2
カルロスはイリスを背負い、赤毛の少女について行く。
辿りついた先は一軒の小屋だった。
小屋の中に入るとこぢんまりとしたリビングがあった。
暖炉には火が灯っていて暖かい。
「おばあちゃん、おばあちゃん!」
赤毛の少女が叫んだ。
二度目は小屋中に響き渡る程の大声だった。
「煩い子だね。大声で呼ばなくても聞こえているよ」
階段を下りてきた老婆が言った。
曲がった腰に片手を当て、樫の杖をついている。
老婆はカルロスに気がついた。
「それ、どうしたんだい?」
「拾ってきた」
「そんなもん拾うんじゃないよ!」
老婆が先程の赤毛の少女と同じくらいの大声で言った。
しかしカルロスが背負っているイリスを見て赤毛の少女と同じ黄金の瞳を細めた。
「おや。まさかその娘、イリス・ド・バリーじゃないかい?」
一目でいい当てた老婆にカルロスは驚き、警戒するような瞳を向けた。
しかし老婆は気にすることなくゆっくりと歩み寄り、イリスの顔を眺める。
「霧の魔力に当てられたようだね」
森に入ってすぐにイリスは霧の違和感に気がついていた。
カルロスはそれを思い出し、顔を歪めた。
「ふむ。いいだろう。こっちへおいで」
老婆はリビングから近い一室に入った。
窓際にベッドがひとつだけ置いてある小さな部屋だった。
カルロスはイリスをそこに寝かせる。
老婆はイリスの顎に手を遣り、顔の向きを変えたりして観察している。
「イリスは大丈夫なのか?」
カルロスは老婆に尋ねた。
「眠っているだけさ。すぐに死にゃあしないよ。――けど眠りが深いね。ちょっと待ってな」
老婆はそう言って部屋を出た。
カルロスは落ち着かない様子でイリスを見つめている。
「あんた座りなよ。なにもできないんだから。おばあちゃんに任せておけば大丈夫」
赤毛の少女が言った。
カルロスが振り返った。
赤毛の少女はドアの横の壁に背を預けて立っていた。
黄金の瞳で部屋の隅にある椅子に目配せをする。
カルロスはその椅子をイリスが眠るベッドの傍に置いて座った。
イリスの手を掴んで、祈るように見つめる。
イリスは瞳を閉じたまま、身動きひとつしなかった。
老婆が部屋に戻ってきた。
手には小さなグラスを持っている。
紫色の液体がそこに入っていた。
「フィオナ、手伝いな」
赤毛の少女の名はフィオナと言うようだ。
フィオナはイリスの体を支えて起き上がらせた。
老婆がグラスを傾けてイリスに飲ませる。
それをカルロスは心配そうに見ていた。
「これで大丈夫なのか?」
「ああ。イリス王女は魔力に敏感のようだ。霧の魔力に当てられたのもそのせいだろう。今飲ませたのはそれを解毒する薬だよ。あとはイリス王女次第だ。彼女に目覚める意志があればその内に目覚めるだろうよ」
老婆はそう言って部屋を出た。
「イリス、目覚めろよ。でなければ許さないからな」
カルロスはイリスの手を再度握った。
イリスは薄い茶色の瞳を開けた。
そこは見慣れた自分の部屋だった。
ぼんやりとしたまま視線を動かすとそこには父と母がいた。
「おはよう、イリス」
「よく眠れた?」
イリスは眠い目を擦りながら体を起こす。
父と母は優しげに微笑んでいた。
そうだ、今日は待ちに待ったはじめて参加するお茶会の日だ。
――そこにいたのは五歳の幼いイリスだった。
イリスはメイドたちに囲まれて支度をする。
今日のために仕立てた若葉色のドレスの袖を通した。
『イリス』
耳元で誰かの声が聞こえたような気がした。
イリスは辺りを見回すが、すぐに忘れたように微笑んだ。
「姫様、可愛らしい」
「よくお似合いです」
メイドたちは口々にイリスを褒め称えた。
ココアブラウンの髪に櫛を通して整えてもらい、支度を終えるとイリスは嬉々として部屋を出た。
城の大広間の大きな円卓に父と母と並んで座る。
大広間のお茶会は選ばれた人しか参加ができないもので誰もが参加できる庭のお茶会とは違った。
どことなく緊張感が漂っている。
イリスはそれに次第に飽き、目を盗んで抜け出した。
すると庭からにぎやかな声がしてイリスはそれに惹かれる様に歩きだした。
城の庭では街人も遊牧民も関係なく集い、お茶を楽しんでいた。
そんな和やかな雰囲気にイリスは瞳を輝かせた。
こんなにたくさんの人ははじめてだ。
見慣れぬ服を着ている人もいる。
ひとりの子供がこちらを見ていた。
オレンジの髪を肩の長さまで伸ばし、革のベストを着た子供。
一見では性別の見分けがつかない中性的な雰囲気の子だ。
――カルロスだわ。
イリスはそう思ってすぐに首を傾げた。
どうして私は彼を知っているのだろう。
『イリス』
また誰かがイリスを呼んだ。
声の主を探して、空を見上げた。
突き抜けるような青い空だった。
イリスはまた少年に瞳を向ける。
