第3節
勝利を確信したような顔で、イアンは胸ポケットから煙草を取り出す。
部下のケイレブが差し出したライターで火をつけた彼は、ゆっくりと煙を吐き出した。
「俺の掌の上でよく動いてくれたね。感謝しておこう」
慇懃無礼な態度で口先ばかりの感謝を述べて、イアンはニコラスを見下ろす。冷え切ったコンクリートの地面のように温度のない双眸が、ニコラスを無言で睨んでいた。
「ニコラスがイアンに黙って行動したのは事実みたいだな」
エリアルの指摘に、イアンは再び笑んだ。しかし、先ほどとは違い、自嘲が色濃く表れた笑みだ。唇で軽く銜えた煙草を上下に動かしながら、彼は興味もないと言わんばかりにニコラスから視線を外した。
子供たちを誘拐したのはニコラスの単独行動だったというのか。デリックはエリアルに視線を向け、その思考を探ろうとする。勿論、探れるはずもなかったが。
朝日が差し込み、倉庫内が徐々に照らされていく。闇に紛れていた木箱の山が完全に姿を現した。
「ニコラスは野蛮な男だったよ。俺は野蛮なことは嫌いだ。事を成すなら、常に上品であるべきだね。これは俺の持論だけど」
双肩を僅かに竦めて見せたイアンが、煙草を指で挟んで唇から離し、デリックたちの前に屈み込んだ。膝を折った状態で、腕を膝頭に乗せてこちらを窺ってくる。
「子供たちはこの木箱の中か?」
木箱に閉じ込められることの苦痛を身を持って知ったデリックは、一刻も早い子供たちの救出を願わずにはいられない。ニコラスに対するイアンの見解よりも、それは優先事項だ。
「この倉庫内のどこかだろう。勝手に探すといい」
イアンが抑揚のない声で告げて、片手を挙げた。押し当てられていた銃口が離れる。拘束されていた腕を、男たちが解放した。
「自由にするのか?」
デリックと同様に解放されたランドルが、怪訝な表情を隠すことなく疑問を口にした。
イアンはランドルを面白そうに見返し、指で弄んでいた煙草を唇に銜え直した。
「言っただろう。野蛮なことは嫌いだ」
予想外の形で自由を取り戻し、デリックは動揺しながらも周囲を見渡す。木箱の数は多い。全てを開けて中を確認しなければならない今、人手は多いに越したことはなかった。
当然ながら、イアンたちは手を貸すつもりはないらしく、素早く倉庫の外へ出て行った。
「まさか、この木箱全部に子供たちが閉じ込められてる、とかないよな?」
恐ろしい考えを口にして、デリックはエリアルを窺う。彼は木箱ではなく、イアンたちが去って行った方向を注視している。こちらの声は届いていないらしい。
「オイ――」
エリアルの肩に触れようとした瞬間、唐突に彼が振り返った。危うく彼の顔を叩いてしまうところだ。否、一度くらい叩いてしまえば良かったか。
「木箱に子供たちはいない」
「どうしてそう言い切れる?」
デリックたちのように拘束され、さらには口まで塞がれている可能性もある。しかし、エリアルが頭を左右に振って否定を示した。
「イアンは言ってた。野蛮なことが嫌いだって」
「ああ。だから勝手に子供たちを誘拐したニコラスに腹を立てて、オレたちに子供たちを解放させようとしてるんだろ?」
「野蛮は、子供たちを指して言ったんじゃないのかも」
ガン、と木箱の蓋が押し開けられる音が響いた。いつの間にか、ライラが強引に木箱を開けている。中から取り出したのは、デリックが気絶する前に見た銃器だ。次の箱も、別の箱も、中にあるのは全て武器だった。
「どういうことだ?」
ランドルが険しい顔で考え込む。ライラとスチュアートは、万が一を考え、木箱を手当たり次第に開けている。
「野蛮なことってのが子供たちのことじゃないなら、もしかして……この大量の武器のことか?」
