変わらない、日常。
体が揺れている。
地震かと思い柊吾が慌てて飛び起きると、枕元にパジャマ姿の朱音が立っている。彼女の右手は柊吾の肩を控えめに掴んで、左右にゆらゆら力を加えていた。
「……遅刻する」
ふあい、と大きな欠伸をすると、柊吾はベットから上半身だけをムクリと起こした。そういえば今日から新学期だったか。部屋に掛かっている時計の方へ視線を上げると、八時三十分というデジタル文字が表示されている。
――――ん? 八時二十分?
「……遅刻だああああ!!」
柊吾は体操選手の如くベットから跳ね起き、壁に掛かっている制服をひったくった。
「ほら、朱音!早く着替えろ!」
素早く着替えを済ませながら、柊吾は檄を飛ばす。心も体もすっかり夏休み気分で油断した。この家から学校まで自転車で十五分程かかるから、これはかなり際どい時間だ。
「……着替えさせて」
バンザイした状態で朱音はそのまま突っ立っている。兄妹だというのに、どうして朱音はこれほどまで何もできないのか。
柊吾は朱音の部屋から夏用のセーラー服を持ってきた。慣れた手つきで朱音のパジャマを脱がせると、制服を着せていく。あっという間に胸元のリボンまでつけ終わった。
「ほらっ。パン!」
柊吾がテーブルに置かれた食パンを投げると、朱音はそれを器用に口でキャッチした。柊吾自身も一枚パンを咥える。そのままの食パンは味気なく、せめてジャムでも塗って食べたかったが、もちろんそんな余裕はない。
仕方なく柊吾は、素材そのものの味を楽しむ事にした。
自転車の鍵をポケットに入れた後、スマートフォンを内ポケットに押し込み、柊吾はタンスの一番下をゆっくりと引いた。ホルスターに入ったH&K社のUSP大型拳銃がずっしりと鎮座している。柊吾は弾がきちんと装填されているのを確認すると、ブレザーの内側にそっと忍ばせた。
職業柄、自衛用の武器はいつでも携帯していなくてはならない。もちろん今まで使ったことは一度もない。出来る事ならこれからも使う事態が発生しなければいいのだが。
「朱音っ! 急げ、もう出るぞ!」
柊吾が玄関へ走ると、後ろから朱音がトコトコとついてくる。自分の靴を履き終ると、柊吾は朱音に靴を履かせた。
「八時二十五分っ。後ろ乗れ!」
玄関を飛び出し、自転車を引っ張り出す。まだうとうとしている朱音を自転車の後ろに乗せると、柊吾は思い切りペダルを踏み込んだ。自転車は段々と加速していく。朝のひんやりとした空気が柊吾の体を掠めて行った。
「パパ…眠い……寝る」
「コラ。二人乗り中に寝るな。それにお兄ちゃんと呼べといつも言ってるだろう」
背中に寄りかかってくる朱音に、柊吾は言った。それにしても、この歳でパパと呼ばれるのはなかなか応えるものがある。若い男子の心というものは意外にも繊細なのだ。
少しだけ柊吾はしょんぼりした。
大通りに沿って疾風の如く走り、しばらくすると東都大学付属高校の正門が見えてくる。外観はまるでオフィスビルの玄関口の様に飾り気がなく、高校にしてはいささか寂しすぎる気もする。
しかし、寂寥としたその門は風紀委員の手によって、まさに今閉じられていく所だった。
やばいっ。新学期早々遅刻なんて、そんなのだめだっ。
正門が閉まるまでまだ時間はある。完全に閉ざされてしまう前に、あの言葉通りの狭き門を突破すればいいだけ。柊吾はまるでそれが命綱であるかのように、次電車のハンドルをきつく握りしめた。
「観測手っ! 現在の状況は!?」
柊吾の叫び声が響いた瞬間、今まで半分以上閉じていた朱音の目が一気に見開かれる。
「目標まで残り二〇〇メートル。移動速度三十二キロ、予想到達時間二二・五秒。」
「うおぉぉぉぉっ!! しっかり捕まっとけえぇぇぇ!!」
咆哮にも似た柊吾の声と共に、自転車がさらに加速する。
車道を走る車を追い越しながら、柊吾は自転車のペダルを限界まで回し続ける。
「いっけえぇぇぇぇぇ!!」
車の間を縫って後輪を少し滑らせドリフトしつつ、二人を乗せた自転車は閉まりかけている正門に突入した。自転車後部の金具が段差と接触し火花を上げるが、そんなのお構いなしだ。
隙間は残り一メートル、いや、それ以下だったかも知れない。
風紀委員達が唖然と見守る中で、柊吾と朱音は無事正門を突破した。
「ひゃっほー!! 敵陣突破あぁぁぁ!!」
柊吾は右手を高々と掲げた。その様子はさながら歴戦の勇者である。
そんな柊吾を余所に、朱音が体をもじもじさせながら呟くように言った。
「……パパ……カバン忘れた」
「――――マジで?」