血痕へと向かった男
「臨時ニュースです。東京都X区で殺人事件が発生した模様。犯人は逃走しており、未だその行方はつかめておりません。」
午後8時、このニュースがテレビを通してお茶の間に流れたときの、多くはX区に住む人々が殺人者の近くに息を潜めているかもしれない事実に心身の底冷えするような恐れを覚え、また明日にもそれに出くわすかも知れない未知の未来に多少の好奇心を抱いたのであるが、数十分後にはその男が捕らえられたことを知らせる臨時ニュースが再び流れ、すぐさま彼らの「非日常」は終りを告げ、安堵し落胆するのであった、が、その彼らに更なる興味を抱かせたのは、後に安タブロイド紙を騒がせることになるその事件の経緯であった。
どの紙面にも他誌との差異を図るためかいささか品の無い誇張や脚色の類が覗え、その言葉の数々に全くの信頼を持てるとも言えないのであるが、それは下らなくも衝撃的な内容であるため、その雑誌らのそのまた下品な読者達にはよほど満足いくものであったのだろう、その事件を扱った記事のある雑誌は日頃の低調に比べれば幾分売り上げが良くもあり、その年に小さなムーブメントすら起こしたのであった。
その経緯とはこのようである。
9月8日木曜午後3時、東京都X区にある公衆便所の一室で住所不定の男の刺殺体が発見された。
齢50を越えた辺りと思われる中年の男の死体の周りには体を何箇所も刺されたものであるのだろうと思われる、無残にも散らばった血痕が所々に広がっていた。
さてその犯行を行った犯人であるが、当初捜査は難航するかと思われていたものの、その日のうちには被害者の返り血を浴びたジャンパーが脱ぎ捨ててあるのを近くの川辺で発見され、その右ポケットには間抜けにも名刺が残されており、あっけなく御用になってしまった、のであるが、この事件の特異性はここからにあるのである。
その男、殺人を犯した後どうなったのであるかよほど気になったのであろう、小心にも現場に戻ってきたところをそこに待機していた一人の警官に捕らえられており、一度はこのまま刑務所へと引き渡され、暗い投獄生活が待っているのだろうと諦念にを心中いっぱいに抱いたのであるが、二人の交番へと向かう道中、男を捕らえていた警官の、ある奇妙奇天烈な行動により、なんとその男は再び逃げ出すことに成功したのだった。さて、この事実は当然ながら後々問題となっており、なぜかその警察官当人からはあまり事情を知ることはできなかったのであるが、その後に行われた尋問の中での容疑者の言によるとその場の成り行きとはこのようなものであると推察されるようになった。
・ことの経緯(警官が消えた件について)
警官「おい、お前も不運だったな。まさかこんなにも早く事が知れてるとは思わなかったろう。このあと酷くしょっ引かれるだろうから覚悟するんだな」
男「俺じゃねえ、俺じゃねえよ。たまたま通りかかっただけなんだ。俺には関係ねえだろう。」
警察「黙れ、犯罪者。お前の人生はもう終ってんだよ。ははは」
男「くそ、離せよ、勘弁してくれよ」
警察「うるさい!せいぜい裁判で雇う弁護士の心配でもしておくんだな。」
男「だから、俺じゃねえって!」
警察「ははは!」
と、二人の会話はこの後も続くのだけれど、言葉も少なくなり、男も喋る気力も無くなった頃にそれは起こったのだった。
ぎゅるる!ぎゅるるるる!
男「!!!なんだ!さっきの妙な馬鹿でかい音は!」
警察「う…う…」(なぜか満身創痍。)
男「何が起こったってんだ、あんたわからねえのか」
警察「う…う…うるさい。黙れ…」
男「ん?一体どうしたんだあんた。急に深刻な顔つきになって。」
警察「黙れと言ってるだろ!」
男「一体どうしたんだ!?」
警察(息も絶え絶えにしながら)「う…う…おい、お前、俺は急用を思い出してこの場を一度離れるが…絶対にお前はここを離れるんじゃないぞ!じゃないとお前は殺しの上に逃亡の罪も被ることになるからな!覚悟しておけよ!分かったな?絶対に離れるなよ、絶対だぞ!!いいな!?」
と言い残し猛烈な駆け抜ける音が響き渡り、その後の男の言によると、警官は息もつかせぬようなスピードで来た道を戻っていったのこと。もちろん、その場にいるようなこともなく男は逃げだしたのであるが、よほど運が悪い男なのだろう、一生懸命に逃げた先にも事の次第を知る別の警官がいて、そこで抵抗むなしく御用になってしまったらしい。取り逃がした方の警官はというと、真っ青な顔で同僚のもとに現れ、案の定、上司のお怒りをくらい、懲罰を受けたのであるが、その場にいた者の言によると、その表情には戸惑いと苦しみと共に、一種のあきらめに似た悟りのような感情も見てとることができたという。
これはあくまで、タブロイド紙に載っていたことであるし、警察から正式に公表されたことではないので事の真偽は分からない、が、それらの記事によると、その日、犯人が捕らえられた後の、飛び散った血痕の散乱する公衆便所の一角には、常人では堪えがたい臭気をもった臭いと共に、液状と固体状の混在した茶色の物体が、便座へと向かう道中半ば、それもそのすぐ先というところで、大量にぶちまけられていたという話があるとかないとか。