その少年の瞳は草原を思わせるような綺麗な緑の瞳だった。
少年がイリスに小さな手を伸ばす。
イリスがその少年の手を掴もうとした。
しかし次の瞬間、戸惑うように手を引いた。
なにか大切なことを忘れているような気がした。
それはなんだろうか。
思い出せない。
少年は笑みを浮かべ、イリスに手を差し伸べている。
その少年のうしろに似た少年の幻影がぼんやりと浮かんだ。
背はもう少し高く、オレンジの髪を短くした少年だった。
『イリス』
その幻影の少年がイリスを呼んだ。
「カルロス!」
イリスがそう叫んだ。
その瞬間、お茶会の景色がぐにゃりと揺らいだ。
目の前から色も音も消えて、気がつけばイリスは暗闇の中にいた。
イリスの姿は十歳のイリスだ。旅の姿に戻っていた。
ぼんやりと目の前になにかが現われた。
それは次第に一人の少女の姿になる。
ココアブラウンの髪、薄い茶色の瞳の少女に。
――その少女は五歳のイリスだった。
「どうして誰も時が止まったことに気がつかないの? どうして私をそんな目で見るの?」
五歳のイリスは座り込み、そう言って泣いていた。
イリスは息を飲む。
それは心の片隅にずっとあった気持ちだ。
「こんな世界だいきらい」
イリスの胸に冷たいものが落ちた。
――そうだ。あの世界に戻る意味などあるのだろうか?
冷たい、冷たいあの世界に。
イリスはゆっくりと薄い茶色の瞳を閉じた。
『イリス!』
イリスははっと瞳を開く。
そして首を横に振った。
「だめよ、戻らないと。カルロスとともに時が止まった原因を探すんだもの。そのためにここまできた。ここで諦めてはだめよ、イリス」
イリスは自分に言い聞かせるように言った。
五歳のイリスが立ち上がる。
その顔には表情はない。
「時が止まってもいいじゃない」
「よくない!」
「どうして?」
五歳のイリスはじっとイリスを見つめていた。
それをイリスが戸惑うように見返す。
「――だって時は過ぎるものだから」
『イリス、こっちだ!』
暗闇に光が差した。
イリスはその光に手を伸ばす。
そしてまばゆい光が辺りを包んだ。
イリスは身じろぎをすると瞳を開いた。
その先にあるのは見慣れぬ天井だった。
「起きた?」
少女の声が聞こえた。
赤毛の少女――フィオナだ。
フィオナはきびすを返して、部屋のドアを開けた。
「おばあちゃん、おばあちゃん!」
「そんな大声で呼ぶんじゃないよ」
フィオナの声も大きかったが、老婆の声の方が大きかった。
フィオナは肩をすくめながらイリスの方に戻ってくる。
「おばあちゃん、耳が遠くて大声じゃないと聞こえないの」
イリスは笑みを浮かべ、体を起こした。
その時、手にぬくもりがあることに気がついた。
視線を向けるとそれはカルロスだった。
椅子に座り、イリスの手を握っている。
そしてベッドに顔を伏せていた。眠っているようだ。
「さっきまで起きていたんだけどね」
フィオナがそう言った。
イリスはカルロスの短い髪に触れる。
それは意外と柔らかかった。
イリスは夢の中での出来事を思い出していた。
カルロスの呼び声がなければ、あのままずっと夢の中にいたかもしれない。
「ありがとう」
イリスが小さく言って、カルロスの頭を優しく撫でた。
カルロスは短く声を上げて、擽ったそうに身じろぎをする。
イリスは慌てて手を離した。
老婆が部屋に入ってきた。
イリスを見て満足そうに笑う。
「うん。もう大丈夫そうだ」
「私、一体……」
「霧の魔力に当てられたんだ。三日も眠っていたんだよ。あと数日も寝ていたら死んでいただろうね」
「三日も?」
イリスは驚いた顔で老婆を見た。
「そうだよ。起きられるかい?」
イリスは頷いた。
リビングのソファーに座り、イリスは部屋を眺める。
部屋の隅には暖炉があり、中央には木製のダイニングテーブルが置かれていた。
壁には手作りのタペストリーが飾られている。
老婆が暖かい粥を持ってきてくれた。
イリスはゆっくりとそれを口に運ぶ。
優しい味がした。
イリスが粥を半分程食べた頃、バンと扉を乱暴に開ける音がした。
イリス、老婆、フィオナがなにごとかと振り返る。
「イリスがいない!」
そこには血相を変えたカルロスが立っていた。
頬には跡がついている。
老婆とフィオナが声を上げて笑った。
カルロスは眉を顰めたあと、イリスの姿に気がついた。
「起きたのか?」
イリスがうなずくとカルロスは傍に駆け寄った。
そしてイリスの顔に触れ、腕に触れた。
「もう大丈夫なのか?」
「うん。もうなんともない」
カルロスはほっとした顔をして力が抜けたように床に座った。
「イリスが倒れた時はどうしたものかと……」
オレンジの短い髪をかき上げる。
イリスは椅子から降りて膝をついた。