不意に浮かんだ考えを言葉にすると、エリアルがゆっくり頷いて返してくる。紛れもない肯定だ。
「じゃあ、まさか子供たちは――」
デリックの声は、外から発せられた轟音に掻き消された。これは、船が動き出すときに聞こえる音だ。
「止めないと! 船でノースストリートを出るつもりなのかも!」
ライラが躊躇なく走り出す。後を追うように倉庫外へ駆け出すランドルたちに続こうとしたデリックは、しかし、足を止めた。
振り返って、倉庫内を見る。倉庫の近くには長年使用されていないクレーン車が一台止まっていた。クレーンの先は丁度、この倉庫の二階に向いていたはずだ。
デリックは倉庫の奥へと走った。二階へ上り、目張りされた窓の前に立つ。周囲を忙しなく見回し、埃を被ったパイプ椅子が壁に立てかけられているのを見つけた。
デリックはパイプ椅子を振り上げ、精一杯の力で窓に叩きつける。目張りされているため、ひび割れた窓からガラス片が飛び散ることはなかった。
しかし、まだ外との繋がりは切られたままだ。もう一度、パイプ椅子を振りかぶって窓に叩きつけた――その拍子に手が滑り、椅子が窓を突き破って外に落下していく。
椅子が地面にぶつかる派手な音は、上手い具合に船の音で掻き消された。窓から顔を出したデリックは、目の前にクレーンがあることを確認し、窓枠に足を掛ける。
「こわくないこわくない」
実は心底恐怖を感じているが、思いとは正反対の言葉を口にすることで少しは恐怖が和らぐことを願った。上着を脱いで、袖と裾の部分を左右の手で持ち、身体と掴んだ服でちょうど輪になるようにする。
下は海でもふかふかのクッションでもない。デリックを受け止めてくれるのは硬い地面だけだ。
船がゆっくり動き始めようとしている。躊躇している時間はない。ライラたちが船に向かって走っていく姿を見て、デリックは短く息を吐いた。数歩後ずさり、形ばかりの助走をつけて窓の外へ飛び出す。
手にした上着を振りかぶってクレーンの先から僅かに飛び出していたフックのような鉄の部品に引っ掛けた。
窓から飛び出し、重力に従って地面へ落下しようとする身体を、クレーンに引っ掛けた上着が支える。デリックの飛び出した力と体重に、上着が悲鳴を上げた。ビリビリと服が裂ける音で、デリックは恐怖を忘れ、慌ててクレーンによじ登る。
裂けた上着はそのままに、クレーンを下り運転席まで無事に辿り着くことができた。しかし、ドアが開かない。長年使われていなかったクレーン車は、開閉されることもなかったせいか、ドアが故障していた。
悠長に考えるための時間はない。天井に手を掛けたデリックは、上体を起こして後方支持回転――所謂、逆上がりの要領で下半身を浮き上がらせた。ドアの上部に設けられている窓ガラスに向けて膝頭を叩き込む。腐食して強度が落ちていたのか、幸いにも一度の衝撃で窓ガラスは砕け散った。
滑り込むように運転席に座ったデリックは、エンジンをかけてクレーン車の息を吹き返らせる。長年使用されていなかったはずだが、無事に作動した。
子供たちを救出するために、デリックはエリアルたちとわざわざこのような場所にまでやって来た。ここでみすみすイアンたちを逃すわけにはいかない。
今にも動きを止めそうな不協和音を奏でるクレーン車を強引に動かし、デリックは船に向けて進んだ。クレーンを可能な限り可動させ、船を追いかけるライラたちを追い越す。
クレーンの手が、船に引き上げられていく碇を掴んだ。
クレーン車をバックさせたデリックによって、船はランドルたちのもとに引き寄せられる。波打つ湖畔から水しぶきが上がった。船が今にも横転しそうなほど大きく傾ぐ。
「スコット!」
