プロローグ
そこは真っ暗な空間だった。周りは何も存在せず、一片の光すら見えない。光も無ければ、音すら聞こえない。闇に閉ざされてしまっている世界。普通では考えられない所。そんな場所に彼は居た。
(ほんとに此処どこ…… さっきから指一本動かせないし、何か落ちてる様な感覚するわで…… いい加減勘弁してくれよぉ…………)
彼は既に4時間ほど、この真っ暗な空間の内に居る。気づいた時にはこの空間にいて、一切の身体の自由が利かなくなっていたのだ。そして彼は身体の自由が利かない状況で、4時間もの間、不安をまぎらわすかの様に此処はどこか、何故こんな場所にいるか、と考えていた。
何も見えない、感じない、と言う状況で2つの事を考えるだけの4時間は、途轍もない苦行だっただろう。しかし、彼には現実逃避をする為に縋る物がそれしか無かったのだ。
いや…… そもそも、そんな事を普通の人間が出来る筈がない。通常は集中力が切れてしまい、4時間もの間2つの物事だけを考えるなど不可能だ。もしかしたら、この空間に何か関係が有るのかもしれない。
(あ、あはは………… もうわかんねぇよ! 此処は一体何処なんだよ!!)
長い時間、現実逃避をしていた彼にも、ついに限界が訪れる。もう既に心は限界だった。何時の間にか謎の空間に居て、身体も動かず、4時間もの間、1人孤独に不安と戦い続ける。
寂しい、怖い、と言った感情が爆発して、声には成らずとも心で独り吼える。でなければ狂ってしまいそうだった。
(もう嫌だ!! なんで! 何でだよ!! なんで俺がこんな目に遭わなきゃならないんだ!! もういいだろ! 夢なら覚めてくれよ!!)
(なんでだ!? 何でこうなった!? 何がいけなかったんだ!? 俺はさっきまで…………! さ、さっきまで俺は、な、何をしていた…………?)
理不尽な出来事に対する怒りが急に覚めて、彼は不審に思う。なぜ思い出せない、と。
(な、何でだ! つい今さっきまで解ってた筈じゃないか! 何で解らなくなってる! え? まて、つい今さっきて何時だ……? 俺は何時からここに居る…………?)
(お、俺は………… だ、誰、だ…………? お、思い出せない、何もかも思い出せない!)
彼から色んな記憶が消えて行った。此処に来る前の記憶も、自分の家族も、友達の事もそして…… 自分の名前でさえも。
(いやだ、いやだ! 嫌だ! いやだ! 嫌だ!! 何もかも忘れて一生こんな所で生きていくなんて、嫌だぁあああああああああああああ!!)
彼が心の中でそう叫んだ瞬間、今まで何もなかったこの空間に変化が生じた。彼から見て真正面に小さい光が見えたのだ。そしてそれを切っ掛けに、彼の身体に少しづつ感覚が戻り始めた。
まず首から上の感覚が戻り、目の乾き具合から今まで瞬きをしていなかった事を知る。次に腰から上の感覚が戻り、最後に足の感覚が戻った。そしてその瞬間彼は走り出した。身体が重く感じて足がもつれ、何度も転びそうになるが躊躇わずに走り続ける。あの光の向こうに希望があると信じて。
記憶とは人格を形成する為に最も重要な情報であろう。その人物が生きてきて感じた事、思った事が少しづつ記憶に蓄積していってその人物の人格を形作る。言わば心そのものなのかもしれない。
もう彼の頭の中には記憶と言うものが殆ど入っていなかった。そして最後に残っている記憶も、もし、あの光の元へ辿り着けたとしても全て消えているだろう。しかしそれを解っていながらも彼は走り続ける。そして気づいた頃には小さな光が大きくなって間近に迫っていた。
(ああ、どんどん色んな事が分かんなくなってきた。何で俺こんなにがんばってるんだろう…… ああ、憶えてた。そうだよ俺は…………)
その瞬間彼は光に包まれた。