「ずっと夢を見ていたの。カルロスとはじめて出会った時のこと」
カルロスはきょとんとしたようにイリスを見た。
イリスは見ていた夢の話をした。
その時にカルロスの声が聞こえていたことも。
「そうか」
カルロスはそう一言だけ言った。
視線を下げ、口元に小さな笑みを浮かべていた。
老婆がカルロスも椅子に座るように促した。
「それでイリス王女たちは一体どうしてここまできたんだい?」
イリスは驚いた顔で老婆を見てからはっとしたようにカルロスを見た。
それは「なんで言った?」と言わんばかりの責めるような目だった。
カルロスは慌てて首を振る。
「俺がイリスのことを話すもんか。このばあさんは俺が言う前からイリスを知っていた」
イリスは老婆に視線を戻す。
「どうして私のことを知っているのですか?」
「この大地の上のことはよーく見えるからね。イリス王女のことも何度か見たことがあるよ」
そう言って老婆は深い皺の入った顔に笑みを浮かべた。
「――あなたが森の魔女なのですね」
「ああ、そうだよ。隣にいるのはフィオナ。孫娘だよ」
赤毛の少女がにっこりと笑う。
イリスもつられるように微笑んだ。
そして森の魔女に顔を向ける。
「お尋ねしたいことがあってきました。あなたは時が止まったことを知っていますか?」
森の魔女は面食らったような顔をしたあと「そうかい、そうかい」と納得したように何度か頷いた。
「だから森がざわめいているんだね」
「森がざわめいているの? もしかして雨が続いているのもそのせい?」
フィオナが驚いたように森の魔女を見た。
森の魔女は呆れた目を向ける。
「お前は森を歩いて一体なにを見ているんだい。まったく」
フィオナはバツが悪そうに舌をちょっとだけ出した。
「一体いつからだい?」
「九度目の秋を迎えました」
「そうかい。千年も生きると、時に疎くなって嫌だね。――うん? 九度前の秋か。ちょうどその頃、北の荒野に住みついた魔女がいたね」
「北の荒野だって?」
最初に森の魔女の言葉に反応したのはカルロスだった。
テーブルに身を乗り出した。
「北の荒野?」
イリスがカルロスに尋ねた。
「北の最果てだ。荒れ果てた土地で、足を踏み入れた者は誰一人として帰ってこないという」
カルロスの言葉を聞いて森の魔女が大声をあげて笑った。
「それは言い過ぎさ。だが人の生きる土地じゃあないね。それでもイリス王女は行くと言うかい?」
「行きます。時が止まった理由を知りたいから」
「言うと思ったぜ……」
カルロスはイリスの隣で頭を抱えた。
片目だけ開いてイリスを見る。
「分かっているのか? ここから何カ月もかかる道のりだぞ?」
「だけどここまできて引き返すの?」
イリスの瞳に見つめられてカルロスは言葉を飲みこんだ。
そして重いため息をつく。
「わかった。わかったよ。どこまでだってつき合ってやるよ。イリスひとりじゃ危なっかしいや」
カルロスはそう言って降参したように両手を上げた。
「あんたたち二人だけじゃ心細いね。――フィオナ、ついていってやりな」
「え? やだよ。めんどくさい」
フィオナがあからさまに嫌な顔をした。
「じゃあわしがついて行こうか。その代わりフィオナは森の世話を頼むよ」
フィオナがぴんと背筋を伸ばした。
そして慌てた様子で言う。
「分かった! 私が行く」
「最初からそう言っていればいいんだよ」
森の魔女が呆れたように言った。
「なぁ、空とか飛んですぐに北の荒野に行く方法はないのかよ?」
カルロスがそう言うと森の魔女の眉がピクリと動いた。
「あるよ。フィオナとイリス王女はまぁ……問題ないとして、カルロス、あんたが空を飛べるようになるのには……十年といったところかな」
「なんだって?」
カルロスが目を丸くした。
フィオナが「ぷっ」と吹くように笑う。
「足手まとい」
「おい、この口か? この口が言ったのか?」
カルロスは口元を引きつらせながらフィオナの頬を横に引っ張る。
「いひゃいよ。はなひなひゃいよ」
フィオナは顔を痛みに歪ませながら言った。
イリスと森の魔女は、おかしそうに笑っていた。
翌日、イリス、カルロス、フィオナはさっそく旅立つことにした。
森の魔女は小屋の外まで見送る。
「じゃあおばあちゃん行ってくるね」
フィオナが森の魔女の前に立って言った。
その顔は昨日とは打って変わって明るい。
旅に期待しているようだった。
「ああ、世界を見てきな。それも修行の内だからね」
フィオナはうなずく。
森の魔女はイリスに目を向けた。
「イリス王女、あんたは時が止まったことに気がついた特別な子だ。それにはきっと意味があるはずさ。諦めるんじゃないよ」
イリスも森の魔女の瞳を見ながら力強くうなずいた。