第4節
少女は震える声で、しかし、視線を逸らすことなくデリックを見上げたまま告げた。
「これ、お母さんにもらったもの、なの」
「お母さん?」
大切そうにぎゅっと握りしめられた小さな拳の中で、デリックが拾った少女のブレスレットがきらりと光る。
「お母さんはどこ? キミが無事だって連絡しないと」
デリックの言葉を、少女が消え入りそうな声で否定した。
「お母さん、もういない、から。ごはんがなくてお母さん、パンを盗んだの。そしたらつかまっちゃって、もう会えないの」
貧困に苦しみ、娘を生かすために犯した窃盗。
ノースストリートでは、軽微な犯罪であろうと重罪であろうと関係なく罰せられる。少女の母親は人権を奪われ、娘に会うことすらできない状況に追い込まれたのだろう。
ノースストリートの法は、弱者を救う。この街で生まれ育ったデリックは、その事実を肌で感じている。しかし、その一方で、二度と取り戻せない人生に辛酸を舐めている者もいる。それが果たして、どこまで正義と呼べる対処なのか、デリックには分からない。
「おかしいと思わないか?」
デリックの迷いを見抜いたかのように、スチュアートに連行され、船から降りてデリックたちの傍まで歩いて来たイアンが問うた。ニコラスとは正反対に、後ろ手で手錠を掛けられても平然とした態度のままだ。
「この子の母親がどうなったのか教えてやろう。」
「やめろ」
イアンの甘言に、少女が顔を上げた。少女とイアンの間に立ったデリックは、己の身体で壁を作る。
イアンが真実を告げる根拠はない。真偽の分からない言葉で少女に無駄な痛みを与えたくなかった。
彼の口を閉ざさせようとしたデリックの制止は、しかし、いとも容易く突破されてしまう。たった一歩でデリックに近づいたイアンが、デリックを押しのけて少女と顔を合わせる。
「あの世へ逝ったんだ。きみのお母さんはね」
「イアン!」
強引にイアンを退かせる。デリックの動きに応じるように、スチュアートがイアンの手錠を引いた。後退したイアンに背を向け、少女の前に膝をつく。
真っ直ぐにこちらを見返す少女の大きな瞳は、不安に塗り潰されている。
「お母さん、わるいことしたから、いなくなっちゃったの?」
少女の母親について語ったイアンの表情は、からかう調子も怒りも含まれていなかった。平生どおりの、冷静なままのイアンだ。それは彼の言葉が、虚偽ではないことを意味する。
少女の母親がなぜそのような結末を迎えたのか、詳細は本人でなければ分からないが、想像するのは容易だ。軽微な犯罪故に釈放された彼女は、人権を奪われ、理不尽な目に遭っていたに違いない。
人権を奪われた人間が、過去にどのような罪を犯したのかを知ろうとする者はいない。殺人であろうと窃盗であろうと、等しく罪人だ。
服役したからといって、その罪は一生消えない。そして、奪われた人権は二度と戻らない。人権のない彼女に、幸せな人生を送れたとは思えなかった。
「理不尽を変える。それが俺の革命だよ」
イアンが宣言する。
「ニコラスのような暴挙には出ない。この街を破壊したところで必ず綻びは出るものだからね」
ランドルが子供たちの誘導をライラに任せて、こちらに戻って来る姿が見えた。
イアンは騒がしい周囲をゆっくり見渡して、まるで選挙演説でもするかのように語り始める。
「俺は子供たちの救出を第一に考えてるよ。新しい芽を正しく育てるには、この街ではダメだね。この街は法という名の鎖で繋がれ、壁という名の檻で囲まれている。まず、この街から子供たちを救出する。外の人間たちを巻き込み、味方につけ、外からこの街の支配を奪う」
ノースストリートを植民地のようにすることが目的だろうか。ニコラスは街の破壊を求めた。イアンは街の再生を求めている。しかし、どちらにも共通する部分があった。
「革命に犠牲者はつきもの――か」
綺麗事を口にしたくはない。犠牲無くして変化はないのかもしれない。それでも、デリックはイアンの側にもニコラスの側にもつくきにはなれなかった。どちらの味方にもなりたくはない。
「子供たちを救出するって言ってるけど、ここの住人は傷ついても良いのか?」
燻っていたものを、言葉にしてくれた。エリアルがイアンの前に立っている。彼が今まさに口にした事実こそ、イアンとニコラスの両者に共通している部分だ。どちらもノースストリートの住人を無視している。
