冷たい世界
寒いね、と隣に座った彼女が呟く。確かに最近はすっかり夏の気配も消えて、残暑という言葉も季節外れになってきた。どちらかといえば、すっかり秋という言葉が似合うような気温。ジーンズにパーカーの俺でも少し肌寒さを感じる。芝生にひいた安いレジャーシートの上で、ぎゅっと膝を抱きかかえれば隣から笑い声が聞こえた。
「ほら、こっち来なよ」
くい、と袖を引っ張られ拳一つ分彼女に近づく。パーカーの上から彼女が肩にかけていたストールが、ばさりと俺の肩にかけられた。今見上げている夜空みたいに紺色のそれは、柔らかくて甘い香りがする。くん、と端っこを鼻に近づけて匂いをかいでみると後頭部を叩かれた。
「何してんの、馬鹿」
「だからって、いきなり殴るなよ」
「あ、鼻水つけないでよ」
「誰がつけるか」
アホ、とため息混じりに呟いて顔を上に向ける。晴れ、という予報を信じてレジャーシートまで引っ張りだしたのに。お目当ての美人は、恥ずかしがって出てきてくれやしない。後もう少し、もう少しと思うけど、さっきから一向に出てくる気配がなく。弱い夜風が俺たち二人の間を通り抜けていくだけ。
「なあ」
「何さ」
「この匂いって、香水?」
「……そうだけど」
「へぇ」
いつの間に香水なんてつけるようになったんだ、と驚くけれどなるべく表には出さないように。どうしてこの匂いを選んだんだ、とか。いい匂いだな、とか。そういう言葉は喉に絡まって唾と一緒に飲み込んだ。
「友達がね、誕生日にくれたから。いい匂いでしょ」
「お前には大人っぽすぎ」
こういうのは赤い口紅が似合うようなお姉さんがだな、とからかうように言えばもう一度平手が後頭部にぶつかった。さっきの倍以上の力をこめて。
「いっ、てぇ」
「もっとこう、素直に褒めるとかできないわけ?」
「いい匂いってのは認める。でもお前に似合うかって言われたら微妙」
じゃあ返せ、とストールを引っ張られたので慌てて両手で前をかきよせる。もうすっかりストールのぬくもりに体が慣れて、こいつを失うとかちょっと勘弁。
「ったく、すっかり生意気になりやがって」
「生意気なのは弟の特権だ」
「じゃあ弟をパシるのは姉の特権な。ココア買ってきて」
今座っている場所から歩いて一分ほどの場所にある自販機を指さし、彼女がにっこりと笑う。金、と手を差し出せば二人分の小銭が乗せられた。仕方ないな、とわざとらしくため息をついてゆっくり自販機を目指す。歩くとストールに染み付いた香水の香りが、さらにはっきりとわかるようだった。
「ココア、ココア」
甘くて熱いココアと、無糖の缶コーヒー。いつからココア二本じゃなくなったっけ、と熱い二つをストールで包みながら手にして姉の待つ場所へと戻る。おかえり、と彼女が振り向いた瞬間。まんまるお月さまが雲から、顔を出し世界は輝いた。姉の周りだけが、冷たい光の中で。俺は踏み込むのを思わずためらってしまった。あまりにもそこは、美しくて。
「何してんの、早くココアちょうだい」
「……おう」
凍りついた俺の足を動かしたのは、彼女の声。大きく深呼吸をして、体温を奪い去りそうな冷たい光へと足を踏み出した。