「そういう運命なんだよ」
彼らとの付き合いは、うんざりするほど長くなりそうだ。しかし、それも案外、悪くない。
デリックは、いつものように今日を生きていくだけだ。
ばかばかしくも愛おしい、この街で。
最終章、完結です。
初めてのオリジナル長編小説で、しかも初めてのミステリーで、いろいろと不手際があるかと思いますが、なんとか終えることができました。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!