エリアルの指摘に、イアンが瞠目した。
「ニコラスとは違う。あいつはここを破壊しようとしていた。武器を手に、子供たちを人質にして、住人を脅そうとね。俺はそんな野蛮な真似はしないよ。武器は必要ない。剣よりもペンだ」
「でも、外からノースストリートを支配できたとしても、ここで暮らす人たちが幸せになるとは限らない。傷つかないって断言できないだろ? 変化を恐れる人は多い。法に縛られている状況から、突然解放されたとして……真実、法に守られていたか弱い人たちはどうなるんだろう」
疑問は、真実だ。エリアルの問い掛けがこの街の歪さを物語っていた。
彼の問いにイアンが初めて動揺らしい動揺を見せる。それまで揺らぐことのなかった双眸の奥の信念がぐらりと揺れた。
「今が革命の時って判断は間違いじゃない」
イアンを再び歩かせながら、ランドルが呟いた。彼の声を合図に、サイレンの音が近づいてくる。倉庫の周辺に停車した何台ものパトカー。その車体のサイドには堂々と「リディキュラスポリス」と刻まれている。
ノースストリートに、外の世界から続々と異端者がやって来た。パトカーから降りた警官たちが子供たちを保護し、船内の犯人たちを次々に検挙する。
「どうやって、ここに?」
呆然と零したイアンに、スチュアートが不敵な笑みを浮かべて見せた。
「本気で命の危険を感じ始めてたから、あんたの基地にお邪魔したときに手に入れたいろんなヤバイものを証拠として外に情報を漏らしたんだよ。あんた自身のデスクからは何も出なかったけど、部下たちの方はごろごろ出てきたからな」
太陽の陽射しが降り注ぐ。早朝の空気は心地良いものだが、イアンにはそれを感じている余裕がない。スチュアートを睨みつけて、動揺で唇を震わせている。
スチュアートは忍ばせていたチェーンのついた警察官バッジを取り出し、首にかけた。潜入捜査が今日で無事に幕を閉じた証だ。示されたバッジを目にし、イアンが険しい顔つきになる。
「お前、警官だったのか」
憎悪の籠る視線に、デリックは首を傾げた。ノースストリートに警官はいない。リディキュラスポリスさえ介入できない孤立した街だ――少なくとも、今日この時までは。
この街の住民が外の人間を嫌っている――正確には、警戒しているのだが――ことは周知の事実だが、イアンは警官に対して嫌悪以上の感情を見せた。個人的な怨恨があるのか。
イアンの仲間たちが手錠を掛けられ、パトカーに乗せられていく。その様子を黙って見つめるイアンの表情には、怒りが浮かんでいた。
「警官が憎いのか?」
口をついて零れた疑問はイアンの感情を逆撫でしたらしく、彼は鋭い視線をこちらに向けてきた。常に冷静さを失わなかった男とは思えない。
「憎いな。お前たちは憎くないのか? 警官が正義だと、信じて疑わない連中は馬鹿だ」
強風がデリックたちの傍を駆け抜け、倉庫の古びた壁にぶつかる。ギシギシと軋む音がパトカーのサイレンと混ざり合っって、まるで悲鳴のようだった。
デリックはイアンの口ぶりに違和感を覚えた。まるで、警官がどんなものなのか知っているかのような発言だ。否、まるで、ではない。イアンは知っている。
「アンタ、ノースストリートの出身じゃないのか」
デリックの言葉にイアンがゆっくり瞬く。肯定だ。ランドルとスチュアートが瞠目している。ノースストリートの一角を牛耳っていた男が、外からやって来た人間だと、一体誰が信じるだろう。デリック自身、疑いもしなかった。
「それにしては、うまく溶け込んだものだな」
感心したように呟いたランドルにスチュアートが頷く。イアンはデリックたちの反応を馬鹿にしたように鼻で笑った。
「外の人間がこの街の権力者になったことが不思議か? 外では警官とは名ばかりの連中が犯罪行為をしている姿を何度も目にしたよ。ここの方が、よほど正義が罷り通っている」
それも最近は、危うくなってきたが。
サイレンの音に掻き消されそうな小さな声で、イアンはそのように付け足した。それが、彼が革命を起こそうとしたきっかけなのかもしれない。
「まぁ、俺も警官だが、警官全員がクリーンだとは思っていないさ」
ランドルの問題発言にスチュアートが渋い顔をする。
それまで無言だったエリアルが、保護されている子供たちを穏やかな目で見つめながら口を開いた。
「情報提供者だったんだ」