エリアルが探偵犬の名を呼ぶ声が響いた。岸に連れ戻された船に、スコットが飛び乗る。
――数十秒後、船の方向からスコットの鳴き声が聞こえた。その声と共に、船内が騒がしくなっていく。どうやら探偵犬が中で大暴れしているらしい。
クレーンに捕まれても前進しようとしていた船の動きが漸く止まり、エンジン音が消えていく。ぱたぱたと船の縁に駆けてくる足音。次いでわん、と聞き慣れてしまった声が届く。
スコットが口に銜えているのは船を動かすための鍵だ。
「オイシイところは全部持って行きやがった……」
まったく、と吐き捨てながらも内心喜んでいる自分に気づき、デリックは苦笑とも嘲笑ともつかない複雑な表情になる。このような結末も悪くない。そう思えることに、不満を感じないことから考えても、既に先程の表情の答えは出ているようなものだ。
「照れ隠し」
クレーン車から降りたデリックの背後から唐突に声が届いて、デリックは双肩を震わせた。肩越しに振り返ると、そこにはライラが立っている。
「ほら、見て。スコットがランドルに頭を撫でられてそっぽ向いてる。あれは嬉しいけど喜んでるって知られたくないときのスコットの反応」
「――ああ、驚いた。心を読まれたのかと」
デリックの返答に、ライラが不思議そうな顔をした。無言の問い掛けは受け流し、視線のやり場に困ったデリックはクレーン車を仰ぎ見た。釣られるようにライラもクレーン車を見上げている。
「そういえば、デリックはなんでクレーンを動かしたの? しかも二階から?」
「なんでって……船は出始めてたし、足じゃ水の上を歩いて追いつくなんてできないだろ? クレーンなら伸ばせばギリギリ船に届くかと思ってさ。でも、クレーンのあった位置が普通に行ったんじゃちょっと遠かったから、二階から直で行ったんだよ。時間短縮。名案だろ?」
片目を瞑ってライラに告げる。彼女は何度か瞬いて、デリックに笑顔を返した。
「案外、過激なんだDって」
可笑しそうに口許を緩めたライラが、デリックに応えるように片目を瞑って見せた。
「そういうトコ、私は好きだな」
率直で飾り気の無い賛美だ。デリックは頬を緩めた。
「――子供たちはあの中かな?」
船を見つめながら、デリックはゆっくりと子供たちの安否に思考を移す。落ち着いた足取りでこちらにやって来たエリアルが穏やかな表情を浮かべていた。
「みんな無事だ。船底の格納庫に監禁されてたけど、怪我はないってランドルが」
その言葉を聞いて、ようやく安堵した。
厚い雲はいつの間にか流れ、空には太陽が昇り始めている。周囲を照らす日の光の眩しさに、デリックは目を細めた。太陽が目に痛い。視界がぐらぐらと揺れて見えるのは、きっとそのせいだ。
「あ、出てきた!」
ライラが声を上げた。船から子供たちが連なって出て来ている。自分の足でしっかり歩いているところから見ても、大きな怪我もなく無事であることが窺える。
デリックは不意にポケットの中の存在を思い出し、子供たちに近づいた。広場で拾ったブレスレットをポケットから取り出す。デリックの手の中にあるそれにいち早く気づいた少女が、こちらへ駆け寄って来た。
「それ――」
「拾ったんだ。キミの?」
こくん、と大きく頷く少女は十歳にも満たない幼さで、両目いっぱいに零れんばかりの涙を溜めていた。暗い船室に閉じ込められ、恐ろしい思いを少なく見積もっても五年分ほどは経験したのだろう。
デリックはブレスレットを震える小さな手にしっかりと握らせた。頭をそっと撫でると、少女は堪えていた涙をぽろりと零す。
その小さな真珠の玉のような涙の粒が、少女の白い頬を流れ、地面の上で弾けた。
強引な進め方ですみません……!